やっぱり漢字は書けた方がいい

このところ、「漢字」や「雑学」に関するクイズ形式のバラエティ番組が人気を博しているが、クイズにうるさい私に言わせてみれば、そのほとんどはナンセンスである。漢字検定2級の問題が解けたからって、冠婚葬祭のマナーを知っていたからって、なにが嬉しいのかまったくわからない。所詮、そういうのは勉強と練習の賜物でしかなく、実際、品川祐のような雑学本を読みまくっているタレントが、いかにも賢そうにウンチクを語り、「インテリ芸人」と呼ばれることになるのである。あるいは、もともと「インテリ」とはそのような人間のことを指す言葉なのかもしれないが。

だから、「漢字」や「雑学」クイズに正解するなんて、トレーニングを「した」か「していない」か問題でしかない。もちろん、多くのひとはそのようなトレーニングは「積んでいない」ので、あまり解けない。しかし、別に悔しいといったこともない。なぜなら、その「漢字」や「雑学」は、必要に迫られれば、自然と身に付くような知識であり、身に付いていないということは、おそらく当分の間はその知識が必要とされることがないからだ。知って得するというほどでもないし、知らなくて恥ずかしいということもない。

そのような場合、視聴者側の問題に対する熱意は、その問題分野が自分の関心領域と符合しているかどうかで、大きく左右される。例えば、私は、日本史の問題は得意でないし、そもそもあまり解く気も起こらないが、地理の問題はわりと好きだし、問題に取り組む意欲は格段と高くなる。そのような、受け手側の関心領域の断絶の問題をクリアするための、「漢字」「雑学」といった、広範に誰でも興味がありそうな問題設定なのかもしれないが、しかし日常的だからといって、熱意が向上するというわけではないだろう。それは単に、知る必要もない知識を知りたがり、常に知識を溜め込み、新しい情報を求めてしまうという、人間の悲しい性を利用したものでしかない。しかし、ここでいう熱意とは、受け手として知識や情報を与えられることからではなく、あくまで与えられた問題に解答するという、自分の脳をフル回転させて、すでにある知識を導き出すことにあるはずだ。

自分の頭の回転の早さをもって、与えられた問題と、他の解答者と勝負する。私の思う、本来のクイズの在り方とはそういうものである。では、頭の回転の早さとはいったい何だろうか。

たとえば、私はさま〜ずと優香の「Qさま」の、制限時間内に「ハン」と読むひと文字の漢字をできるだけ多く書けという類いの問題を、テレビの向こうで一緒に挑戦してみると、いくら頑張っても、京大出身お笑い芸人ロザン・宇治原に勝てない。このとき、私は本気で悔しい気持ちになり、自分より能力の高い宇治原に嫉妬してしまう。この手の、量を競う問題では、知っている知識の幅を試されているのではなく、どれだけ俊敏に誰でも知っている簡単な漢字を想起させられるのかが、問われている。そのため、知らなかったでは済まされない、純粋に自分の脳の欠陥という結論にしか至ることができず、私は悔恨と嫉妬の念に駆られるのである。

こういうと、「結局、頭の回転の早さって知能指数のことなんだ」と短絡的な結論に向ってしまいそうになるので、もう少し別の角度から、先ほどの「Qさま」の例を問題提起として考察してみたい。

一般に、パソコンや携帯が普及してから、若者を中心に自筆で文字を書くことが少なくなったという。確かにそれは事実だし、変換機能に頼りすぎてしまっていることによって、難しい漢字が読めるひとが、ごく簡単な漢字を書けないという事例も枚挙にいとまがない。「憂鬱」という字は、いまや中学生でも読めるだろうが、大人でも正確に書けるひとはほとんどいないだろう。ときに、このような事態を、テクノロジーの利便性にあぐらをかいた知能の低下だと、オトナたちの若者批判の格好の実例として挙げられる。しかし、その手の揶揄は本当に的を得ているのだろうかというと、おそらく、そう単純なものでもない。

漢字の学習というのは、脳による記憶の機能だけで行われるものではない。「憂鬱」という字を長時間ながめて学習するよりも、何度も繰り返しノートに書き写すほうが、断然効果的である。それは頭で漢字を覚えたというよりは、腕が漢字の書き方を記憶しているということだ。これはメルロ=ポンティのいうところの「習慣の獲得」というものだ。そこでは、あくまで漢字を書くことを可能にしているのは、習慣としてそれを獲得した身体の側である。

しかし、習慣は当然、環境の変化によっていくらでも更新されることが可能である。書く行為が習慣としての役目を終えたら、今度は別の習慣が身体に更新される。つまり、ペンを持って字を書く能力が、生活環境の変化によって、タイピングの能力や、携帯でメールを打つ能力へと取って代わられ、身体に習慣化されたのである。

では、やはりパソコン・携帯に依存した漢字の書き取り能力の低下は、環境に適合した必然であって、なんら危惧するような事態ではないのだろうか。たしかに、いま述べたように、書くことを必要としない環境において、能力としての漢字の書き取りは、ほとんど意味がない。むしろ、タイピングの能力を向上させた方が、有意味だ。しかし、ここで、制限時間内にどれだけ多くの簡単な漢字を書くことができるかという、頭の回転の早さという問題が、再浮上してくる。自筆の漢字の記述と、変換機能による記述、おそらく、頭の回転スピードを鍛えるうえで、前者の方が有利に作用するはずである。

頭の回転の早さが、質より量をたくさん瞬時に想起することができ、そして、そのなかでもっとも最適な選択をすることができる能力だとすると、その頭の回転の早さを体得するには、それは単なるボキャブラリーの豊富さだけでは十分でなく、即興で最適な選択ができる能力が必要であるはずだ*1。それは、いわば脳内に無秩序状態で浮遊している多種多様な知識のなかから、瞬間的に的確な選択基準のラインを引く能力のことである。それを脳科学っぽくの情報処理能力と言い換えてもいいだろう。変換機能というテクノロジーは、その選択基準のラインを(少なくともその一部分を)人間の脳から依託されていることになる。頭の回転数の要となる、選択基準を変換機能として外注してしまうよりは、当然、少しでも独力で行うほうが効果的であるのだ。

ある程度、結論が出てしまったが、クイズ解答の能力が、このような個人の知識と情報処理能力に還元されてしまうと、やはり少しつまらない。少なくとも、その能力が先天的にそのひとに与えられたものだとか、育てられた環境がそうさせたという風になってしまうと、視聴者として、クイズに解答しようというモチベーションが、削がれてしまう。なぜなら、この問題に答えられなくても、(自分には知識も情報処理能力がないから)当然だよな、という気持ちになるからだ。「Qさま」や多くのクイズバラエティ番組で「インテリ芸人」だとか「高学歴アナウンサー」だといった、肩書きを大切にするのは、ある種の視聴者に、「あなたとは違うんだよ」と突き放した印象を与えるためではないだろうか。そして、結果として、「漢字」「雑学」といった、知らない知識を受け取る喜びに、クイズ番組の趣旨を勘違いされてしまうのだ。もちろん、そのようなクイズ番組の楽しみ方も否定しないが。

やはり、クイズ番組の問題には、良き視聴者は、意地とプライドを賭けて闘うべきである。


松下

*1:頭の回転の早さ、知能指数の高さは、もちろん勉強によって得られるところもあるが、それ以外の環境、もしかしたら生まれながらの脳の作りによっても獲得されるものである。でないと、京大出身の宇治原の知能の高さは理解できても、中卒の伊集院光の知能の高さは説明できない。