10通目 動物園に行こう!


おかげさまで「〇六部隊の前線便」も二桁突入しました。これからも頑張っていきますので、なにとぞよろしくお願いします。


気候の安定しない鬱陶しい時期ですが、皆さんいかがお過ごしでしょうか。そんな気候に動物も嫌気が指したのか、福井県の移動動物園からカピバラが脱走したようである。この記事を書いている時点(25日夕方)で見つかったかどうか分からないが、時々人類に対するあてつけのように動物たちは反旗を翻す。つい先日も飼い犬に手をかまれるどころか、飼っていた土佐犬に殺されてしまったという事件も目にした。この動物という明らかに文化と一致しないイレギュラーな存在をなぜ我々人間は手放せないのだろうか。

普通に考えれば、文明とは自然からの逸脱や自然の征服を目的としたものであるから、出来るだけ“向こう側”に属する動物を排除していくのが自然な流れではある。今日でも我々は蚊やハエなどのいわゆる害虫をできるだけ根絶しようと格闘しているのであり、ゴキブリとの戦いはもはや一大スペクタクルとも言える歴史を有しているだろう。そのおかげでキンチョーやアースは儲けているのだし、一概に害虫と言えないかもしれないが、一部例外を除けばほとんどの場合排除すべき敵として認識されていることだろう。

文明が人間以外の生物を排撃していくのに対して、文化はそれを積極的に取り込もうとする。ペットを飼ったり植物を育てたりするのは非常に文化的な雰囲気が漂うし、動物園や植物園は常に文化的な水準と並行しているようでもある。もちろんそれらの施設が近代以降になってから登場したという背景も関係してくるだろうが、現代においては一都市にひとつは必ずそういった施設があることだろう。『文化への不満』の中でもフロイトはこう言っている。「無用なものを保護するのが文化的な行為であり、こうした無用なものこそが〈美〉であると気付くことになる。…」こうした無駄な施設が文化的なのは自明なことのように思えるし、こうしたものがなければ殺風景に感じてしまうかもしれない。

そのような空間を作り出すことで、擬似的に自然なものを享受するという姿勢自体に異議を申し立てる気はないのだが、問題は動物や虫など自然の一部がその仮想空間から抜け出たときである。今回のカピバラのように一匹抜け出ただけでニュースになるようなもろい仮想空間は、果たしてそこまで文化的と呼べるものなのだろうか。それともその空間自体よりもわざわざ自然の中へ自らを没入することが文化的と呼ばれる所以なのだろうか。

きっと意味合いとしては後者の方が適切であるように思う。完全に人間社会と自然が分化されていれば、秘境ツアーのような観光ビジネスが成り立つだろうし、そこまでしたくない人たちが動物園や植物園を作ったのだろう。しかし、ここで改めて取り上げたい問題としてはどこまでその完成度や世界観は強化されているべきなのかということである。僕は入園者数日本3大動物園である旭山動物園上野動物園・東山動物園に行ったことがあるのでだいたいの日本の動物園の傾向はつかめているつもりだが、それらを見た感想としては何か物足りないというものだった。

そこにあるのは園側が言うように動物本来の姿であるかもしれないが、本当にそのままの姿なら自分に向かって来るかもしれない。せいぜいあるのは、トラがこちらに小便引っ掛けてくるぐらいである。形態展示という手法をとって人気を博した旭山動物園であったが、文化的であるが故の限界、人間に害を及ぼさない限りで最大限に動物的な営みを見せるという壁は越えられなかった。個人的にはやはり、ジュラシックパークのような世界が望まれるのだが、最も近いであろうサファリパークの隆盛はそう聞かれない。たぶんあれは単純に場所が悪いだけだと思うが。

さて、ここでもうひとつ挙げておきたい動物園のひとつに登別のくま牧場がある。ロープウェイを上ってそこそこの入場料を払って見られるその悲劇的な光景は未だに記憶に新しい。その名の通り、熊たちがコンクリートの壁に囲まれた中でひしめき合い、上から見下ろす人間たちにお菓子をお願いするポーズ(胸の前で手を合わせる)の悲壮感は奈良のシカ達の比ではない。一袋100円ぐらいの専用菓子を買えば晴れて熊にえさをあげられるのだが、えさを元に小競り合いをし、器用なカラスに横取りされる様は目も当てられない。そして、それをうれしそうに見つめる若いカップルたち。果たしてこれは文化的と言えるだろうか。何も僕はここで人道的な立場から熊の愛護を訴えようとしているわけではない。ここで主張したいのは、文化的といわれる動物園においてここまで違いが生まれてしまっているということなのである。

旭山動物園とくま牧場の違いはどこにあるのだろうか。単純に見れば動物たちの自由度や満足度となるかもしれないが、そんなものは動物に直接聞いてみないとわからないし、死亡年数を比較してみたところでそれが指標になるとも断言できない。当たり前のことではあるが、それらはみんな我々の価値観に由来したものであり、動物の本当の心(があるとして)は決して分からない。しかし、もし自然の一部である動物を見に行く行為自体に文化的な価値があるとするならば、旭山動物園とくま牧場の両者に大きな違いは無いということになる。

おそらく両者の違いは世界観の完成度や強度であり、そこにどれほど多くのイレギュラーな要素を組み込まれているかが分かれ目となる。くま牧場では、熊・ちょっとした喧嘩・熊の芸とその要素が数えるほどしか無かったのに対して、旭山動物園のそれは豊富である。人間に危害を与えない範囲でどれほど多くのイレギュラーを組み込めるかが動物園の腕の見せ所ではあるが、前述の通り日本の動物園は物足りない。先日ニュースで飼育員を重体にしたトラが報道されていたが、それこそ展示するべきである。いっそのこと「人を襲った動物特集」みたいなことをやってもらえる方が盛り上がるし、スリルが味わえるというものではないか。
しかし、なぜ多くのイレギュラーが存在した方が文化的と思われるのだろうか。それはもちろん、日常生活という予定調和的な場所からの乖離を志向するものであるから、その落差が大きい方が良しとされるわけではあるが、今回のカピバラのように想定以上の逸脱行為は困るものである。そこにイレギュラーという要素に加えて、もうひとつ文明的な文脈が加わってくることとなる。冒頭で述べたように動物を排除する文明はその性質上文化と折り合いが悪い。よって自然の一部であり、文化によって持ち込まれたカピバラが“こちら側(文明側)”に来てしまったときに、出来るだけ早く排除あるいは制御しようとする。そうした文明に対する抵抗としての動物園は多くのイレギュラー=反文明因子を含む方がより好まれるということである。しかし、文明側にも加担している我々はどちらか一方に偏ってしまっては息苦しくなる。動物園とはそんな均衡状態の最前線であると言えるだろう。


ゆーざき