トシちゃんとEXILEとカラオケボックス化する世界


――issue26


もしそれの発売が延期や中止になったとしても、世界は何も変わらないだろうし、万物は寸分たがわず流転するだろう。社会的な影響を考えるにつけても、スポーツ新聞が一面を差し替えられることはないだろう。せいぜいタバコの箱大の三面記事が載るくらいだ。経済的影響も、レコード会社の株価がやや下落するぐらいかもしれない。もし増えるとしたらそれは、ファンの嘆きの声の数よりも、CDのプレス工場の製造計画を狂わされたことに対する、工場長の舌打ちのそれのほうが多いのかもしれない。
それが存在しようとなかろうと、たぶん地球上のほとんど誰も困らない―たぶん本人以外は。それでもなお、田原俊彦は淡々と62枚目のシングル「Always you」はリリースするのである。一昨日のアナ☆パラの芸能ニュースでみた。

「へぇ〜62枚も出してたんだぁ」という感想はあるのだけども、その感想が湧いた瞬間、その語尾にヌメッとまとわりついてくるのは「よくもまぁ」とか「懲りもせず」とか「また生え際が・・・」とかいう、感情ともいいがたい小っちゃな想念であって、決してサザンのデビュー30周年を報道するニュースを見る時のような、驚嘆の感情は湧いてこない。この人の場合、なんとか芸能界にしがみついている、という感じだから。首の皮一枚っていうのは、たぶんこういうときに使うんだろう。

それにしても、彼の薄ら寒いワイドショーの囲み取材を見るにつけ、「身の振り方」というものの大切さを本当に感じてしまう。同世代には確か、同じジャニーズアイドルのマッチこと近藤真彦もいたはずなんだけども、彼は少なくともトシちゃんよりはそれが上手かった。彼がトシちゃんより優れていたのは、当時人気絶頂でありながら自動車レースという芸能界とは無縁の新境地に、ゼロから「チャレンジ」した、ということではない。そうではなく、トシちゃんよりもいち早く、「僕、F1とかにも興味あります!」「僕、これからはアイドルとかいう態度の馬鹿でかいクソガキを演じる以外も仕事バンバンしていくつもりです!」という意思表示をしたことである。たとえトシちゃんの没落が、彼自身の掘った墓穴であり―彼は「俺くらいスターになると」発言などの横暴な態度で芸能界を干された、彼の生え際の後退率が年々増しているのが、神様が彼に課した試練であったとしても、それだけは事実なのである。マッチのように暫時的に自分の守備範囲の幅―あるいは「妥協」の幅―を広げていくこと。それこそが、身の振り方の極意ではないだろうか。

「節操がない」と言われればそれまでだけれども、例えばトシちゃんのように「アイドル」に固執することには、果たして美学が存在するのだろうか。美学が彼の内面にあったとしても、少なくとも彼の表層が、外づらが「美」しいということは、ない。

ところで、そんなトシちゃんも一度は握ったJポップの「覇権」というものを、今は誰が握っているのだろうと、ふと思った。
なぜこんなことを問うかというと、僕が思うに近年は「Jポップの覇権は誰の手に?」というと問い自体が成り立たなくなっているのではないだろうか。ほんの数年前まで、ファンでなくてもそのグループのヒットシングルを5つぐらいは言えるだろうという、メガヒットミュージシャンというのがいた。サザンやビーズやミスチルとか宇多田ヒカルとかいうのはそれだろうし、今も彼らは活躍しているのだけども、彼らの部類に入る新人がなかなか出てこなくなってはいないだろうか。
これはお笑いにもいえる。「お笑い八年周期説」という8年周期でゴールデン番組をバンバン抱える大スターが現れるという法則も、92年のナイナイ以降は、成り立たなくなっている(2000年は不在だった。今年2008年は誰だろう?エドはるみ?イモ洗い坂係長?)。

実は「メガヒットミュージシャン的ヒット」だけが、ミュージシャンのヒットの仕方のわけではない。僕が勝手に命名している、もう1つの売れ方であるそれが、「矢沢―長渕的ヒット」だ。「メガヒットミュージシャン的ヒット」が「広く浅く」であるならば、こちらはまさに「狭く深く」という表現がぴったりはまる。

もしあなたが、彼ら二人のファンなら気づかないだろうが、ファンでないならわかるはず。彼らは、名前であるならば誰もが知るミュージシャンなんだけども、それでも彼らの曲、あなたはいくつ挙げられるだろう?僕の場合、長渕剛だと「乾杯」「トンボ」「純恋歌」「純子」・・・う〜ん、これが限界です。

ところが、ファンになると、これがめちゃめちゃ熱いのである。何よりもライブの熱狂がすごい。聞くところによると、毎年の永ちゃんのライブ会場では、E・YAZAWAのタオルが今でも売れに売れるという。長渕剛の故郷で行われた桜島ライブには、アクセスの不便さにもかかわらず、その日本の極西に数万人のファンがつめかけたらしい。

このようにファンはめちゃめちゃ熱いのだけども、ファンじゃない人はほとんど何も知らない。このファンと非ファンとの間の、余りある温度差は特筆すべきものがある。彼ら熱狂的なファンが―僕らに代わって―熱狂してくれているおかげで、僕らがここまで永ちゃんに無知であるにもかかわらず、永ちゃんがテレビのCMにもっともらしく出ていても、僕たちは永ちゃんを大物だと感じることができる。永ちゃんも剛も、そんな不思議な存在なのである。

ポストモダンの状況説明としてよく使われる「島宇宙化」という表現があるけれど、何を隠そうこの「矢沢―長渕的ヒット」が、その島宇宙化のさきがけだったのだ。

時代を象徴するような「メガヒットミュージシャン」の話に戻すと、一昨日のトシちゃんが出演していたアナ☆パラに、EXILEも出ていた。
EXILEのCDはめちゃめちゃ売れているらしい。では彼らが「メガヒットミュージシャン的ヒット」をしているのか?そうではないと思う。少なくとも僕は、彼らの曲をほとんど知らない。彼らはあくまで「矢沢―長渕的ヒット」だと思う。そんな独我論的に決めつけるなと、人はいうかもしれない。でも僕にはどうしても、彼らEXILEが、社会全体を一挙に挙動させる、あのメガヒットミュージシャン的なヒットをしているという印象がもてない。
それよりか、僕のような「人種」とは、まるで接点のないような、どこか遠い異国の人たちの間で、激烈な支持を受けているという印象が残る。その激烈な支持の大音響の残響だけが、辛うじて僕の元に届いているような気がする。

その「どこか遠い異国の人たち」というのがおそらく、斉藤環の言う意味での「ヤンキー」という人たちなのだろう。斉藤によれば、広義のヤンキーというのは日本人の7割を占めているらしい。世界は腐女子化なんかしていない。ずっとヤンキー化しているのだ。前にも少し書いた倖田來未もそうだ。EXILEも彼女も、無数の「ヤンキー」的記号の集積、塊だ。彼らの浅黒い肌と金ぴかのアクセサリーで彩られた全身を見るにつけ、彼らの「汗とかその他いろんな汁が飛びかってそうなプライベート」を想像してしまうのは僕だけではないはず。それが事実かどうかが真の問題ではない。彼らの「汗とかその他いろんな汁が飛びかってそうなプライベート」を僕に想起させること自体が、彼らのヤンキー的記号の目的であり成果なのだから。

日本の7割という強大な支持層を抱えるEXILE。彼らが住むその島宇宙の島は、「島」なんてもんではない。もはや「大陸」なのである。
きっとEXILEは、かつてない大規模な大陸という名の島宇宙を形成しているのだ。


今や僕らは巨大なカラオケボックスにいるようなものだ。店には廊下にそって無数のカラオケルームが並置されている。ドア越しに見える各部屋では、いろいろな人たちがそれぞれ、思い思いの歌を、思い思いに歌っている。みな楽しそうで、騒いでいるということだけは伝わってくる。
でも、肝心な曲と歌は、防音の行き届いたドアによって、外の僕には聞こえてこない。どんなジャンルが、どんなアーティストが趣味なのか。どんな曲を歌うのか。そして何を楽しんでいるのか。それらがこちらに伝わってくることはない。でも、騒いでいることだけは伝わってくる。

お互いにその騒ぎを分かち合うことなどできないけれど。


イマダ