11通目 「しゅごキャラ!」っていうアニメがあるんですけど

この『〇六部隊の前線便り』の初回で今期のアニメがどうのこうの言ってたわけですが、蓋を開けてみれば今現在しっかり見ている作品なんてひとつも無い状況で、知っているのは女児向け朝アニメ「しゅごキャラ!」でエロいシーンが流れたってことぐらいなんです。どんなことかといえば、これはコミック2巻に収録されている話なんですが、主人公日奈森あむの持つ「ハンプティ・ロック」(錠のようなアイテム)にちょっと敵対関係のイケメン月詠幾斗が「ダンプティ・キー」(鍵のようなアイテム)を差し込もうとするというもの。詳しくは動画の方を見てもらうとして、明らかに性交のメタファーであるこのシーンが「なかよし」のような女子向け漫画雑誌に載っていることの意味をもっと僕らは考えなくてはいけないのではないでしょうか。



ここで性の低年齢化が云々言ってもしょうがないので、焦点をもっと男女の性認識というところに持っていきましょう。これももう万の言葉を尽くして語られてきたことですが、基本的にアニメや漫画のヒロインは処女であるということが暗に陽に示されています。あるいは見ているこちら側が、特にそういう描写が無ければ勝手に性的なニュアンスを排除しています。というよりも、アニメを見るたびに「このヒロインは処女かどうか」なんてことを意識せずに見ている姿勢の方が当たり前なのですが、なぜいちいち架空のキャラクターに処女/非処女というところまで読みとろうしなくてはいけないのでしょうか。また、なぜその延長として現実の女性にまで処女性が求められなくてはいけないのでしょうか。

もっと色々な疑問が浮かんでくるのですが、ここでは男女の処女認識ということに絞っていきましょう。冒頭にも書いたように、先日放送された「しゅごキャラ!」では性交の試みと失敗が描かれているのですが、これが少年誌であった場合にはどう表現されると考えることが出来るでしょうか。おそらくここまで直接的な比喩ではなく、閉ざされた少女の心を開くとか、囚われの姫を剣によって助け出すというような微妙に抽象度が上がったものになると思います。きっと錠と鍵という絡みを見てしまうと、男子の場合どうしてもセックスのことしか頭に浮かばなくなってストーリーが頭に入ってこなくなると思います。ここのストーリーが頭に入ってこなくなるというのは両義的な意味であって、エロいのがあってラッキーというものと、こういうところでエロもってくんなよ、というものです。男子は常にひとつのことしか集中できない傾向にあるので、ストーリーなのかエロなのかという二択になってしまい、どちらも楽しめるということが難しいものです。簡単な例で、ジャンプの連載がストーリー中心の冒険ものとストーリー性の薄いエロ担当に分けられていることにも見て取れます。ただ、どちらも優れていた「I’’s」は数少ない例外でしょうか。

そしてもうひとつ注目すべきは、閉ざされた心や囚われの身といった状態は常に負のイメージを帯びており、脱却すべきものであるということです。それに対して、この「しゅごキャラ! 」における「ハンプティ・ロック」は何か力を秘めているものの、よく分からないただただ未知のものとして描かれているわけです。開錠することでもっと良いことがあるかもしれないし、わけの分からないものを必死こいて守るポテンシャルはどこから来るのか、という疑問を持たざるを得ないのですが、それを貫くのが女の使命ということになるのでしょうか。しかし、その必死に守っていたものが実はただのガラクタだったとか、はたまた超危険物だったとかいうことも考えられるわけです。その中途半端さというか、判然としないものを感覚の赴くままに守り通すことが美徳とされているようなら、やはり納得しかねます。

男が「そんなもの早く捨てちまえ!」と言い、女は「そんなの嫌よ!」と返すというのはよくあるパターンですが、もし男が処女を脱却すべきものとして捉えているのなら、今回のシーンを見た男性視聴者は残念がるのでしょうか。もちろんエロいのが見れなくて残念というのはあるでしょうが、もし仮に貫通してしまった場合、そこにあるのは後悔ではないのでしょうか。開錠したあむちゃんはきっと新たなパワーを得て、もっと強くなります。それできっと幾斗と肩を並べ、共闘したり実際結ばれたりするかもしれませんが、見ている男性はどこか置いていかれたような、寂しい気持ちになるのではないでしょうか。

ここで単純な構造として処女前後における男女の違いを想定することが出来るような気がします。男性においては英雄的な気持ちを高揚させ、後に失墜させる装置として処女が作用し、女性においては堅守から開放へと通ずる通過点として処女は作用します。男性は常に処女を貫くために邁進するのですが、それでもその後は後悔が待っています。その後の後悔を予期して処女幻想というのは成り立っている側面があるのではないでしょうか。しかし本来的には処女は貫きたいと願っているのであり、それでも非処女は嫌だという矛盾した感情がそこにはあります。

対する女性の場合も、開放をもたらす男性の叫びを受け入れることなく、なぜか守り続けてしまいます。それは当事者である限りどんな説得を重ねても首を縦に振らないことでしょう。しかし一度その過程を経てしまえば、あとは寂しげな男性を尻目に颯爽と去っていくのです。その通過点としての処女貫通ですが、果たしてその体験がトラウマ的な要素を帯びないかと言えば、それもまた疑問の残るところではあります。常にその開放は外部からもたらされたものであり、自分はその鍵穴を開くかどうかしか選択肢が無い。それを受け入れることが結果的に良い方向に行ったとして、それを佳き思い出として嬉々として語れるのでしょうか。開放後のあむちゃんがどのように描写されるか楽しみではあります。

さて、ここまで処女について書いてきましたが、やはり女性の問題を男である自分が論じることに無理があるように感じてしまいます。あるいはここにおいて想定した女性を自分が持ち上げすぎているのではないか、またはその逆ではないのかという懐疑が拭い去れないというも率直な感想です。やはり、女性を開放する支援者としての立場をとり、その行く末を優しく見守るような生き方しか男には残されていないのでしょうか。イケメンの幾斗くんも、なんだか刺身のつまのような存在に感じられてかわいそうに思ってしまいます。


ゆーざき