ある日の講義ノート


――issue27



私事ですが、先日大学で授業するという貴重な機会をもらいました(といっても30分ですが)。小学生の頃、下校途中に見つけた犬のうんこをムカつく担任の車のボンネットに乗っけて逃げていたような反抗的な人間ですから、これはある意味すごいことです。人間も、時間の移ろいによって変わるもんなんだなぁと、勝手にしみじみと感慨にふけっております。

しかし、受講するのは歴とした大学生です。下手なことは話せないという緊張感があります。さぁ何を話そうかと考えあぐねていましたが、テーマは「ファミリートラブル」です。僕の研究分野である「近親相姦」というのは、よく考えてみれば歴とした「ファミリートラブル」の一種。だからそれについても話そうと考えました。
今回はその授業のために考えていた講義ノートのようなもののボツテイクの方を、せっかくなのでテキスト化したいと思います。



みなさんは、伝説のコント番組「ダウンタウンのごっつええ感じ」の人気コントのひとつ、「おかんとマー君」シリーズを視たことがあるでしょうか。
ニコ動には、かろうじてボーカロイドバージョンがアップされてます。これはこれで面白いですが、ちょっと雰囲気が変わってしまっているかもしれませんから(MEIKOおかんも本家よりちょっと萌えな感じになってますし)、本当はダウンタウンと130Rの板尾創路が演じているということを、心の中で想像しながら見てください。




浜田雅功演ずるちょっとヤンキー入った高校生の息子の「マー君」と、松本人志演ずるその息子になんだかんだいって絡んでくる「おかん」の、日々の何気ないやりとりを切り取った秀作です。「マー君」が自宅に友人や彼女を連れてくる時、あるいはほかのヤンキーと道で喧嘩になりかける時、おかんは何かとマーくんの前に現れ、彼にちょっかいをかけます。このコントはそんなマー君マー君からしたらきわめて鬱陶しい存在であるおかんのやりとりに面白さがあります。

このコントは、「母親―息子」という一見ありきたり関係性を題材にした作品に見えますが、実は違います。
僕は、松本人志がこのコントで、お笑い史上初めて「日本の<おかん>のおもしろさ」を「発見」したといっても過言ではないと思っています。それはどういうことでしょうか。


松本演じる<おかん>は、旧来のコントにおける役割としての単なる母親ではありません。
「おかんとマーくん」以前のコントの「母親」とは、いわば申し合わせ程度の役割でした。いかりや長介の演じる母親役や、萩本欽一の演じる母親役。それらはどれも「いかりや長介でなければ」、「萩本欽一でなければ」成立しないもので、反対に役柄のほうは、母親ではなく父親であっても、先生であっても別段よかった。彼らの演じる母親というのは、「常識的であり、息子に教育する役割」、つまりツッコミの役割であって、必ずしも母親である必然性はありません。

しかし松本の演じるのは単なる母親ではなく、やはり<おかん>(標準語で言うところの<母ちゃん>)とでしか言い表せない存在なのです。そして、おもしろいのは松本ではありますが、あくまで「<おかん>としての松本」なのです。
このコントの肝とは、息子特有の母親に対する感情の発露(=ツッコミ)です。浜田演じるマー君が、なぜあそこまでおかんに対してヒステリックにあたるのか。それは彼のツッコミの激しさであることは否定できないまでも、彼自身知ってかしらずなのか、思春期の息子特有の<おかん>に対する嫌悪感の現れなのです。僕たちがこのコントで笑えるのは、僕たち息子が、かつて思春期のころに感じた母親への葛藤の記憶をくすぐられているからでしょう。

オイディプスの物語が感動を呼び起こすのは、人々がエディプスコンプレックスを抱いているからだ」といえるのであれば、次のようにもいえるでしょう。「『おかんとマー君』が笑いを呼び起こすのは、男達に思春期のころに母親という存在への葛藤があったからだ」と。

さきにも書いたように「母親―息子」という関係性は、コントの基本中の基本の範疇に入るでしょう。それら昭和のコントでは「母親」をツッコミの人が、「息子」をボケの人がやることが、一つの定型でした。

しかし、「おかんとまーくん」ではそれが反転します。ボケの松本が「おかん」を演じ、ツッコミの浜田が「息子」を演じるのです。このコントはつまり「非常識的なふるまいをする<おかん>と、それに振り回される<息子>」という構図にななのです。このことが示しているのはしかし、このコントが社会通念を覆すような、アヴァンギャルドなことをやっているということではない。「狂った母親」を空想しているわけではありません。
別段、おかしなところがない、実はいたって普通の「母親―息子」関係を描いているわけです。
卓越したテレビ評で知られた故・ナンシー関は、かつてこういいました。

母親とはそんなにきれいなものだったか?日本の本当の真実の母親像は、松本人志演じる「おかん」であると、私はここで断言する
ナンシー関大全』文藝春秋


僕たちの実の<おかん>あるいは<母ちゃん>とははたして、旧来のコントがツッコミ役に演じさせていたような、常識的な人間だったでしょうか。実は、「家庭内の笑いのボケ」とは息子ではなく、母親だったのではないでしょうか。
友人を自宅に招いたときに、息子にやたらとちょっかいをかけてきたり、彼女を連れてきたときに、わざと息子の点数が下がるようなことを言ってみたりするおかんのいじらしさ。「おかんとマー君」の「おかん」は、現実の<おかん>や<かあちゃん>のごとく、そのような欠陥をも内包した一人の人間として現出します。そのような、本来のおかん=母ちゃんがもつような鬱陶しさ、人間くささのおかしさが、この「おかんとマーくん」において現出します。実は「おかんとまーくん」とはこのように、「ふつうのことなのに今まで描かれなかったことを、ふつうに描いた」ところに達見があるのです。


本田透は、『萌える男』の中で「家族萌え」を、「「愛情を与え合う家族」という家族の本来の理想像を追究しようとする動き」ととらえます。そして、家族萌えの代名詞ともいえる「Clannad」についてこう言及します。

Clannad」は家族との恋愛という空想的な方向には向かわず、かつて存在したはずの「普通の家族」「普通の家族愛」を描き続ける。
萌える男本田透147P


でも、「普通の家族」って何なんでしょうか。「普通の家族愛」っていったい何なんでしょうか。そんなもの本当にかつてはあったのでしょうか。また母親にしてみても、萌えることができるほど、一面的に良いところだけしか思い浮かべられないような存在だったでしょうか。

コント「おかんとマー君」には、<おかん>のオモロさの発見ともう一つ、僕らに諭していることがあります。
松本人志の演じるおかんはおそらく、彼の実のおかんの反映物であり、狭い家の中で「はた迷惑でかつオモロいおかん」と毎日いがみ合っていたという彼の貧しかった思春期の記憶が源泉にはあるのでしょう。

「はた迷惑でかつオモロいおかん」は確かにおもしろい。しかしそんな存在といつまでも同居なんかしていられません。
男は生まれた家族にいつまでもとどまってはいられない。家族とは子どもにとって、いつかはそこから巣立っていくということをも前提とした共同体だったのではないかと、今になってこのコントをみると僕には思えるのです。


イマダ