「吃り」を迫害するな!


芸人が何か面白い話を話そうとしていて、ちょっとでも噛んでしまうと、すぐさま横から「いま噛んだやろ!ごまかされへんぞ!」といちいち指摘し、話の腰を折って、そっちで笑いをとってしまうという光景。テレビのバラエティ番組で何千回と繰り返されてきたそのようなやりとりを、僕はどれだけ苦い思いをして見てきたことか。ちょっと噛んだくらいで、せっかくの話が水の泡になってしまうというやるせなさ、少しの失態で笑わせるどころか、みんなして笑われてしまうという屈辱感。それはもう考えるだけでもトラウマ的な状況ではないだろうか。

オモシロ話をしている最中に噛んではいけない、という芸能界に限らず、一般の友だち関係でも、当然視されていて、おそらく話をより面白く伝える上では、まったくもって正しいことに、こうやって苦言を呈したところで、「噛む」ことに過剰に敏感になってしまった状況が好転するとは思えないのだが、それでもこうやって主張してしまうのは、僕が極度に口がうまく廻らない体質の人間だからである。誰もが「噛む」ことに過敏ななかで、もともと滑舌の悪い人間が発言するときの恐怖心、そして恐怖心ゆえに変に意識して噛んでしまうという悪循環は、おそらくもともと滑舌の良い人間には実感のないことだろう。そもそも過敏な状況がなければ、どれだけ楽だったかと、身にしみて思うわけです。

だって、本来その話の面白さと、話し手の滑舌の悪さは、必ずしも相関しないものではないだろうか。極端な例かもしれないが、たとえばツービートの頃のビートたけしなんて、細かいところまでカウントしたら数えきれないくらい噛んでいるし、よく聞いてみたら言い間違いをしている箇所まであったりするわけです。ウディ・アレントークも、英語が聞き取れない僕にでも分かるくらい、吃りまくっている。それでも、滑舌の悪さ自体が笑いを誘うわけではなく、内容的にも、話芸としても否応なくひとを笑わせ得てしまうスタイルを確立できていたはずだ。そもそも話すという行為自体が、すべてを意識的に統率してできるものではなく、無意識的に口をついてしまうという部分も大きかっただけに、それが滑舌の良さと直結するはずがないだろう。しかし、それが口が滑らかでなければいけないという状況的に規定されてしまっていては、滑舌の悪い人間は、意識して噛まないようにしなくてはいけない、しかし、意識していてはいつまでたっても滑舌が良くはならない。やはり「噛んでではいけない」という前提条件が間違っているとしか思えない。

おそらくは、吉本のお笑い芸人養成所NFCができた頃から、現在まで至る滑舌に過敏な状況を育んでいるのではないだろうか。そもそも、落語や演芸でもないバラエティのお笑い芸人を、教師によって教育できることなど、もとからないにもかかわらず、無理矢理「養成」しようとすると「噛まずに話すことが基本だ」という短絡的な結果を生んでしまう。もちろん、噛まないことはいいことかもしれないが、だからといって、それを教育として絶対的な条件のように叩き込むことはおかしい。それこそ、例外的に滑舌が悪いにもかかわらず圧倒的に面白いビートたけしのような人間がでてきたときに、滑舌の方ばかりに注目してしまったら、もともこもない。それは「何言っているかわからないのが面白い」という別の芸になってしまい、一生その枠をでることができない。

そのようなやたらと「基本」に忠実で、「基本」に反するときに、そのことばかり指摘してしまう状況は、お笑い芸人の滑舌だけの問題ではないだろう。なんでもルールにしばってそこからはみ出すことを禁じる、その集団強迫神経症的な状況は、おそらく至るところにある。ただ、もうそのような状況がごく当たり前なものとして、あまりにも浸透してしまっているために、それを無視する気概すらひとびとは失っているのだろう。そんな状況で、それでも突出して、ルールを破ることができるのは、もともとそのような強迫感に鈍感な、モンゴル人の朝青龍だったりする。いや、朝青龍も、世間からのバッシングで相当痛い目に遭う運命だったのだが。

要するに、「噛まない」という、どこからどうみても正当な基本条件ですらも、一方でその基本に必ずしも忠実でなくてもよいという寛容さがなければ困る。なぜ困るかと言うと、それは基本とはまったく無関係な場所から突如として現れた天才を受け入れることができないし、そもそも、そのような天才の生まれる環境すら与えないからである。

ああ…。僕も吃りを直したい。饒舌に、よどみなく話せたらどれだけ楽しいことか。しかし、そんな自意識に苛まれている間は、いつまでたっても、滑舌が良くなったりしない。「饒舌になりたい」ということすら、想起されない、滑舌のよし悪しに左右されない状況こそ、もっとも理想的な状況だろう。


松下