12通目 洞爺湖サミットに足りなかったもの


7月7日から9日まで北海道の洞爺湖でサミットが開催された。僕自身あまりテレビを見ないのではっきりとしたことは言えないが、たぶんあんまり盛り上がっていない。日本でのサミットというと、2000年の沖縄サミットが記憶に新しいが、その時はもうちょっと盛り上がっていたように思う。テーマソングなんかもあって結構話題になっていたのではないだろうか。それに比べると今回のサミットはなんとも小粒である。まず、サミットが3日間しか開催されないということに驚いた。沖縄サミットの印象からするともうちょっと、せめて1週間ぐらいはやっていたような気がするが、その沖縄サミットも3日間であった。何がいけないのだろうか。やはり洞爺湖という場所が悪かったのだろうか。確かに、一般的な知名度として洞爺湖と聞いて場所が思い浮かびにくいかもしれない。前回の沖縄からして北海道は大きすぎる気もする。道南なのか道北なのかそれとも道央なのか、そのレベルから分からないかもしれない。しかし、当の洞爺湖は今回のサミットに並々ならぬ気合で臨んでいる。かつてこれほどまでに洞爺湖がクローズアップされたことがあっただろうか。おそらく昭和新山の噴火以来の注目である。僕は人生で2度洞爺湖の地を踏んだが、はっきり言って特に何も無い。温泉もそれなりにすばらしいが、登別の地獄谷とかと比べると地味な印象は拭えないし、湖中に浮かぶ大島もそこそこの金を払って船で上陸したところで何も無い。半分寂れた温泉観光街に訪れたまたとないチャンス。これは逃すわけにはいかない…のだが、蓋を開けてみれば周知の通りの結果であった。


洞爺湖に限らずこうした地方は観光に産業に復興だとか活性だとかに必死である。過疎化が進み、人が減って財も労働力もなくなってしまえば生活していかれないので何とかしないといけないのは当然で、利用できるものは何でも利用するというのは当たり前である。最近ではひこにゃんの成功例や、せんとくんのように失敗が過ぎて逆に有名になるといった例も出てきている。いわゆるゆるキャラに代表されるマスコットキャラクターはこういった地域振興には欠かせない存在となっていて、愛知県人からすると「愛・地球博」のキッコロモリゾーは愛すべき存在なのだが、もはや他県の人には忘れられていることだろう。ちなみに、横浜市戸塚区の再開発キャラクター「とつか再開発くん」の適当さには失念したが、それもまた愛すべきことなのかもしれない。そう、今回の洞爺湖サミットにはキャラクターがいなかったのだ。

しかし、今の日本にはあまりに多くのキャラクターが溢れていて、そこそこの出来のものはすぐに埋もれてしまう。印象として、2000年を境にキャラクターは爆発的に増えたように思う。それまではぺこちゃんやキティやキョロちゃんなど、かなりメジャーな存在が目に付いていたが、ここ数年は関係者しか知らないんじゃないかというようなものが氾濫している。地域に絡めた無理やりなデザインや設定が受けて一連のゆるキャラブームを形成するに至ったわけだが、果たしてゆるキャラにはそこまで有効性があるのだろうか。そういったことを疑問視することなく、僕を含め多くの日本人はキャラに埋もれ、愛着を抱き、地元民としてのアイデンティティーを高めていく。もはやキャラ氾濫は止められそうもないので嘆いてもしょうがないが、ここでゆるキャラと対を成すキャラについても触れておかなくてはなるまい。萌キャラである。


地域振興は言うほど簡単ではないので、ゼロから何かを生み出して新たに人を呼び込むということはかなり困難なことである。しかし、地元出身の漫画家とか地元を舞台にしたアニメや映画がヒットすればそれに乗っからない手はない。以前は漫画やアニメは公式に取り上げられることは少なく、いわんや萌アニメをや、であった。それでもセーラームーン氷川神社など、ファンの間で聖地とされ、半観光スポット化しているものもあったにはあった。しかし、やはり2000年頃を境に萌キャラも地域とタッグを組むようになってきて、04年には備長炭を擬人化したキャラクター、びんちょうタン和歌山県日高郡みなべ町の組合のキャラクターとして採用され、その仲間クヌギたん大阪府池田市商店街連合会のキャラクターとなっているようである。これからは池田市と聞いたら児童殺傷事件ではなくクヌギたんを思い浮かべて上げてほしい。

そして、なんといっても近年のベストオブ地域×萌キャラは埼玉県鷲宮町が「らき☆すた」で行った町おこしである。これはかなりの成功を収めたようで、オタク心理を付いた巧みな商売が一部をうならせた。しかし、こういったビジュアル重視の萌キャラは瞬発力に優れているものの、持続性や地域浸透率に難がある。実際らき☆すたが地元民に愛されているかと言われると、素直にうなずきにくい。

地元民でなければさっぱりわからないゆるキャラと地元民置いてけぼりの萌キャラ。どちらもそれぞれ一長一短なのだが、我々はもうキャラクターという要素の集合、イメージの塊を与えられないとそのイベントや地域を想起できなくなってしまった。それがいいのかどうかは分からないが、なんとか別の切り口を得られないものだろうか。個人的には蘇民祭のようなただ裸の男がぶつかり合うような祭などに期待しているのだが、それもひとつのキャラクターに集約されてしまうのだろうか。

かつてのブランド志向が薄れ始めた途端、キャラクター消費が台頭してきた。どちらも見た目の分かりやすさと中身がはっきりとしない、あるいは空っぽなところが同じであって、構造的には変わりが無いように思う。違うのは値段ぐらいだろうか。バイト先の女の子がご当地スティッチのストラップについて嬉々として話し、他人が知らない地域のものを持っていると、「えー!何これぇ?」とアホみたいに反応するのを見るとなんだか悲しくなってくる。そこにあるのは他人との差異化であって、刹那的で相対的なものでしかない。もちろんかわいいからという理由もあるだろうが、決して彼女たちがスティッチマニア(オタク)になることはないし、きっとそれなりにかわいくてでも他人と違ってそれなりに共通認識を持てるものがあれば何でも良いのであろう。それはきっと僕も例外ではなく、少なからずその要素を持っている。だからこそその極地を行く彼女たちに嫌悪感を覚えるのかもしれない。そしてその単純な差異化から逃れ、ニュートラルな立場で臨んだ洞爺湖サミットは全体のイメージをうまく掴めないものとなってしまった。キャラクターという安易な道に逃げず、それでいて印象に残る道は残されていないのだろうか。そしてそれは僕たちの生き方や振る舞いにも迫ってくる問題であるようにも思う。



ゆーざき