「婚活」時代


僕の最近のネットサーフィンのトレンドは「発言小町」の閲覧。読売新聞が運営する、いわゆる悩み相談の掲示板の一種で、そこには毎日いろいろな相談が持ちかけられてくる。その中でも「男女」のトピックは一番おもしろい。

最近の僕の中でのヒットは、まるでミステリーのようなこのお話。


離婚した夫にずっと騙されていました
http://komachi.yomiuri.co.jp/t/2008/0705/192603.htm?o=1


そんな発言小町の男女トピックなのだけれども、僕の印象だと、1割から2割ぐらいかな?ある1種類の相談が占めているんじゃないだろうか。それは「彼が結婚に踏み切ってくれません(だから、別れたほうがいいでしょうか?)」という相談。
男女の仲についてという大雑把な区分けの仕方だ。甘酸っぱい片思いのスカッとするやつから、惚れた晴れたのドロンドロンの状態のやつまで多種多様で、悩みの種類には事欠かないはず。なのに10本に1本くらいはおそらく「彼が結婚に踏み切ってくれません」ネタ(あるいはそれに類似したネタ)というのは、ある意味驚異的ではないか?その反対に、「彼女が結婚に踏み切ってくれません」というトピックはとんとお目にかかれない。もしかして100本に1本もないんじゃないだろか?


ここに見て取れる、余りある男女の非対称性。これって結局のところ、男女の結婚に対する「意識の比重」の違いなのだろう。そういうのは、他人の結婚を羨ましがるときの、その仕方の違いにも現れてる。
男の場合、知り合いの結婚式に出席して羨ましがるのは、大抵は新婦が美人だったときだ。「あいつ、あんなキレイなお嫁さんもらってるよ〜。あんなお嫁さんなら俺も結婚したいよな〜」ってな具合に。失礼な話、男が友人の結婚式に行くと、まず新婦の容姿を確認する。なぜかというと、今から始まる式が「嫉妬心にさいなまれる式」になるのか、「晴れ晴れとした心地で友人を祝ってやれる式」になるのか、いち早く判断したいからだ。
女の子より男の方が恋人の容姿にこだわりがあるというのも、デートで連れ添って歩くときに、かわいい彼女を連れて歩いて、他の男を嫉妬させたいからなのかもしれない。

でも女の場合、どうも結婚自体を羨ましがっているように見える。新郎の席に座っている男がいくら目ん玉飛び出るくらいのブ男でも、新婦は「うらやまし〜!!」という正直な声で祝福されながら、ライスシャワーを浴びるのだ。


結婚式には最後、「ブーケトス」という定番の行事が残されているけど、あれが女性だけの行事であるのも納得できる。女にとっては、ブーケを手に入れるぐらいで(たとえジンクスであろうと)結婚が約束されるのであれば、せっかく金をかけてセットしてきた髪型が多少モミクチャになろうと、それは割に合う行為になるわけだ。反対に男のブーケトス、見たいですか?いや、というかブーケを奪い合う男たち、想像できますか?野郎同士が、可愛い可愛い白い小さなブーケを奪い合ったあげく、手に入れた男の野太い声、「やったー、次は俺が結婚できる!」。・・・それはあまりにも想像しがたい。


つまり男は、
お前と結婚したい」 のであって、結婚すること自体はさして重要ではない。


それに対して女は、
あなたと結婚したい」のであって、相手が誰なのかは極端な話、重要ではないのかもしれない。


だから冒頭の発言小町における悩みの数の比(「彼が結婚に踏み切ってくれません」>>>>「彼女が結婚に踏み切ってくれません」)も納得できる。女はニュアンスとしてとりあえず結婚しておきたい。それに対して、男は誰と結婚するのかが重要なのだ。


「ホントにこいつでいいのか!?」 「俺はこいつを一生抱き続けることが出来るのか!?」


そういうことをそれなりに熟考しなければ、男は結婚できないのだ。そういうのは、よく言えば慎重であり、悪く言えばまあチキンというかなんというか。

  • 「すてきに見えた」か、「仕方なく」か


そんな結婚観に重大な比重の差がある男女も、今までは上手い具合に結ばれていた。でも本書『「婚活」時代』を読むと、近頃はそうでもないみたい。著者の山田昌弘さんの、他の本(『希望格差社会』)を読むと、「一九三〇年生まれの人は、結果的に九五%以上の人が結婚した」(83p)らしい。でも今となっては、「結婚するための活動をする」という本人の主体的な意志をもって行動に移らないと、結婚できなくなっているらしい。「できない」のであって、決して「結婚しない」わけではないのだ。


なぜ「婚活しなければならない時代」がやってきたのか。僕なりに要約するとそれは、男の独身も女の独身も、一人で「夫婦二人分の能力」がついてしまったが故に、結婚が生存条件ではなくなったからだ。今では男だって家事はできるし、女だってちゃんと就職してがんばれば独り立ちはできる。結婚が必ずしも必要ではなくなった後、それでも誰かと結婚するとなると、よっぽど相性が合わなければできなくなってくるし、同棲するとなるとお互いの価値観を摺り寄せないといけなくなってくる。でも、人の価値観っていうのは凝り固まっているから、よほどのことがないかぎり変わらないことが多い。例えば、第5章で白河桃子が述べているとおり、男も今では「人の選んだインテリアの中では住めない」という人は増えていると思う。


確かに。ドアノブカバー(ノブにかぶせられた、力入れて持たないと「トゥリンッ!」ってなりそうなあの布)をしている家にはなかなか住み難い・・・。


この本の中で、山田さんは「婚活」前時代(婚活をわざわざしなくても自然に結婚できた時代)には、「選択肢が少なくて、かつ、つき合いの経験がなければ、異性が身近に来ただけで、すてきに見えてしまう」(48p)から、職場結婚が多かったと説明してる。太字にまでして、そんな風に説明しているけど、でもこれって本当なんだろか?
「婚活」前時代に、職場結婚の数が多かったのは確かなのかもしれない。僕が疑問に思うのは、「すてきに見え」たから、お互い結婚したかまではわからないんじゃないか、相手にときめいたから結婚したかまではわからないじゃないか、ということ。山田さんは本書の他の箇所では、統計学的に線密な分析をしているのだけれど、出会いのメカニズムになると、昔はお互い数が少なくて「すてきに見えた」という説をゴリ押しする。もしかして、かつて職場恋愛で結婚した人たちに、逐一インタビュー取材をして、「同僚のときの夫が素敵に見えたのよね〜」というおばちゃんやおばあちゃんたちの証言でも取っているのだろか?僕が思うに、「選択肢が少なくて、かつ、つき合いの経験がなければ、異性が身近に来ただけで、すてきに見えてしま」ったのではなく、単に「選択肢が少なくて<仕方なく>選んだ」というほうが妥当な気がする。第一、先に挙げた三十年代生まれ以降も、異常なほどの高さの結婚率が維持されるわけだけど、その世代も含めて今、熟年離婚が増えてるわけだ。熟年になって、定年退職したあとの「趣味に生きるパートナー」として夫を、妻を見たときに、「うわっこいつつまんね!」とか「この人とは趣味合あわない!」という具合に別れてしまう。


そうすると、今の婚活現役世代が、価値観を持ち出して、結婚を渋るのは健全には見えてこないだろうか。

  • “元”男女の友情否定主義者が物申す!!

発言小町の話に戻ると、「彼が結婚に踏み切ってくれません」という相談を持ちかけてくる女性の彼氏は、仕事が忙しいとか、ほかに女がいるとか、そういう理由ではなく「ただなんとなく」結婚を渋っているパターンが多い。そのように先送りされた挙句、結局結婚してもらえず婚期を逃してしまう女性が多いらしい。また、そういう男は、その気がないのに一人で女性を滞留させているという意味では、他の男にとっても害悪になっているわけだ。

本書でもそんな男を優柔不断と説明しているが、その道のプロからすれば(どんなプロだ)、今一歩というところだ。そういう「結婚渋り男」がはびこるのには、小生(言葉使いもかわってるし)はあるイデオロギーを見て取る。そう、男女の友情という思想だ。


小生は、かつて男女の友情否定主義者を名乗っていたが、今では若干の「転向」をした。この思想的転向については、話が長くなるのでまた別の機会に説明するが、小生が思うに「結婚渋り男」は本人が知ってか知らずか「男女の友情主義」に染められているのではないだろうか。

恋愛というのには、当事者間で話し合いがなくとも必ず「終わり」がある。それは「別れ」と「結婚」という大きく分けて二つの「終わり」だ。別に結婚後も夫に対して、妻に対して恋愛をし続けてもいいが、たいていのカップルはそこでいったん恋愛を終える。重要なことは、恋愛には、法的拘束力を持つ「夫婦」という発展段階への可能態としての側面もあるということだ。
それに対して、友情に終わりはない。何かでもめて、取り返しのつかないほどに関係がこじれない限り、友情に終わりはない。しかし、それ以上に何の進展もない。友情はいつまでたっても、夫婦にはなりえないというのは確かだ。


小生が思うに「結婚渋り男」というのは、恋愛関係でありながらも束縛されたくないがために、夫婦という法的な関係への発展を「凍結」して、まるで永遠に続く友情のように振舞っているという、なんともうらやましい、いや!、都合のいい男のことではないだろうか。その意味でここでいうところの友情は、はっきりいってである。


今では、普通であるならば恋人と認められるような関係(例えば肉体関係を持った間柄)でさえも、公然と友達と言ってのける輩がいる!


「セックスフレンドだぁ!?
 セックスは友達とするものではありません!」


何を古いことを、と言われるかもしれない。たしかに小生は昭和の人間(ぎりぎり、60年生まれです)だ。しかし、ジェンダーフリーはともかく、そのような男女の友情がはびこるような世の中は、はたして精神衛生上、お互いにとってよくないんじゃないろうか。悪しきイデオロギー、それが男女の友情なのである。


イマダ