13通目 無職チキンレース

秋葉原の通り魔事件以後、警察によるネットでの犯罪予告取締りが強まっている。例えば何日何時に何々駅で人を刺しますというような形で、主に2ちゃんねるなどの掲示板で行われるわけだが、だいたい検挙されるのは無職の男である。というのも実際に書き込むのがほとんど無職の男であるからなのだが、この今最も熱い現代のチキンレース、やってみたくなる気持ちも分からなくないのだが、彼らは何に挑戦しているのだろうか。

最近目にした犯罪予告→逮捕ラインは二つ。ひとつは「埼京線上野駅」という実在しない駅名での犯罪予告だったのだがアウトだったというもの。もうひとつは「○○小学校で小女子を焼き殺します。おいしくいただいちゃいます。」と書き込んだが逮捕されてしまったというもの。この小女子、「こうなご」と読み小魚のことなのだが、実際の小学校名がいけなかったのだろう、あえなく御用となってしまった。

ここに見られる挑戦は自らを犠牲にしてアウトラインぎりぎりを見極めようというものだ。どうやら、(正確には)実在しない駅名を指定してもダメであり、ターゲットを小女子にしてもだめであるらしい。これらは彼らの尊い犠牲によって立派に証明されたのだが、残念ながらこれらは確認したところで意味はないし、だいたい想像すれば分かるようなものなのだ。しかし、そこに実践的な意味や社会的価値観を持ち込んでもそれこそナンセンスなのである。彼らはそうしてどうでもいいことにギリギリ感を求めることで楽しんでいるのだから、結果的に後で後悔することになったとしてもやめるわけにはいかないのである。それこそが彼らの美学とまで言ったら大仰だろうか。

しかし、この警察という公権力を相手にしたチキンレースというか、反体制的批判精神というか、ネタ的に自ら乗り込んでスケープゴートとしてさらし者になるというスタイルはネットを中心としたオタク的空間では割と馴染みのものなのである。よく警察官の点数稼ぎとして、ミリタリーチックなオタクたちが職質にあって鞄を調べたらサバイバルナイフが見つかって検挙という話を聞く。これを逆手にとって、わざとミリタリーもので全身固めて鞄の中には「残念はずれ」という紙だけ入れて町を歩き職質されるという行為を以前目にしたことがある。見事警官の目にとまり、はずれ紙を披露するに至ったのだが、たいした反応も無くちょっと期待はずれだったというオチだったように記憶しているが、これも決して意味ある行為とはいえない。本来なら職質受けることを避けるようにするべきであり、仮に警官の逆鱗に触れてしまえば面倒くさいことになるのは必至であるからだ。

そして、こうした反抗が何か大義に裏打ちされた行動かといえばそうでもない。警察からの糾弾に屈しないという意思表示でも政治声明でもない。しかし、単純にスケープゴートになるからといってヤンキー集団に殴りこみに行くということにはならない。ヤンキー集団は彼らオタク集団と違う文化圏に属しているので両者の差異は埋めがたく、どうしても接触の際に祖語をきたしてしまうからだ。オタク的集団にとって理想的なのは同じような文化集団に属していて且つ彼らとは決して相容れないものである。その点でヤンキーは思考回路が違うから同じ土俵で戦えないし、警察は格好の標的となるのである。ではオタクと警察との違いとは何だろうか。単純に言ってしまえば、ベタかネタかということになるのだが、大人か子供かという風にも言い換えることが出来るかもしれない。警察とは社会化された、個の埋没や建前とか形式とかの象徴であり、それは大人の世界である。対するオタクとは非常に個人的な営みで非社会的で嘲笑的な集団であり、そのナルシシズム的なアイデンティティーは子供のそれと似ているといって良いだろう。子供は大人が形成している社会規範の中でもがいていき、逸脱すれば罰せられるだけなのだが、それでも挑戦をやめることが出来ない。そうして自らの中で規範やそれに順ずるものが形成されていくのだが、その過程を大人になるための堕落と捉え、叱りつける大人を「何真剣に怒っちゃってんの?プププ…」と嘲笑うとしたらどうだろうか。もはや叱りつけるものの足場は崩れ去り、どんなに必死になってもそれだけ相手の嘲笑は増すのであり、肩透かしを受け続けることになるのだ。

しかし、実際の子供には「何時までも子供のままじゃいられないぞ。そんなままじゃ生きていけないぞ。」と言うことで対抗できるだろう。子供という存在は永遠ではないので時間的な限界が見えてしまう。それに対してオタクは何か終わりが来るということは無い。ずっと真剣なものを嗤っていられる。そのことによって得られる優越感は至福のものだろう。自らの人生さえもネタ化させ、あらゆる事態に対処できるようになるかもしれない。しかし、残念ながらその先に幸福は無い。彼らが欲し、嫉妬している幸福の持ち主は向こう側、大人の世界にあるのである。本当の子供は本質的に大人的な幸福感が無いため、その点で悩むことは無いのだが、オタクたちは否定しようも無く大人なので、欲してしまう。それでも一度ネタ的な立場を取ってしまい、そこに安住してしまうと、その蟻地獄からは抜け出せない。満たされないということさえもネタにしてしまえば一嗤い取れるかもしれないが、同じ手は二度使えない。満たされないということさえ使い古されたネタとなってしまって嗤うことさえ出来なくなってしまったのなら救いようが無い。それでも今はその矛先を大人社会に向けて嗤いに興じることが出来る。このネット予告チキンレースはそんな危うい立場にある彼らの必死で真剣な遊びであり、その姿勢はネタ的に生きるものにとっては認めたくないものかもしれない。しかし、泥沼のようなネタ的世界から救い出してくれるのも警察という大人の世界である。そうした外部からの強制的な介入、またはそこへ(ネタ的な大義名分を片手に)自ら飛び込むことで脱却を図っているのではないだろうか。

ここでこのチキンレースを行うほとんどが無職である理由も少し見えてきた。もはや抜け出せないネタ的空間はこうしたプロセスによって、社会に横槍を入れるような形で介入することが出来る。もし彼らが本質的に社会的承認欲求に迫られて、最後の手段としてこのレースにエントリーしたとしたらその悲痛な悲鳴が聞こえないだろうか。このチキンレースは一見ただの馬鹿で自暴自棄に走っているだけのようだが、それだけでなく積極的な社会参加としての側面を持っているとしたらきっと意味のあることのように思えてくる。このような手段によってしか社会に参加できなくなった彼らを哀れむべきか、そんな状況に追い込んだ社会に不満を述べるべきか、その答えは彼らの行く末を見守らないと出そうに無い。



ゆーざき