美大生たちのキャンパスライフ


いまの若いひとたちがみんなそうかはわからないが、美大や芸大を青春時代のユートピアのように見てしまう向きがある。夢や希望に満ちあふれた若者たちが、男女混じって創作活動に熱中ながらも、将来の現実に悩み、また複雑な恋愛関係に悩む。確かに、絵に描いたように、夢と現実と恋愛という青春時代につきものの甘酸っぱい要素が、そこには生きているのではないかという期待を、美大や芸大には抱きやすい。かく言う私も、大学受験のころにはいざとなったら日大芸術か大阪芸大あたりを受けようと、模試の志望校記入欄の第五志望あたりに、おまけのように毎回書いていたものだし、ふとしたときに「美大に行ってれば、もっと楽しい大学生活送れたんだろうな…」てなを考えてしまったりする。


しかし、その傾向はどうやら不思議と女性の方が大きいらしく、昨年は少女コミックである『ハチミツとクローバー』や『のだめカンタービレ』が全国的に大ヒットしたし、また、山崎ナオコーラの小説を井口奈己監督が映画化した美術系の専門学校を舞台にした恋愛映画『人のセックスを笑うな』が今春公開されたが、単館でのロードーショーにも関わらず、毎回満席の大盛況でロングランヒットを飛ばし、その客層の中心はいま花盛りの20歳前後の女性だった。


青春を感じさせる要素として、その代表格は、甲子園に出場に賭ける高校球児や、インターハイ出場を目指すサッカー少年といった、体育会系のスポ根ドラマが挙げられるし、まだまだスポーツ青春ドラマも一定の支持を集め続けている。しかし、スポーツに賭ける青春と、創作活動に賭ける青春とでは、まったくその性質が違う。スポーツの場合では、毎日毎日絶え間ない鍛錬を、仲間と励まし合いながら耐えて、自分の運動能力を伸ばし、その総決算が、三年夏の総体で発揮される。それで、苦しい訓練が報われようが報われまいが、ほとんどのひとは自分の全身全霊を賭けた最後の試合に一体感と満足感を得て、すっきりした気分をしてその後の受験や就職に備えるのである。


しかし、美術、芸術、創作活動に賭ける青春の場合、いくらそれに情熱を注いでみたところで、結果が得られなければもうそこまでよ、才能の乏しい凡人、誰からも求められない無用の長物のレッテルを貼付けられるのである。オーケストラの楽隊や舞台の端役に拾ってもらえればいいけれど、おそらくそんなことは稀な例だ。せいぜいテレビ番組やジャニーズのコンサートの裏方の仕事をするのが、関の山だろう。もちろん、それで本人が満足できればオーケーだろうが、もともと創作活動に注いできた情熱は、もっと志が高かったはずだから、どこかに挫折体験が隠されていることはほぼ間違いない。


いや、僕も結局は美大、芸大がどのようなものか、現場を体験していないので、これも偏見を拭いきれない意見だろうが、つまりは、僕が言わんとしているのは、美術や芸術というフィールドでは、もともと絶対に正当化しきれない「負け」というものが、その創作活動の果てに設定されているため、もっとも理想的な負け方とはいかなるものか、が問われているということだ。そこで、絶対に正当化できない「負け」をだましだまし正当化させてしまう要素となるのが、自己満足と恋愛なのだろう。


ひとに感動を与える作品(あるいはもっと控えめにひとの関心を引く作品)と、作っている本人が誰よりも楽しんでいる自己満足の作品を、どう分別するかは、とても難しい問題だ。 先日放送された「爆笑学問」のゲストは、東京芸大学長の宮田亮平だったが、そこで議論されていたのは「いかにして伝えたいことを伝えるか」という問題であった。そこで宮田氏の発言で僕の耳に残ったのは「作品のピュアさ」というもの。つまり、どれだけ「ピュアに」「真剣に」見るものの心に響くものがあるかどうかが、そこでは試されている。革新的なヴィヴィッドな躍動感にも新しさを感じられず、保守的な格調高さにも面白みを感じられなくなってしまった現代芸術において、求められるのは作り手の悩みや感情の「ピュアさ」であり、受け手がそこから何を感じ取ろうが構わないという態度である。もちろん、そのような純粋な表現欲動が芸術家を突き動かしているという事実は、肯定しなければならない。しかし、僕の中でふたつの疑問が残る。


第一に、その「ピュアな」作品が誰からも何の興味も持ってもらえず、倉庫の奥に眠ることになったら、いったいその「ピュアさ」は何のための「ピュアさ」だったのだろう。この点に関しては、番組中に太田も指摘するところだ。東京芸大の巨大なアトリエで製作された作品群が、おそらく一回か二回の内輪の展覧会に飾られただけで、あとは倉庫の奥に眠るか、消却処分かプレスされてスクラップ場送りになるのだろうな、と考えると作り手の立場になってみなくても、やりきれなさが察せられる。それだったら、まだユニクロTシャツにプリントされるか、どこかの企業のロゴに採用されるものの方が、それがどんなに粗末で芸術的価値がなかったにしろ、報われているのではないかと思うのである。


そして第二に、芸術とは永遠に残るものだ、とか謳っているおきながらも、「ピュアな」芸術作品とは、往々にして一過性のもにすぎないという客観的事実である。例えば、僕は元映画畑の人間だが、タルコフスキーの詩的な映像だろうと、ゴダールの暴力的な映像だろうと、ガス・ヴァン・サントの繊細な映像だろうと、そう何度も見るものではないというか、一度そのような映画を体験してしまうと、それ以上の感動というものを同じ映画からは得られなくなるという事実である。実際、芸術肌の人間ほど、そのようなダイレクトな印象というものを重視するのだが、そのダイレクトな印象というものは、果たして長い間持続可能なものなのだろうか。
噛めば噛むほど味の出るスルメのような作品というのは、芸術的なものほど難しくなっているのではないかと思うのだ。


いささか遠回りしてしまったが、そのような原理的な矛盾によって美大、芸大の学生の創作活動のひとつの帰結が絶対的な自己肯定。「気持ちいいって感覚は嘘を付かないんだぜ。俺、いますっごく気持ちいい〜!」という自分の快感を肯定するあまり、他者の否定意見に耳を貸さないという態度である。もちろん、否定意見に耳を貸さないのだから、誰からも認められず、結果が得られなくとも満足なのである。それどころか、他者に否定されることは、裏を返してそれがアウトローな芸術家にとって誇りでさえあると、肯定的に意味を書き換えられるのである。


そしてもうひとつ、創作活動の挫折の隠蔽と、美大ユートピア幻想を支えているのが、言うまでもなく美大という刺激的な場で繰り広げられる、くっついたり離れたりの恋愛関係である。なんといっても、創作活動に励む人間は、男女を問わず魅力的にみえてしまうし、協同作業を強いられる科目も多く恋愛感情が自然に生まれるきっかけはいくらでもある。そこで芽生える恋愛関係は、普通大学の学生が男女ともに目の色変えてモテようと努力しているのに比べれば、よっぽど「ピュアな」恋愛に見えてしまいもするだろう。ましてや芸術家を目指す男女である、恋愛に対してもどれほど情熱的かは推し量るに余りある。恋愛で悩んだ体験もまた、創作活動を通じて作品に昇華される場合さえ珍しくないに違いない。


作品が評価されない代わりに、恋愛面ではさぞ充実した毎日が送れるのだろう。もちろん、芸術家でも有名な人物ほどモテるだろうが、そもそも何を基準に評価が下されているのか素人目には理解しがたい現在の創作活動においては、「他の誰からも認めなくても、わたしだけはあなたの本当の良さがわかっているの」という主張もまかり通ってしまうのである。これこそ、美大芸大の抜け道のような気がする。そのような、抜け道が全面に押し出される形で、美大、芸大へのユートピア幻想が、ユートピア幻想だけが、どんどん強みを増してゆくのではないだろうか。


松下