オリンピックのキャスターしてるの見たもんで・・・


issue――33


みなさん、暑中見舞い申し上げます。
もうね、いい加減3週続けていいたきゃないけどですね、またまたあの三文字が書きたくなってくるわけですよ。大体僕は○○○と感じる事はあまりなくて、一般的な○○がりでもないんですが、連日こうも○○○と、ついつい文章でも「○○○」、と書きたくなる所ですが、今週は其の欲望に抗います。
僕が府中中学校ソフトテニス部の顧問井上先生から受けた教えに、「暑い(※ここは井上先生の言った言葉であって、僕の言葉でないので「暑い」と書いてもよいルール)というとますます暑くなる(なった気がする)から暑いとさわぐな」というものがあります。人間単純なもので、自分で「暑い」と言ったその言葉によって一種の自己暗示に陥ってしまい、ますます暑く感じてしまうんですよね。その言葉を聞いたときは、はたと膝を打ってしまった僕です(その後、いろんな人が結構同じ事を言っていたという事実はあったものの)。だからさっきから僕は、それを実行しています。
でも、「○○○」だと虫食いされた感じが気持悪いので、別の形容詞で補いましょう。暑さを喚起しない言葉なら何だっていいんです。
だから、今日から僕は、「暑い」のところを代わりに「こちょばい」を補います。


「いやー!今日もこちょばいねー。」


「でも明日は35℃で、もっとこちょばくなるらしいよー」


さて、こんな無意味な前説を披露して怒りを買い、読者の体温を2,3℃上げたところで、本題に入りたいと思います。


今日は大まかに言うとダウンタウン浜田雅功についてです。浜田雅功の面白さとは何か?です。もちろん反語ではなく。
相方の松本人志については、もう語りつくすことのないぐらいに語られてきましたが、浜ちゃんについては、そして浜ちゃんのツッコミについては、それほど語られてきませんでした。


その前に一般的なお笑いコンビについて、少々書いていきたいと思います。
まず僕は、ボケだけが、あるいはツッコミだけが、というようにどちらか一方だけがお笑いコンビの肝になるとは思いません。僕がある特定のお笑いコンビについて話していたらたまに、「ボケとツッコミのどっちが面白い?」という質問をしてくる人がいます。これは僕からすれば、嘆きを抑えれないほどにナンセンスな問いなわけで、こいつの頭はたぶんホコリが溜まってるからいっぺんダイソンで吸引した方がいいなとぐらい思ってしまうのです。もちろんその場では、平静を装って、適当に返答しておきますが。
なぜナンセンスかというと、コンビの面白さというのは二者の総合的なものであって、その二人が組んで始めて現前するものであるからです。
お笑いコンビってのは、ピアノでいえば白鍵と黒鍵の組み合わせであり、それに対してお笑いコンビの面白さってのは、その白鍵と黒鍵の組み合わせである鍵盤が奏でるハーモニーみたいなもんです。だから、白鍵だけ存在しても、黒鍵だけ存在しても音楽が成り立たない(あるいはものすごく空疎になる)のと同じで、コンビの面白さも、どちらか片一方が持っているというものではないのです。


ところで、このボケとツッコミというのは、どのようにメカニズムと定義できるでしょうか。
ここでもさきの「コンビと面白さ」の話と同じ話になります。ボケだけが笑いを喚起したわけではありません。それ自体で面白いというものも中にはありますが、たいていはボケにツッコミがなされた後、笑いが起きます。ですから、そこで生まれた面白さというのは、ツッコミだけで語るとはできませんが、ボケだけで語る事も同じくできない。両者は不可分なものです。
ボケが生まれてそれにツッコミがなされて、笑いが起こる。この一連の行為はどのように説明できるでしょうか。


『恋愛の不可能性について』という本があります。それだけ読むと、今流行ってるケータイ小説の類?という何やらちゃらんぽらんなイメージを催すタイトルですが、著者は社会学者の大澤真幸。中身はガチガチの言語哲学です。
その中の第3章「言語と貨幣の間を往復する」では、その名のとおり言語行為と貨幣との別領域の間を架橋をする試みがなされます。自分以外の他者の存在を必要とする点では、言語(私的言語は存在しない)も貨幣も、いろいろな共通点があるコミュニケーション行為である、ということが論じられていくわけです。


ボケとツッコミ。
僕が思うにそれも、一つの「交換行為」なのではないでしょうか。もちろんその交換するものとは言葉と言葉です。
ボケの言葉とツッコミの言葉が、正当な交換をなされるときに、僕らは全うな形でそれを「面白い」と認識できるのではないか。


貨幣について、その第3章「言語と貨幣の間を往復する」の中で、興味深い疑問が投げかけられます。

貨幣はそれ自身としては価値をもたず、ただ他者の受容(の可能性)を通じてのみ、獲得することができる。それ自体としての貨幣、いわば私的貨幣が、価値をもたないということは、貨幣がそれ自身としては欲求の充足する性能をもたないということ、つまり欲求の最終的な目的とはなりえない、ということである。したがって、(自身の商品を売って)貨幣を受け取るということは、危険な選択肢である。ならば、なぜ他者(売り手)は貨幣を受け取るのか?


大澤真幸『恋愛の不可能性について』(ちくま学芸文庫)105頁

お金というのは、言うまでもなくそれ自体ではほとんど使い道がありません。もしかすると、次に自分がそれで物を買うということになった時に、売り手の人は「なんだその紙切れ」と受け取ってくれないかもしれない。そんな不安のあるお金が、なぜにこれほどまでに世界中で広く利用され、交換され続けるのか。

貨幣を貨幣として機能させているのは、任意の貨幣の受け取り手(他者)に対して、その貨幣を受け取ることになる後続の他者(他者の他者)が存在している、ということについての受け取り手(他者)の信憑である

(同上)


目の前にいる受け手だけでなく、その受け手がそれを次に渡すであろう他者(他者の他者)がいるということについて「信じられている」ということ。そのこと自体が、貨幣を課へ至らしめている条件だという事です。ここでいう「他者の他者」とは、具体的には現前しません。がしかし、その「他者の他者」という、自分から考えて三番目の人物がそれを貨幣と認め受け取ってくれるということが期待されること。そのことが貨幣を貨幣たらしめている理由だと、大澤は論じます。ここで重要なのは、貨幣の交換と言う行為が、売り手と買い手、その二者のどちらでもまだない第三項が、存在していないながらも、想定されているということです。


さて、これをお笑いコンビのボケとツッコミの話に戻すと、交換の始点となるのはボケです。
そのボケの人がボケるのはなぜか。それは、ツッコミの人にツッコんでもらうためですがそれはもちろん、その「ツッコミ」という他者の次に控える、未だ現前化していない他者(他者の他者)にそのボケが届くということについての「信憑」があるからです。ここでいうところの、「未だ現前化していない他者」というのは、僕たち視聴者であり「ボケが届く」というのは、ただ単に「耳に届く」ではなく、もちろん「ウケる」ということです。言い換えると、僕らは視聴者はツッコミを介してボケを笑っているということです。


さっき僕は、「ボケの言葉とツッコミの言葉が、正当な交換をなされる」と書きました。面白いボケはもちろん必要ですが、そこには其れに見合ったツッコミとの正当な交換が必須ではないでしょうか。


ここで、ようやく浜ちゃんの話なってきます。実はダウンタウン浜田は、このような正当な交換行為とはまた別種のツッコミ(交換)をします。それは分相応な大物タレントがボケた時、とちった時のツッコミです。


大物演歌歌手や、同じお笑いの超大物まで。浜ちゃんは区別することなく、ある意味平等に相方の松本にするがごとく頭をはたきます。そのあまりの無差別さに、それを見ている相方、共演者、スタッフ、そしてテレビの前の視聴者は、一瞬ドキリします。なぜかというともちろん、その大物タレントが「キレるのではないか」という恐れがあるから。これは先の交換という視点から考えると、こんどは逆に浜ちゃんのツッコミが、「大物タレント」のそのランクに見合ったものかどうか。要するに、「その人にそんなことしていいの?」ということが試されているわけです。そのツッコミが大物タレントのプライドを著しく損ねるものであったならば、その交換は不可能ということにであり、この大物タレントを怒らせてしまうということになります。

でもしかし、ツッコミが「大物タレント」と見合ったものになるかどうかは、実際にツッコんでみないと(交換してみないと)わからないということが、さらに重要です。そういう意味では、いってしまえば「大物タレント」への浜ちゃんのツッコミとは、「命がけの飛躍」であるわけです。

この「大物タレント」へのツッコミは必ずといっていいほどウケるのですが、これがしかし面白いのは、ツッコれた側であるその大物タレントが相変わらずニコニコしているから、つまりちゃんと交換がなされたがゆえに面白いのではありません。それよりももっと前に、そのツッコミがちゃんと相手に受け入れられたか、その判断がつかないうちが、浜ちゃんがたたいた瞬間が面白いのです。つまり、あの面白さとは一見分不相応なもの同士が、交換という同一平面状で対峙した際に起こる、コラージュ的な緊張感。それが生み出す面白さといっていいのではないでしょうか。


ダウンタウンとしてのボケツッコミが、その正当性を十二分に認められる交換であるとしたら、浜ちゃんが松本以外の大物タレントという他者にツッコミときの面白さとは、そのツッコミが、そもそも交換が可能なのかどうか、その可否をすらも危うい交換。そのツッコミが、その交換が存在しえるかどうかと言う事そのものへの、スリリングな快楽が隠されています。


ダウンタウンの全国的進出に弾みをつけ、そして全国的人気を決定付けたのは、ある番組へのゲスト出演でした。「クイズ世界はSHOW by ショーバイ!!」です。この番組で、当時世間的には明らかに「ランクが上」の大物タレント、故・逸見正孝に対して、回答席の机の上にウンコ座りするなど暴挙とも取れる振る舞いと下品で激しいツッコミは、浜ちゃんと「命がけの飛躍」としてのツッコミの人気を決定付けたといえます。


しかし、この大物タレントへのツッコミ、「命がけの飛躍」としてのツッコミは、近年(少なくとも視聴者の立場からすれば)「命がけ」でもなくなってきています。それには、単純にダウンタウンそのものが十二分に大物と化してしまい、大物タレントへのツッコミが、十分に正当と思えてしまうものになってしまった、ということとともに、浜田の「命がけの飛躍」としてのツッコミそのものが、幅広い認知を受けてしまった(冷や冷やするということそのものが常態化してしまったということ)、ということでもあるでしょう。

思えば僕たちは、ダウンタウンが本格的なコントを何年も見ていません。
それに加えて、松ちゃんはテレビ以外の、映画の世界に力の比重をシフトしています。
お笑い芸人の「上がり」と言うものの一つに、「文化人」というものがあり、それと同時に芸人が文化人へとシフトしていくというその過程には、不思議な寂しさがあります。文化人(あるいは文化人的)になることは、「面白いことをするのを辞める」と同義ではないものの、其れに限りなく近いからです。「面白い」の種みたいなものが限りなく充満し、あと一押しで笑いになるような空間でさえ、笑いを取らなくなる。笑い声に飢えなくなってしまう。そのようにして、「元」お笑い芸人が面白いことから去っていく後姿に、寂しさが湧き上がってくるのです。


しかし、ダウンタウンはそうならないと浜田は断言しています。以前に行われた『Quick Japan』のインタビューにて。

浜田◆いや、僕、「ごっつ」がなくなったから「HAMASHO」(〇二年〜〇三年/日本テレビ)みたいなことを始めたんですよ。


インタビュアー◆え?どういうことですか?


浜田◆「まだまだ俺はハゲヅラ被っとかなあかん」と思って(笑)

(・・・)
ただ、まぁ、松本にもやらせないといけないですね(笑)。松本がカッコイイ雑誌なんかでちょっと違う方向へ・・・、「おいおい、ちょっと松ちゃん、おいおい」っていうような方向に行ってしまったらダメと思ってますから。いつまでもやっぱり「こっち側」にいてもらわないと。「またヅラでも被らしとこ」と思ってやってるんですけど(笑)


Quick Japan』vol・51「ごっつええ感じ」NOW 52頁


彼の言うところの「こっち側」とは、おそらく面白いことをいうことだけにこだわる「お笑い芸人」の側のことを指しているのでしょう。
この箇所を読んだ時に、「なんかカッコイイ」と感じてしまったのは僕だけでしょうか。これを読んだ後の僕はおそらく、コテコテのハゲヅラ被った彼にでもダンディズムを感じてしまうでしょう。今年には、ベッタベタな人情教師モノのドラマ(『夢の見つけ方教えたる!』)にもなぜだか主演していました。今だってオリンピックという俗物的なものの司会をしています。でも彼にはそれが許されるのです。


ダンディズムはダンディズムでも、お笑い芸人としてのダンディズムであるがゆえに、「コテコテさ」や「ベッタベタさ」との両面を持つ、浜ちゃんはそんな不思議な存在なのであります。


イマダ