花笠、買って帰ればよかった。 


後悔18日目


山形県の花笠祭りに行ってきた。バックパッカーとまではいかないものの、青春18切符でよくある貧乏旅行。東北本線を鈍行でだらだらと北上し、落ち葉で止まるという噂の仙山線を経て山形駅へとたどり着いた。夕方6時頃、その日は3日ある祭りの最終日らしく、司会者の発奮した声と共に祭りが始まる。

ディズニーランドのパレードさながら、花笠音頭に乗せて1kmほどある通りを各組が踊り歩くこのお祭り。13組、けやき小学校、山形ストリートダンサーズ、NTT山形、自衛隊、などなどテーマパークに負けないバリエーションの多さで次から次へと人が出てくる。見ている人より踊ってる人の方が多いんじゃないかというくらいだ。3時間も続く、見ている側の方が疲れてくるようで、ぐずる子供をつれて早々に帰る人たちもたくさんいた。
しかし、ディズニーランドのパレードと決定的に違って良いのは、「あぁ、この人、普段は○○なんだろうなぁ。」という日常を乗り越えて、踊っている人がハジけている様子である。ミッキーやシンデレラには(ある程度憶測で想像することは出来ても、しっぽすら出さないのがプロである)見られないギャップを、花笠ダンサーたちは見せてくれるのである。
自慢のライトブラウンの髪の毛をきれいにアップしてメイクはAneCan、子供の腕が通りそうな大きな輪っかのピアスを付けて、浴衣で完璧に踊る女性や、猫背で大きなメガネでハの字眉毛、働くおっさん人形の野見さんみたいな男性が、一心不乱に踊っている姿などなど、カーニヴァル化する社会の中でもまだ、日常と祝祭が分かれている場は存在する。

さて、そこでは「祭り」というイベントが、あらゆる人の祝祭、ハレとケのハレを保障してくれていた。「はいっ、ここから祭りです!祝祭です!あなたの非日常ですよっ!」と、町や他人や空気そのものが、その人のハレを分断してくれているのである。これで踊る人たちは安心して、ケの自分、日常を切り離すことが出来た。しかし、いわゆる「都会」に帰ってきて強烈に感じたが、都会にはそうした保障をしてくれるモノが、全くと言っていいほどない。何か誰か大きな力に「はいっ」と線を引かれることはまるでなく、どろんどろんとまどろんでいるのが今の都会なんじゃないかと感じた。
祭り祭りというが、お祭りを経験した人なら誰しもが分かるとおり、その最中にドラマチックな展開になる人は参加者の中の一握りである。残りの人はなんとなく湿っぽい暑さに体力を奪われ、割高の焼きそばを食べさせられ、りんご飴を下にくっ付けて焦るだけの、しょんぼりとした顛末を辿る。いつのまにか「ハレの日、非日常=ドラマチックでないといけない」と認識してしまった我々は、ただ日常とは違うだけで良かったはずの祝祭には耐えられなくなってしまった。
という意味で、今の都会がカーニヴァル化しているというのはより的を射ていることになる。良くも悪くも、どろんどろんとした日常からはなかなか抜け出せない。

お金を使わないと、消費を重ねないと、非日常化できないようでは、単にハレとケが逆転しただけである。都会に帰って感じたしんどさの原因はたぶんここにある。定年退職を迎えた人が、農作業などのケ中心の生活を望むのも、少し分かる気がした。

ハレ中心の生活をしなければいけないのは分かっているけれど…という、なんだか今回は地味な後悔だった。
後悔した。


おおはし