『ラカンはこう読め!』議事録


ラカンはこう読め!

ラカンはこう読め!



あなたは神様を、信じますか?


この手の質問の辛いところは、とっさに答えられる反応が「はい」か「いいえ」かの、2択しか用意されていないことだ。「はい」と答えた瞬間信教者になってしまうし、「いいえ」と答えた瞬間無神論者になってしまう。熱心な信教者なら「はい」と言えるし、信じていたのに裏切られた(上手くいかなかった)人間なら「いいえ」と言える。問題なのはこの質問が、こういう人たちのためだけに用意された質問だということだ。


現在の私たち日本人の生活を振り返ってみると、この質問に対して、非常に曖昧なところにいるのではないだろうか。私たちのほとんどは、日頃教会に通ったり、礼拝をしたりといった宗教的な行動をとらない。にもかかわらず、正月には初詣に行き、おみくじを引いて一喜一憂する。熱心な信教者の語るお話なんて耳も貸さないくせに、何かいいことがあると「やっぱり神様はみてくれてるんだわ」とか言うのである。一言で言うと、「神様なんているのかねぇ?」という曖昧な態度が、私たちの基本姿勢である。いるかもしれないし、いないかもしれない。いるかいないかなんて知らないから、信じるも信じないもないのである。


このことは「死んでいる」と「死んでいない」の境界を突き崩す、「不死だ」の発想と似ている。テキストの言葉遊びのように「信じている」と「信じていない」の境界を突き崩すのは「不信だ」にはならないが、代わりに「神様なんているのかねぇ?」が第3の領域、つまり「信じている」とも「信じていない」とも違う、ある種不気味な領域を生み出している。


そもそも日本では、人間と神様の付き合い方はいいかげんである。神様には八百万の神様がいて、いい神様もいれば悪い神様もいる。神様自体、いいかげんなのである。(例えば『憑神』では、たまたま道端でみつけた稲荷の前で拝んでしまったがために、主人公は貧乏神・疫病神・死神にとり憑かれてしまう。しかも主人公の身の上に同情し、宿替えしたりするのである。)だから「苦しい時の神頼み」、人間の方もいいかげん(笑)。果てには、福の神を追い出して、貧乏神と一緒に暮らす男まで出てくるのである!(まんが日本昔ばなし「貧乏神と福の神」より。)


さて冒頭の問題に戻ろう。上で述べたように、私たちは神様を信じているわけでも、信じていないわけでもない。なのにそのことを上手く、とっさに一言で言えないのだ。だから「はい」か「いいえ」かとりあえず言ってしまうのだが、しかし実際は違う。そのことを上手く伝えられないのが、言語の不便さでもある。だから「あいつのこと好き?」とか、この手の質問は辛いのである。


しかしさすがは日本人!いや日本語!この質問を華麗(?)に回避する劇的な言い回しが、日本にはあるのだ。


「あんま信じてないかなぁ〜?」
「最近結構、信じるようになってきたかなぁ〜。」
「まぁ、わりと好きかも。」
「嫌いじゃない感じ?」


・・・っあああぁぁまどろっっこしい!!これだから日本人はっっ!!


ところでテキストでは似非能動性、すなわち能動的に参加しなければならないという強迫感について述べているが、では積極的に1歩下がり、参加を拒否することが得意なひきこもり大国・日本では、相互受動的な状態に対する、真の批判への第1歩を踏み出せているのだろうか。


いうまでもなく、そんな実感はかけらもない。何も変化しないようにするために能動的でいる人たちは、ゲルニカを覆うよう要求したアメリカの代表団しかり、結局変化を引き起こし得るではないか。能動的でいる限り、ミスを起こし得る。エラーが起こり得るのである。しかし受動的であることに、ミスもエラーも存在しない。受動的であると、月日が経つこと以外、本当に何も変化しなくなる。だからあるとき気づいたら、親が死んでしまった、自分が老け込んでしまった、自分だけとり残されてしまった、という事態が起ってしまう。竜宮城でもてなされ続けた浦島太郎が陸に上がったときの悲劇を、ジジェクはどう説明するのだろう。真の能動性とは何か。真の批判の第2歩はどうやって踏み出すのか。リアル・浦島を抱えつつある日本にとって、この問題は深刻である。


そこで「参加する」でも「参加しない」でもない、第3の領域(「不参加」ではない)はどうだろうか。つまり、八百万の神様のときのような、いいかげんな付き合いである。(「いいかげん」という言葉自体、多義的でいいかげんである。なお、似たような言葉に「てきとう」という言葉もある。)相手のことが好きだし嫌い。(「好きでもないし嫌いでもない」という言葉の方がよくつかわれるが、これだとあからさまに「他人」になってしまう。)信じているし信じていない。友達だし友達じゃない。(ただし個人的な経験として、「恋人だし恋人じゃない」は上手くいかないようである。残念ながら。でも熟年夫婦の「愛しているし愛していない」なんて、むしろそれがあってこそ夫婦が成り立っているのではないだろうか。)な
あなあに、のらりくらりと、てきとうな距離保ってりゃいいじゃないか。高校の先生も、そのくらいの方が長続きするって言ってたし。あからさまに近寄ることもないし、あからさまに離れることもない。真の能動性がどうのとか、積極的な参加の強迫だとか、ひきこもり願望だとか、こだわっていると非常に辛い。(俺は今積極的な参加を望まれている。どうしよう。何かしなくちゃ…//どうせ俺はひきこもりだし。あいつ知り合いだけど、とりあえず無視しておこう…)そのこだわりをなくせば、もっと楽になるのではないだろうか。(俺は今積極的な参加を望まれているけど、ここはのっとこうかな。/まぁ、今日はいいや。//あいつ知り合いだけど、気分いいから話しかけようかな。/早く帰りたいから、今日はいいや。)


なんか「気まぐれ万歳」みたいな文章になっちゃったけど、まあいいかっていう、自称・気まぐれの、太田の文章でした。


太田