事実をフラグ化するんじゃなかった。 


後悔19日目


ディズニーランドのナビゲーターは、アトラクションに乗った僕らにまずこう言う。

「このアトラクションは、絶対に安全でーす♪」
「ちょっとやそっとの衝撃ではー、びくともしませーん。」
「万が一、何かあったときも、緊急脱出装置がついているので大丈夫でーす!」

これは、2ちゃんねる界隈で言うところの「フラグ」である。これがあることで我々は、アトラクションに起こるトラブルをより過剰なものとして楽しむことができているのだ。今、そうしたフラグがどんどんと我々の生活に進出し、あらゆる出来事がフラグ化しているのではないかと思う。


フラグとは、ある一定の分岐点において過去になされたことのしるし、のようなもので、英語のフラッグ(旗)に由来する。TrueかFalseか、1か0か、onかoffか、そうしたスイッチの切り替えで、その後の展開が判定されるのだ。例えば、ロールプレイングゲームで、いつまでたっても王様が同じ話しかしなかったのに、母親に話した後もう一度謁見すると、「隣村に行って薬草を取ってきて欲しい。」と言い始めたとしよう。するとそこには「母親に話しかけるフラグ」が存在していたことになる。あるいはノベルゲームで、「思い切って刹那ちゃんと手をつなぐ」を選んだ場合と「このまま並んで歩く」を選んだ場合で結果が違うのも、どちらのフラグを立てたかによってその後の展開が判定されているからである。

そうした判定が、映画や小説の「伏線」に似ているとして、同じようにフラグと呼ばれる場合がある。形骸化したストーリーの伏線として何度も繰り返し扱われるシーンに対し、皮肉をこめて「フラグが立った」と言うのである。
代表的なものでは、戦場を描いた作品において「俺、この戦争が終わったら、結婚するんだ。」と言う登場人物はほぼ100%、後のシーンで死ぬことが決まっているという「死亡フラグ」や、入学式の朝に遅刻ぎりぎりで学校に向かっている時ぶつかった同級生が教室につくと同じクラスにいる場合、これからこの二人は絶対恋仲になるという「恋愛フラグ」などがある。形骸化してしまって、「先が読めますよ」と揶揄する思いで、フラグがという言葉は使われているのである。


しかし元来、フィクションにおけるフラグというものは過去遡及的に分かるものであったはずだ。
普通は、何かが起こって初めて「ああ、あの時のアレが。」と理解するものだった。しかし、今の我々は倒錯的に、フラグそのものを楽しむようにチューンナップされていやしないだろうか。ある種の過剰を作り出すための装置であるはずだった(そう使わなければいけないという取り決めなどないので正しいか正しくないかの問いは立たないが)フラグが、結果に先立って消費されているのである。そしてやっかいなことに、作り出されるはずの過剰のエネルギーは、「フラグ通りの展開か否か」の二点のみに回収され、「想像通りだった!」か「想像と違った!」か、というその二つの衝撃度によってのみ計られるようになってしまったのである。

フラグがその圧倒的な既視感を皮肉ることによって、期待を裏切るような展開を見せる素晴らしい作品が次々生まれた、ということは全くなく、生まれたのは、ただ期待を裏切るような展開を見せる作品だけであった。もはや我々はフラグが眼についた時点で、条件反射的にある一定の予想を立てざるを得ない。

以前、今田君が格闘技の「煽り映像」について書いていたが、そうした事前情報もいわゆるフラグである。それによって結果が出る前に当該する人物が消費されてしまう、ということは大いにある。今回の北京オリンピックを見ていてもよく分かるが、メダルの有無に関わらず(もちろん無の場合の方が悲惨だが)マスコミが先に物語化した選手ほど盛り上がりは低く、毎度の事の様に「え!」という競技で活躍した選手が脚光を浴びているのである。そしてその後新たな物語化が始まるのは言うまでもない。



『パンツをはいたサル』にあるように、人間が過剰を作り出す生き物だとすると、日常のあらゆることをフラグ化することで、結果を「予想通り」か「否」かで判断して過剰な快感を生み出す、ようなことは簡単に起こりうる。実際、2ちゃんねるのスレッドにおいては(特に安価メールなど)フラグを立てては折り、折っては立てるという快感製作装置が機能している。分かっているはずの結果でも、もしかしたらそれを裏切るかもしれない、という期待に沿って、快感原則に忠実な人間は出来事をフラグ化するのである。

「小説よりも奇」なはずの事実が、フラグにより既視感を帯びてフィクション化すると、我々は当該する人や物をやはりTrueかFalse、1か0、onかoffでしか見られなくなってしまう。フラグ化によって、現実にあるはずのものが、フィクションのように装置として機能してしまうのである。ここに大きな問題があることに、なかなか気づけないし、気づいたとしてもそれを止めることは難しい。そしてそれすらも「罪悪感フラグ」として、我々は消費してしまう。



最近、芥川龍之介の『地獄変』を読んだ。

地獄変 (集英社文庫)

地獄変 (集英社文庫)

主人公の絵師、良秀が、殿様のために「地獄変」という絵を完成させるまでを描いた短編作品である。肝はやはり、絵を書くにつれて次第に狂っていく良秀が、真の地獄絵を完成させるために、娘が火に焼かれるという地獄絵図を自身で目の当たりにするシーンだ。そうして完遂した「娘死亡フラグ」に、読者である僕は非常な快を感じる。しかし、その後に来る罪悪感を防いでくれるのは、これがフィクションだという事実であった。

フラグ化して楽しめるのは、フィクションの領域だけであった。
やはり事実はフラグ化すべきでない。
後悔するとともに、
反省した。


おおはし