観念論者の憂鬱


――issue35


ここでは賛美両論を呼ぶこととなったヴィレッジヴァンガードですが、この前実家に帰った際に、あまりにもヒマなため毎日足を運んでいました。


でも、何か買うという目的があるわけではないんです。前にも書いたかも知れませんが、僕はあの店のあのゴミゴミした雰囲気自体が好きなので、まわっているだけで楽しいわけです。もし何か買うとなっても、吟味に吟味を重ねた上で買うため、買った後で後悔したということもあまりありません。
そんな僕なのですが、先日珍しく衝動買いに近いものをしてしまいました。いや、厳密にはその場で見て即買ったというものではなくて、実は実家に帰って始めて訪れた日からずっとモヤモヤしていたもので、さらに買ったのもつい最近なので、まだ後悔する買い物だったのか、そうでないのかはわからないのですが。


その品物とは、あるマンガの主要キャラクターが勢揃いした図が描かれたポスターでした。僕自身そのマンガのファンですし全巻を持っていたので興味はありましたが、身銭を切ってまで欲しくはない。
みなさんもそうだと思いますが、僕の場合買い物には三つのレベルがあって、一つ目のレベルが「一目惚れ」。何としてでも手に入れたいというレベルです。その次のレベルが今回のポスターのような「嫌いではない」という、いわば「グレーゾーン」。「ちょっと気になっているあの子」というやつですね。そして最後が「全然無い」のレベルです。「恋愛対象と思えない」とか、そういうどん底のレベルですね。


僕の場合はでもしかし、第一段階の「一目惚れ」ですら、かなり悩んだ上で購入に踏み切るわけです。「一目惚れ」ですらなかなか行動に移さないでモジモジしています。かなりの奥手です。
ですから、第二のレベル以降では、もうほとんど買うことにはならないはずなんですが、今回はある意味買わされてしまいました。


それがどういう手法だったのか。いや、それは手法とさえ言えないほど、些細なことでした。先にも書いたとおり、最初に行った日からそのポスターは置いてありました。かごの中に筒状になった状態で、5本くらい置いてありました。ポスターの絵柄を見た時点で「あぁ、いいな」とは思ったものの、その時点ではまだ例の「グレーゾーン」です。


その次の日。またそのエリアに行くと、その前日あったはずの5本の内1本が減って4本に。そのときもまだ「あぁ、一本売れたんだ」というぐらいの感情しか持ちませんでした。
しかし、そのまた次の日にも一本減って3本に。
この日ぐらいからでしょうか。前日まではそんなにそわそわしていなかったのですが、「ちょっと欲しいかも」という状態に傾き始めました。


そしてついにその次の日に、さらに2本が減ってかごの中にはラスト一本だけになってしまったのです。結局その最後の一本は、僕の部屋に飾られることになったのでした・・・。


このエピソードはなかなか精神分析的なのであります。
有名なラカンの言葉、「他者の欲望の欲望」。ポスターを買わせたのは、ポスターに対する僕の内なる本源的な欲望だけではありません。たしかに、絵柄や構図に惹かれはしたものの、それだけでは買わなかった。それがヴィレバンに訪れた最初の日の僕です。


ポスター自体の魅力以上に、僕を魅了したのはポスターが減っていくということ、もっと言えば誰かがポスターを買っていったという事実です。僕をポスター購入に踏み切らせたのは、見えざる他者の購入した痕跡です。誰かがこのポスターを欲望していたという痕跡を、僕は欲望したのでした。


でも、このエピソードでさらに重要なのは、他の4本のポスターは実際に他の誰かに買われていかなくてもいい、ということ。「サクラ」ですら、必要ありません。もしかして、僕が買うまでに無くなっていた他の4本は、実はまだ、店の倉庫に眠っているのかもしれない。重要なことは、ただ一点。毎日ポスターの本数を減っていけばいいのですから。


唯物論的に考えれば、そこにあるのは「昨日5本あったポスターが4本になった」という事実だけですが、僕ら現代の観念論者はそれを「売れた」と判断し、さらには「人気がある」という結論をも下すわけです。


話は逸れますが、なぜに僕らが観念論者になるのか、若干説明をしたいと思います。観念論者っていうのは、今の時代でいうところの「自分の内面に固執する人」に当てはまると思います。
昨日太田君が議事録を書いてくれた『ラカンはこう読め!』には、次のようなジョークが登場します(うら覚えですが)。


ある一家が休日におばあちゃんのお見舞いに訪れることになった。その家の子どもは行くことを拒みます。友達と遊びに行きたいのです。そのときに父親が子に諭すその仕方で、唯物論者と観念論者は決定的にその袂を分かつのです。
唯物論的なお父さんなら、「本心では行きたくなくても行って、お前は黙って座っていればいいんだ」と言うのです。
それに対して、観念論的なお父さんなら、「わかった。お前が本心から行きたくないのならば、別に付いてこなくていい」と言います。でもこんな風に言われて、平気で外に遊びに行ける人がいるでしょうか?いたらその人は、冷血人間でしょう。


おそらく、唯物論的の方だけ聞くと、なんだかドライだなぁという感想を持ったかもしれませんが、それはある意味「型にはまる」ということです。とりあえず型にはまっておけば、内面でどう思おうがそれはそれで許されるのです。それに対して、観念的の方の文言はもっとつらい。自分の本音、内面を問われているわけですから。


そして僕らが、どちらの側に立っているのかというと言わずもがな。後者になるわけです。僕らは何でもかんでも自分の内面に根拠を求めます。それを突き詰めると、物事の裏の裏を読めと言うことになります。なぜそうなるかというと、その裏の裏を読んでいった先に、きっと正解や確信、本当の何かがあると思いたいからなんですね。これは先週号の「自分(笑)女」にも当てはまります。「本当の自分」とか、「自分らしさ」とか。そういうのが生まれたときからある、と思っている。


人を好きになるということについても同様です。なぜなら、自分が好きなった人というのは、自分についての重要な情報の一つですから。どのような人に、どのように惹かれるかは、その人にとっては鏡の前に立つようなものです。昔よりも僕らの世代は確実に性的な情報に多く晒されているし、一部の人は実際に性的にオープンであるのにもかかわらず、未だに僕らは「純愛志向」でいる。「自分が本当に好きな人」としか付き合わないわけですよね。


でもこの純愛志向というのは純愛志向と言えばまだ聞こえはいいですが、実のところは「本当に好きな人でなければいけない」という「制約」みたいなものですからね。


さらに言えば、こういう純愛思考の恋愛や自分探しに生きるっていうことは、実はすごく危険なことで、単純な話、もし「自分が本当に好きな人」が現れなかったらどうするのでしょう。あるいは「自分が本当に好きな人」と結ばれなかったらどうするのでしょう。
自分探しを志しているバックパッカーが、アジアを、アメリカを、アフリカを、ヨーロッパを何十年もかけて旅した後でも、探してた自分を見つけられなかったら・・・。そのときに彼の手元に残るのは、良いものから挙げると旅の思い出、ただそれだけ。悪いものはいろいろありますよね。何の知識も経験も積まないまま過ごした年月。顔中に刻まれたしわとか。たぶんそんな人だから、年金だって払っていないでしょう。


このたとえ話、僕らは笑えるでしょうか。僕は笑えません。本当に好きな人に会う前に、男として枯れてしまう。カレセンがそのときも流行っていたらいいでしょうけれど、僕にはそんなことに賭ける勇気はありません。


真相はだから、やはり「型」にあるのだと思います。僕らは唯物論者を見習って「型にはまる」べきです。自分で自分を掘り下げていったところで何にも見つからないわけで、結局僕らがすべきなのは「とりあえず働いてみる」であり「とりあえず付き合ってみる」ということなのであります。そのように形式だけ見よう見まねで整えてみる、「とりあえず」から入っていくことが、実は重要なのではないでしょうか。


ん?働いてみたところできっと面白くはない?付き合ってみたところできっと好きにはならない?
いや、だからさぁ、そういう自分の未来に対する予見が立つこと自体が自分という存在の確定性を信じて疑わないことの裏返しであって、それも「本当の自分」という確固たる存在がいるという思いこみなんだって。



話がだい〜ぶ逸れてしまいました。話を戻しましょう。
ポスターが一本売れていて、それから早合点したイマダというある観念論者が、他者の欲望に触発されてポスターに身銭を切ってしまったという話。
しかし、もっとつきつめていけば、ポスターの本数は減らしても増やしても、どちらにしてもポスターの本数を変動させさえすれば、「他者の欲望の痕跡」は遺すことができますし、「他者の欲望の欲望」はかき立てられるのかもしれません。なぜなら、品数を増やしたなら増やしたで、僕たち観念論者の想像は「昨日5本あったポスターが10本に増えた」という単純な事実だけでなくそこから、「昨日まで待っていた在庫がようやく届いた?」という憶測(?)にまで行きつき、最後には「売れ行きがいいので在庫を増やしたんだ」という結論にまで至り、結果的にそこから存在さえしないかもしれない「他者の欲望」を演算できるのですから。


これから何かのショップをやる人にアドバイス。もし人気のない商品や、なかなか売れにくい商品があったとすれば、毎日陳列の配置や陳列する数を変えてみるといい。そういった商品の扱われ方に変化を付けるだけで、実際は何もないところに消費の欲望が生まれる。


ん?でも商品の数とか陳列のされ方なんて、毎日のようにお店に顔を出している僕のような暇人でないと気付くはずないような・・・。


毎日毎日飽きもせずヴィレバンに顔出すんじゃなかった。
後悔した。


あっ、これはおおはし君の連載だった(一度このオチ、やってみたかった)。


イマダ