moso magazineよ、永遠に


――FINAL
モテるためには、何が必要かということについて話していた際に、後輩女子から「エロさ」が必要なのだということを聞いた。

なるほどと思ったのだが、よく考えてみたらエロいということを突き詰めていくと、「エロいって何?」という疑問にぶち当たる。エロカワ系とほざき、うら若き女子をも自分をエロいというカテゴリーに当てはめても許されるぐらいに「エロい」が氾濫する現代であるが、「エロい」ということの本質について、僕らは何もわかっちゃいないのでないだろうか。
エロカワ系のディーバの歌う曲だって、きっとエロいということの本質を教えてはくれないだろうし、わかっちゃいないいだろう。彼女らは露出度の高い服を着ているだけであって、それによって彼女らがエロいという確証はどこにもない。本当はエロいのかもしれないけれど。


ところで、僕の中で原初の「エロい」というイメージを占有していたのは、何を隠そう俳優の「船越英一郎」である。



「2時間ドラマの帝王」の異名を持つ彼なのであるが、僕の中ではそんな印象など彼を構成するものの内の5%たらずでしかなかった。僕は彼を始めてブラウン管越しに見たときから、一貫して「この人はエロい」と思っていた。当時の僕の脳内において、エロいという観念があったとして、神がそれを現世において有機体として具現化したとすれば彼という形態となって現れるのだろうという想像が成り立っていた。それぐらい僕にとって彼は偉大なるエロい存在だったのである。
別に彼にまつわるゴシップ記事を見たわけではない。そういうエロさを実証する出来事があったわけではなく、あの癖のあるハの字眉毛、クリクリッとした眼、やや後退した頭髪、中年特有のアブラぎっしゅな肌、声色、話しているときの独特のおちょぼ口。それらすべてが、僕がこの人に対してものすごくエロいのだろうなという印象を持ってしまうのには、余りある構成要素だった。


興味深いのは、当時の僕は彼に対してエロいと感じるのと同時に、強烈なる嫌悪感を抱いていたということだ。当時は彼のことが本当に大嫌いだったのだ。なぜかというと、彼がエロいから(というか僕にはそう見えていたから)。


思えば当時、エロいということは嫌悪の対象だったのである。
少女はどうかしらないが、少年が自分のエロさに気がつき始めるのは、小学校の高学年から中学校一年生ぐらいだ。そのときは自分のエロさというものに、だれしもが違和感を持つ。ある日から、その日までと何の変わりもないクラスの女子を、それ日までとは全く違った視線で追ってしまう。もっといけば、その子の服の下はどういった作りになっているのか想像してみたり、その子の裸が見たいとかいう欲求に駆られたりする。その日までだとありえない思考に脳内が支配される。
そのことがたまらなくイヤだったのである。これが一般的な性の目覚めであり、エロの目覚めなのである。


僕が船越英一郎を始めてはっきり認知して、エロいと感じて、エロいから嫌悪しだしたのも実際に、この自分の性の目覚めの時期に符合する。だからつまり、僕は船越英一郎のエロさを通して、船越英一郎越しに、自分のエロさを嫌悪していたのである。


断っておくと、今となっては船越英一郎のことを僕は、それほど、というよりか全くエロいと思っていないし、嫌いでもない。むしろ好きな部類のタレントである。人間時が経てば印象も変わるもので、彼を2時間ドラマ以外の空間で見たとき、「ぐるナイ」などのバラエティーで見た際にはちっともエロいとは感じないのである。


船越英一郎が僕の中におけるエロいの代名詞の座から去った今も、僕自身は依然エロいのである。
僕の印象だと、僕は相当エロいと思う。今このセンテンスを書いていて、自分でものすごくバカらしくなったが、いや本当にそう思う。


最初の問いに戻るとエロいというのは、一体全体どういうことなのだろうか。
セックスしまくる人というのは果たしてエロイのだろうか。あるいはよりアブノーマルなプレイを彼女に強要したりするやつは、果たしてエロイのだろうか。またセックスのパートナーがいなくとも、マスターベーションの回数が多ければ、それはエロいということになるのか。これらは実践の問題であるが、おそらくエロさというのは、実践に移してしまうと消失してしまうものなのである。

試しに、セックスをすることに事欠かない人間と、官能小説家を並置させてみよう。いったいどちらがエロイのだろうか。おそらく大多数の人は、官能小説家を選ぶのではないだろうか。
僕が思うにエロイとは、行為に移さないことの極地なのである。脳内と現実のギャップ。そしてそれは言い換えれば「妄想」することなのである。


その点において、よく言う「むっつりスケベ」という部類の人間は、確かにエロいということになるのだろう。しかし、問題はむっつりしたその面構えの向こうで、いったいいかなる妄想を繰り広げているのか、なのである。全然エロくないといった面持ちの、その向こう側でどれほどまでエロいことを考えているのか、なのである。しかし、エロいのかは実践してみないとわからない。しかし、先に書いたとおり実践してしまえばエロくはないわけである。そうなると結局、「エロいというのは存在しえない」のである。そして存在し得ないからこそ、「エロい」のである。


ん?ん?自分で書いていてわけわからなくなってきた。もう少し違う観点から考えてみよう。


妄想の妄とは、「女」の上に「亡」であるから「女が亡くなる」と書く。だから妄想とは「女はいないが想う」と、解釈できる。この語の作りはつまり、妄想とは原理的に一人で、孤独に成し遂げることを意味している。そしてさらにはそれが究極的に非経験的で非対話的な行動ということにもなる。

女性に対する妄想、恋愛に対する妄想、さらには性交渉に対する妄想は、原理的に際限がない。そしてその妄想によって生み出されるのは、いわゆる「全能感」というやつである。妄想することにおいて僕らは、その全能感という翼において、どこへでも羽ばたける


「彼女ができたら何かが変わるんじゃないか!?」
「女の子と手をつないだら社会の見え方が変わるんじゃないか!?
「女性と結ばれたら、世界に平和が訪れるんじゃないか!?」


そういった類の全能感である。そんな妄想と、それによって生えた全能感という翼がもぎ取られるのは、ただ一つのことによってしかありえない。ずばりそれは、「経験」することによってだ。


思えば経験というものを経たことによって、僕は他にもいろんな全能感をはぎ取られていった。僕個人のことでいうと、最初に抱いたのは「楽器を弾けたら楽しいだろうな妄想」。楽器を弾けないうちは、上手く弾けている人間を見ることによって、自由自在に楽器を操れることに対して、過剰な幻想を抱いてしまう。幻像というのは、妄想するためのいわば「種」みたいなものなのである。その種から、妄想の花が咲く。

しかし、練習して上手くなるにつれて、現実に上手くなっていく自分と、妄想の中で上手い自分との著しい解離に気付く。解離に気付いたとてそれを縫合する術はなく、もうそれはどうしようもない。そこから下手になっていくことは出来ないし、下手になれたとしても、一度上手くなっている自分の記憶は厳然と残っているからである。


そのほかにも、「ブラインドタッチができたら楽しいだろうな妄想」があり、今まさにこの連載を僕はモニターを見ながら淡々と書き進めているのだけれど、書いていることはともかくブラインドタッチができていること自体は全然楽しくない。案の定、現実は妄想を超えられなかったのである。今現在僕の中でまだ「存命中」の妄想に「英語が流暢にしゃべれたら楽しいだろうな妄想」というのがあるが、これも実際に英語がしゃべれるようになったら怪しいもんである。

先に書いた船越英一郎の例にしたってそうなのである。僕自身を分析するに、彼がエロイという妄想から僕が抜け出せたのは、実は彼が松居一代と結婚したからなのである。僕にとって彼のエロさというのは、彼がいい歳なのにシングルだったという、かっこよく言えば彼の不確定性にあったのである。そのエロいという妄想は、彼が家庭に入ったという事実においてある意味「去勢」されたのである。

このように、妄想とは現実に存在しないが故に、そして現実に存在しない限りにおいて、最強なのである。内弁慶ならぬ、「脳内弁慶」なのである。


ちなみにジョン・レノンがかつて、世界の平和を願い『imagine』を歌った。あの歌は「想像してごらん」で始まるが、実は「妄想してごらん」で始まっても良かったのではないか。世界の平和は、想像ではなくもっと強力な力を有す妄想でなければ、実現しないのではないか。
しかし、彼は妄想ではなく想像を選んだ。いや、彼には想像はできても妄想はどうしてもできなかったのである。なぜなら彼の傍らにはオノヨーコという人生の伴侶がいたのだから。


妄想はやはり一人でなければ成り立たない。最強、故に孤独。孤独、故に最強。


そして残念ながら、ジョンがこの世から去った後も、僕たち人類は、いがみ合い殺し合っている。想像ではどうにもならなかった。それはやはり彼が歌うべきが「想像」ではなく「妄想」であったという意味なのかもしれない。


ここまで書いたとおり、人は妄想する限りにおいて、エロいということになる。だがしかし、ここにはある一つのアポリア(難問)が介在している。妄想するということは、実は経験がしたいということの裏返しなのである。女性と付きあいたいし、恋愛がしたいし、セックスもしてみたい。つまり、妄想をやめて早く現実世界へと抜け出したいのである。しかし、そのように妄想に対する負の思い(妄想に対する造反、裏切り)があってこそ、当の妄想は強度を増す。女性と付き合うというのはどういうことなのだろう?手をつなぐとは?キスするとは?抱きしめるとは?そういった現実世界への希求、リアルな感触への切望によって、皮肉なことにますます妄想が膨張していく。


今も僕の中では女性に対する、恋愛に対する、セックスに対する妄想が、経験という去勢をうけることなく膨張し続けている。


それは僕の脳内から外の世界へと飛び出して、同心円状に広がり、あらゆるものを飲み込んでいく。
僕の家から、まず一番近くの大学と国道1号線を包み込みながら拡大する。一瞬、東京ドームと同じ大きさになったが、すぐにそのサイズを超えて膨張を続け、そのまま横浜全域を包み込む。その後東京を包み、千葉、埼玉を包み、関東全域を包み込む。さらには西と東へとその範囲を拡大して突き進み、名古屋、大阪、広島、九州、東北、北海道を、やがて日本全土に覆い被さっていく。妄想の前には国境という人間のつくった決まりも無に帰す。難なくそれをのり超え、海を渡り大陸へと進む。
朝鮮半島では38度線を軽々と超え、大草原ではそこに棲息する野生のチーターと追いかけっこするだろう。アフリカでは未開の民族のマナと戯れるのかもしれない。妄想が通った後には、数十年は草木が生えないといわれたチェルノブイリにさえ満開の花が咲き乱れ、紛争地域では敵味方入り乱れて抱き合い、たちまち休戦協定が結ばれるだろう。

そして妄想は、日本の反対側アルゼンチンまでその範囲を広げ、ついに地球全体を覆い尽くす。しかし、妄想はそこでは途切れない。何度も言うように、妄想は止まるところを知らないのだから。
地球上で膨張しきった妄想は成層圏を、大気圏を突破し、ついには宇宙空間へとあふれ出す。太陽系を突破し銀座系を突破し・・・。妄想はどこまでも広がり続ける。そう、どこまでも・・・。


イマダ


二日連続投稿で何ごとかと思われたかもしれませんが、冒頭で記したとおりFINAL、最終回です。突然ですが、区切りを付けるということでmoso magazineの連載は今回をもって終了したいと思います。短い間でしたが僕の拙い文章を読んでくれて、本当にありがとうございました。