マンガ的近代の超克――前編・永遠に強くなり続けるお父さん――


2nd GIG


唐突ですが、連載タイトルの(仮)をいいかげん取っ払って、本当のタイトルにしたいと思います。
決めました。新タイトルは「moso magazine 2nd GIG」(セカンドギグと読む)。お察しの通り、結局元に戻ったことになります。聞くところによると、どうもmoso magazineというかつての連載タイトルのほうに愛着を持たれていたという読者もいらっしゃったということなので(もちろん、新しい気の利いたタイトルが思い浮かばなかったという理由もありますが)、そういうことでご容赦ください。

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北斗の拳」も「ドラゴンボール」も「ワンピース」も、少年マンガの王道ともいえる作品は近代的であるということをご存じだろうか。
このことは、かなーり前のエントリーで書いた。北斗の拳ドラゴンボールもワンピースも、その他あらゆる少年マンガの、その主人公たちは強くなっていかなければならない。それは、ただ強いというだけではならない。強敵と相まみえることによって、常により強く、より強くなっていかなければならないのである。これを僕は「少年マンガ弁証法」と呼んだ。


この少年マンガ弁証法は、一時は発行部数600万部を超えた週刊少年ジャンプで連載されるマンガの通奏低音となっている、マンガの三原則、「努力」「勝利」「友情」に見事に符合する。
主人公たちは強敵に遭遇し一度は破れるが、その後修行や「努力」を積み重ねることによってパワーアップ、強敵にリベンジを挑み見事「勝利」を収めるが、その強敵とも和解し新たな友情が芽生えていく。
この少年マンガ弁証法は、ドラゴンボールにおいては、「サイヤ人は死をのり超えれば強さが増す」という設定によって担保されていたという向きが確かに強いが、読むと分かるのは初期の頃は設定上ではそのことは顕在化せず、少年悟空のビルドゥングスロマンという意味合いが強い。中期になって悟空がサイヤ人という宇宙人である設定が明かされるが、その後もそのサイヤ人という設定によって強くなっていくことが保障されるというよりも、マンガの世界観が悟空の強くなっていくことを後押ししているようにさえ見えてくる。


このマンガ的近代ともいえる状況を、多くの少年マンガは最終回まで超克できなかった、といえる。
例えば「北斗の拳」は、主人公ケンシロウが兄にして最強の敵であるラオウを倒したそのとき、終わってもよかったはずだが、その後も闘い続けなければならなかった。一子相伝北斗神拳をめぐる壮大なサーガは、適度なところで終わることはできず、さらに次々と家系図が「継ぎ足していく」ことによって、全体を通してみると間延びしてしまった感が否めない。


またドラゴンボールの悟空は、少年から青年へと成長していき、ついには結婚し、子どもさえも授かったが、それでもなお強くなり続けることを宿命づけられていた。
そして、そのことは悟空が息子の「父親」になるということで、さらに強化されたといっても過言ではない。
息子の御飯は、強敵セルとの死闘の中で父・悟空を失った後に、自らの手で敵を倒す。この時点で設定的(なんでも一度は願いを叶えてくれるドラゴンボールで悟空は一度生き返っているため、二度と生き返ることはできない)にも悟空は二度と生き返れないことになり、間接的ながらも息子・御飯が父親・悟空を超克したかに見えた。しかし、次の魔人ブウ編において、その当初の設定をも歪曲した形で、悟空は現世に帰ってきてしまうのである。そして、さらなるパワーアップ(超サイヤ人3、ポタラ等々)を遂げて、ついに自らの手で最後にして最大の敵をも、やっつけてしまったのである。
父というのは依然、一家を守るというイメージが強く、それは強さの象徴のようにも見える。しかしそれと同時に、やがては衰え、息子たちに超えられていくというイメージも内包している老いの象徴でもある。しかしながら、悟空は御飯に超えられない。超えられてはならない運命なのである。ドラゴンボールにおいては、どんなに強くなっても父を超えることができない息子・御飯の存在によって、父・悟空の強さがさら膨張していく仕組みになっているのである。


ブウの脅威が去ったあとの最終回になっても、悟空の強さは揺るがない(ブウを倒す直前に、永遠のライバルであるはずのベジータが悟空に対して「お前がNO1だ」と吐き捨てるように言うのが印象深い)。いつまで経っても肉体的に精神的にも衰えないし、老けもしないという彼の存在の不気味さは、父親という設定であるにもかかわらず顔や肉体が、息子や孫(書き忘れた、彼には最後には孫もいることになっているのである)に負けず劣らず幼いという彼の不気味な最後の容姿に相関する。それは、彼がなおも少年であり、なおも成長し続ける、(さらにはまたより強い敵に遭遇する)可能性を秘めている、ということを暗示する終わり方なのである。


もちろん、すべてのマンガが少年マンガではないのと同じように、「少年マンガ弁証法」に囚われていない、いわばポストモダン的なマンガも存在する。まったりした世界が永遠に続くような「らき☆すた」のような作品は、僕からすればまさに現代であるが故に生まれたマンガというような気さえする。
しかし、依然少年マンガに限って言えば、その近代的な成長譚の歴史に上手い具合に別れを告げることができた作品はないといっていいだろう。


この少年マンガ弁証法は、不可避的に「強さのインフレーション」をも引きおこしてしまう。「強さのインフレーション」とは、少年マンガが強い敵を倒しより強くなり、さらに強い敵を倒しさらに強くなる、ということを繰り返していった後に、キャラクターたちが初登場時の強さをけた違いに超えた途方もない強さを持ってしまい、設定や世界観、ストーリーなどいろいろな面においてつじつまの合わない箇所や違和感が生じてしまう現象である。
キャラクターの強さと同時に、少年マンガはストーリーが取り扱う世界も巨大化していくため、「設定のインフレーション」なるものも指摘できる。敵が征服や、支配しよう企むのが最初はごく限られた国や地域であったのに、敵キャラがどんどん強く作新されていくうちに、彼らに狙われる規模も徐々に巨大化していき、地球全土、さらには宇宙全土と広がっていく。最終的に、一言では語り尽くせない「とにかくとてつもなく大きなもの」を賭けて主人公が戦うことになっていくのである。歴史上の近代が大きな物語に担保されていたのであれば、このマンガ的近代というのはこの「大風呂敷を広げるような展開」(はったりをかます展開)に担保されていたといっていいだろう。


これら、少年マンガ弁証法とそれに不可避的に内包される「強さのインフレーション」は、作り手であるマンガ家や、流通させる出版社がだけが関わる単純な問題としてかたづけられるものではないだろう。北斗の拳ドラゴンボールが、マンガの人気の動向が逐一連載のストーリー展開に反映されるシステム、アンケート至上主義をとるジャンプから生まれた作品である以上、誌面上に描かれるのは、読者の欲望なのである、といっても過言ではないのではないだろうか。


これらインフレーションにはある逆説も隠されている。それは、たとえマンガであつかわれる力がどんなに強くなろうと、たとえマンガがあつかう世界の規模がどんなに大きくなろうと、むしろそれに反比例する形で、そのマンガを読む読者が受ける作品のインパクトは弱くなってしまうという逆説だ。湯川くんのこのエントリーによると、かのベンヤミンも、常に進歩しているという意味では何一つ変わらない近代の時代性にマンネリ感を持っていたらしい。それと同じように、マンガ的近代が描くのは常に強くなり続けるキャラクターと常に広がり続けるその世界観の規模であるが、それらは「常に」であるが故に、すでに何も変化していないのと同じなのである。


しかし、実感としてはマンネリ化した展開に面白さを感じなくなってしまっている読者もその一方で、自分の好きなキャラクターがさらに強くなって、さらに強く恐ろしい敵と対決するという展開を待ち望んでいるのもまた事実なのである。このアンビヴァレントな感情こそが、長きにわたり少年マンガ弁証法とマンガ的近代の存続に手を貸してきたといっていいだろう。
マンガの展開としては、キャラクターがただ強くなり世界観がただ大きくなっていくだけのため、ストーリーとして新鮮みがない。しかし読者は自分の好きなキャラクターにはさらに強くあって欲しいと願う。その願望がアンケートに表出し、マンガの次の展開に反映され、キャラクターたちはされに強くなっていく・・・。


この悪循環から一歩抜け出し、近代のその向こうのポストモダン的な少年マンガのあり方をかいま見せてくれたあるマンガについて、次回の後編では論じてみたい。


イマダ