知る人ぞ知る、オモロー原理主義の恐怖


[2nd GIG

復活したmoso magazineも、早くもissue――3を数えます。

それにしてもめっきり寒くなりました。
突然ですが、みなさまは男女問わず性器とその周辺が浅黒いのが、当人の「使用」の過剰に由来するというよりも、性器の部分が冷えてしまうのが殿方にとっての精子、奥方にとっての卵子によくないため、日光が集中するような色素が選ばれたという体質的な事情のためであるというのはご存じでしょうか。
であるからして、これからやってくる冬は、みなさまだけでなく、みなさまの性器にとっても辛く厳しい季節。どうかみなさま、ご自身の性器をご自愛くださいませ。

マルチチュード


さて、僕も歴とした大学院生という身分であるからして、いろいろ小難しい本を読むのである。600ページぐらいあって、持ち歩いてたら人に「なんで百科事典なんて持ち歩いてるんですか?」なんて聞かれるような本を、いっぱいいっぱい読んでるのである。

そんな中、最近『マルチチュード』という本を読んだ。
ネグリさんとハートさんという人たちの共著だが、内容を一言でまとめるなら、政治的にも文化的にも国境線が前ほど意味をなさなくなってきている現代において、絶対的民主主義を叶えるためにぜひとも必要な「マルチチュード」はどのようにしたらなされるのか、その指針が書かれている。
マルチチュードというのは、かいつまんで説明すると、互いの性差や国籍、人種的、文化的、身体的な差異を尊重しあった上で、ひとつの目標に向けて協力、協働する政治集団のこと。それは、お互いの違いをひとつのものに同一化しようとする傾向にある人民、大衆といった集団とは違うものだ。
で、そのマルチチュードにおいてのみ実現するというのが、「絶対的民主主義」なんだけど、それは日本やそのほかのほとんどの国が掲げている「民主国家」という言葉における「民主」というような生半可なものではない。その民主主義を一言で表すと、「全員による全員支配」だ。

大雑把に言えばそれは、60億人というクラスの学級会を司会者も決めずに執り行うというわけで、どうみても無理じゃない?と、個人的には思うのである。

■ネットの民主主義と、オモロー原理主義


ところでこのマルチチュード実現にも、マルチチュードによる絶対的民主主義(全員による全員支配)実現にも、インターネットの介入は避けられないことがわかる。空間的に離れた、世界各地の縁もゆかりもない人々が、ひとつの政治的目標をかなえるために結集するのには、インターネットの技術を使わない手はないだろう。ネグリ=ハートもそのことには気がついていたようで、文中何度もネットの話は出てくる。


しかしだ。
彼らが思い描いているほど、ネットが民主的なのかという疑問が浮かぶのである。
インターネット、特にWeb2.0以降についてちょっとばかし調べれば、「ネットの民主主義」なんていうのは、あってないようなもんなのがわかる。
Amazonにしろ、Googleにしろ、もうすでに儲けている、あるいは儲けるノウハウを持っている企業がさらに儲けるというシステムが確立されている。「強者はさらに強くなり、弱者はいっこうに強くなれない」のである。
ネットは何も民主的でも、平等的でもないのである。財は特定の人に集中する傾向にある。
このことは、経済的問題だけに収まらない。


ネットという広大な海においては、発言する自由があってもそれは、「発言を聞いてもらえる権利」とは必ずしも直結しない。そこではアルファブロガーという人たちが、「注目」を独占しているのである。


世の中には、たった一日で、我ら症候会議のページビューほどの注目をあつめるブログがある(自虐)。
それらのブログ(はてなのホットエントリーなど)は、何を元手に注目を集めているのだろうか。例えば、Amazon、Googleという企業がネット上で覇権を握ることになった理由は、それらのサイトが持つ「利便性」という力にある。では、ブログの注目を集める力とは何か。
それは「おもしろさ」である。書いてあることのおもしろさによって、読む人がブックマーク、あるいは「はてな」だと「はてなスター」をつけていく。それらレスポンスという注目が集まることによってブログがホットエントリーとなり、さらにそのブログは多くの人の目に触れるチャンスを獲得することなる。そしてさらに多くの注目を集めていくのである。
ネットの世界は民主的なんてもんじゃない。むしろある強固なイデオロギーによる全体主義である。そのイデオロギーとは、「オモロー原理主義」である。
書いてあるのが面白いこと。以上、それが全て。誰かにさして伝えたいわけではないということでも、おもろければそれでオッケー!逆に、なんとしてでも伝えたいという明確な意志をもってして書かれた文章でも、面白くなければだーれにも読れないのである。

■オモロー原理主義の恐怖


何を今さらと思われるかも知れないが、このことについて触れたのは、最近このオモロー原理主義がネットの世界だけでなく、現実の世界でも支配的になりつつあるのではないかということを、僕が危惧しているからである。


つまりこれからの時代、面白い奴が財も権力も女も注目も全て独占するのではないか。


本当にそうか?と思われるかも知れないが、その徴候はテレビである。いつからだろう、今はお笑いブームだということはほとんどの人が否定しないとは思うが、それにしてもこのブームがささやかれ初めて、もう数年がたつ。ブームはいつかはやがて終わる。終わらないとしたらそれは、もはやブームではなく、恒常的にお笑いがテレビに求められている、と考えた方がよさそうだ。
兆しは、前に書いた「大喜利化する就職試験」にも現れている。その試験に入りたいという明確な意志を持っていても、「面白くなければダメー!」なのである。
ほら、おもしろさの有無が、財にも現れてきているではないか。


前々から何度も引いているが、「人志松本のすべらない話」の冒頭ではいつも、「だれしもがすべらない話を持っている」というナレーションが入るが、あれは今や「だれもがすべらない話を持っていなければ生き残れない」というぐらいに解釈すべきものなのである。


先のマルチチュードにしたってそうだ。ネグリ=ハートは全く論じていなかったが、もしマルチチュードが実現したとしても、人と人の集まりであるのだからおそらくそのうち権力構造が生まれるだろう。その権力構造の中枢に陣取るのはおそらく、面白い発言のできる人間なのである。
おもしろければ何でもよし。つまらなければ全てダメー!
まさにALL or NOTHINGなのである。

■ぬぐい難きオモロー格差


このオモロー原理主義の過酷さはこれにつきない。
おもしろさによって生まれる「格差」、いわゆる「オモロー格差」は、今の貨幣だけによって生み出される格差よりもぬぐいがたいものなのである。
ライブドア社長の堀江貴文が言ったとされる「金で買えないものはない」という言葉。一時期この言葉が堀江の傲慢さ、儲け方の道徳性の欠如の象徴としてあつかわれたが、裏読みすればそんなに悪いことを言ってはいないような気もする。
どういうことかというと、「金で買えないものはない」というのは、「金の全能性」を認めてはいるものの、それは決して堀江本人の全能性ではないからである(もっとも、その全能性を持つ金を集める能力に関しては、彼も自負していただろうが)。もし金がなくなれば、彼の周りの人も物も去っていくというのは、彼自身も、そしてそれ以外の人もわかっていたはずだ。


それに対して、おもしろさというのはどうだろうか。
例えば、僕イマダがおもしろさというものを独占し、あらゆる話を笑いに変えるオモロー長者だとしよう。そんな僕が、もし手持ちのおもしろさを全て失ってしまったら。そのとき、堀江のように急転直下に失墜するのだろうか。少なくとも、しばらくそれはないだろう。
なぜなら、「おもしろさ」という能力は失っても、僕のおもしろさというものを判断するのが僕を見る人であるからして、おもしろさを失った後の僕がつまらないことを言ったとしても、それを見る人の中で「イマダ=おもしろい」という主観が判断と分かちがたく結びついているため、「おもしろい」ということになる。あるいは、例え僕の発言が「つまんね!」と思ったとしても、「(そんなつまんない発言を)面白いはずのイマダがいうから、逆におもしろい!」という風になるのである。


金の例えと比べると、おもしろさというのは僕個人が保有しているのは全体の半分、あるいはもっと少ないのかも知れない。それよりも、僕のおもしろさというのは、僕の周りの人が分配して保有している、と考えた方がよさそうである。

そんな風にして、まさに「面白いやつはますます面白くなり、つまらないやつはますますつまらなくなる」のである。


これはお笑いの世界もそうだ。さんまやタモリダウンタウンとんねるずといった大御所は、自分保有のおもしろさ(笑いのセンス、才能)とともに、視聴者にも彼らのおもしろさ(主観、人気)を保有させている。
であるからして、ちょっとやそっとつまらないことを言っても、「つまらない」ということにはならないのである。それに対して、今流行の「レッドカーペット」や「あらびき団」に出ている芸人たちは、自分保有のおもしろさ(笑いのセンス、才能)もまだ育ってないし、その上まだ視聴者に分配保有させているおもしろさも少ないがゆえに、すべったときは目も当てられない状況になるのである。

■オモロー原理主義が浸透すると男も女も皆平等に(過酷に)なる


このオモロー原理主義に関して、男女差はあるかと問われると、少し複雑になってくる。
例えば、合コンやお見合いパーティという初対面でありかつ、目的(セックス、結婚)もはっきりした場所では、あまり効力を発しない。女性はおもしろくなくてよく、むしろおとなしくかつ慎ましくしておいた方がモテるということも考えられる。男の方は話がおもしろいことにこしたことはないが、それよりか財力があったり、ルックスがよいというほうが重宝される。
では反対に、顔見知りの現場ではどうか。そこではオモロー原理主義がもろに発動し、男にとっても女にとっても過酷なものになる。例えばゼミや仕事の打ち上げなどの飲み会では、恋愛やセックスが目的でないがゆえに、その場のおもしろさが一番重要になってくる(中には下心を持った参加者もいるだろうが)。すると、面白くない奴は男女問わず、話題の周縁に追いやられ、面白い奴のオモローヘゲモニー国家のみじめな従属国に成り果てるのである。
僕も何度かそのような現場に居合わせたことがあるが、ヘゲモニーの周縁に追いやられた人は、本当にみじめで可哀想になってくる。


このように、オモロー原理主義は初対面の間柄よりも、なじみの者同士の間柄の方が過酷になってくる。しかしいずれ、「面白い女でないと一緒に家庭なんて築けないよ」という男も増えてくることだろうし、今は過渡期と考えていいだろう。

■なぜ今、オモロー原理主義


ところで、なぜ今にしてオモロー原理主義が覇権を握ったのだろう。その鍵はやはり、近代からポストモダンへの移行に隠されていると思う。
近代においては、みんながみんなで乗っかることのできる大きな物語が存在した。例えばマルクス主義のようなものだが、それらが「背骨」のごとく歴史の身体を貫通していたが故に、人々はそれなりにその背骨と身体についての、内容をともなった話をするように努力する必要があった。
しかし、それら背骨である大きな物語がまっぷたつに折れてしまった。具体的に言えば例えば、ソ連が崩壊したことによって、マルクス主義はその大きな物語としてのオチの部分が「ネタバレ」してしまい、信憑性を失ってしまったといっていいだろう。それ以降、細分化された小さな物語を点在するポストモダンに時代は変わったのである。
そこでは、もはやマルクス主義を始めとする大きな物語のように、内容は精査されない。そのような大きな物語を喪失した分、その穴をとりあえず補うような雑多な小さな物語(ちなみに小さな物語は小話ともいえる)、内容よりもその場を盛り上げるような面白い話が重宝されるようになっていくのである。この時点では、とりあえずであるからして、面白いということにそこまで力はなかったはずだ。


しかし、そのプロセスが加速すると、逆に今度は面白くないとダメという風に手段と目的が転倒することとなる。僕が思うに、今のオモロー原理主義には、このように最初は大きな物語の空白を補っていた小さな物語が自己目的化していった結果なのではないだろうか。

■オモロー原理主義の今後と、それに向けた施策


さて、このオモロー原理主義が現実の世界に浸透していくとどうなるのだろうか。
先にも論じたが、おもしろくないかどうかが財産にも多分に影響してくるようになるだろう。どなたか経済学者の人に面白い人とつまらない人で、生涯賃金にどれだけの差がでるか、計算して欲しいところである。
ちなみに、この面白さというのは、金や不動産のように親から子へ代々で受け継がれるとは必ずしも言えない。お笑い芸人の二世で成功した人があまりいないということにも現れているが、才能と同じでおもしろさというのは遺伝しない可能性があり、同時につまらないというのも遺伝しない可能性があるのだ。ただそれ故に、おもしろい親からつまらない子どものが生まれた場合、我が子のつまらなさに怒りを覚えた親が、「オモロー虐待」を働く可能性は捨てきれない。また、つまらない我が子の将来を悲観して行う「オモロー心中」に関しては、周りの人がいち早く察知するべきだろう。


そのようなオモロー原理主義がはびこる世の中においては、国や地方自治体もなにかしら施策を打ち出すべきだろう。オモロー格差も、立派な是正対象なのである。
まず直されるべきは、内容云々にかかわらず、つまらなければ話を聞いてもらえない、というところである。つまり、つまらない人が「私は全く持って、自分でもあきれるほど面白くないですけど、私の話は聞いてください!」と声高に叫び、それに聴衆も応えて発言を聞いてあげる、そのような社会が作られるべきである。ビンボーしている人には生活保護という助け船があるが、これからは「国民は最低限のおもしろさが保障される」という「オモロー権」が立案されるべきだろう。
主観的に決定されるおもしろさというものに国が介入し、つまらない人には「ドナーカード」ならぬ、「さぶーカード」を交付すべきだ。つまらない人はこれを首からさげて話す。すると聞く人は、「ああ、この人の言っていることはつまらないが、『さぶーカード』をかけているから聞いてあげよう」と、親身に聞く努力をする義務が発生するのである。


そのようにして、面白い人とつまらない人がともに平等に面白さを分かち合う、「オモロー共産社会」が確立されるのである。


僕は何を言ってるんでしょうか。


イマダ