ディズニーランドにいるときだけアホになります


2nd GIG


みなさんこんにちは。
突然ですがみなさんにお伺いしたい。不良というのはいつから純愛とか母親とか家族とか自然などと親和性が高くなったのでしょうか?
いえ、というのも最近、深夜まで起きている僕の習慣がさらに悪化して、朝方までテレビをぼけーっと眺めていました。すると、その時間にテレ東で、Jポップや演歌の新譜のPVが流れているのです。そこでたまたま目にしたある映像。
場面は昔ながらの田んぼのあぜ道。そこをとぼとぼ歩く青年。でも、その青年の出で立ちは、そんな自然の風景とはまったく似つかわしくない、むしろ渋谷や新宿でたむろしているような人種のそれです。彼自身が歌手なのでしょうが、延々と誰かに宛てたこちょばゆい「愛の唄」を口ずさんでいます、しかもあの語尾になぜか「ハァ」という吐息が混じるラップで。あの「俺」と「おまえ」の息苦しい、閉鎖的な二人称の世界観。
それとともに挿入されるのは、彼の歌の宛先であろう女性の映像。暖色で彩られた部屋で、編み物をしている女性、その人の髪の色だけはかろうじて黒でしたが、メイクの仕方などからどう見てもギャル系。つまり、先の渋谷系男子と対をなす系統の女性なのです。
確かに、「<自然>の中で育まれる<純愛>」という結びつきまでは、許容できます。しかし、その舞台設定で描かれるのは、属性としてはあまりにも似つかわしくない、渋谷系男とギャル系女の恋愛なのです。これが見ててキビしい。
たしかにこれまでも、不良という属性には「情にもろい」という側面がありました。しかしそれはあくまで、「実は情にもろい」だったはず。いつもは校内暴力を振るう彼も、実は捨てられた子犬を可愛がってた、いつもは女の子に乱暴な言い回しでしかものが言えなかった彼も、実は本当に彼女を愛してた、という具合にです。
しかし今の時代、不良はこの「実は」の部分が完全にとっぱらわれて、「情にもろい」が前景化してしまったではありませんか。
これを僕は、主義主張が一貫しきたと、ポジティブにはとらえません。単に人間として単純だったのがますます単純になっただけなのではないでしょうか。
その映像と歌の強烈なコントラストに目を奪われていたら、曲が変わりました。
今度もまた、さっきの渋谷系男子と同じような、キャップを斜めにかぶる強面の、がたいのいい髭男のドアップ。ところがそんな彼が歌う歌詞は、育ててくれた母親への感謝の気持ち。
「ウゲッ!」と思って、それとなく画面右下の曲のタイトルを見ると「薬箱」。
もう勘弁してください。どうもイマダです。


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先日、社会調査をかねてディズニーランドなるものにはせ参上つかまつりました。僕自身は3度目でしたが、さすが夢の国といわれるだけのことはあり、その世界観、徹底した管理、そのショーマンシップには、毎回のことながら脱帽します。老若男女を問わず、人はこのディズニーランドにいるときだけ、子供になれるのです。これはウソではない。

しかし、それでも子供と大人の間には、超えられない壁があります。僕はそのことを今回知りました。前回行ったときはたしかもう大学生でしたが、そのときには気がつかなかった。成長というものが僕にあったのでしょうか。
ディズニーランドにおいて、子供がなる子供と、大人がなる子供とは、実は別物です。


子供が子供になるとは、端的に言えば日々の学校生活で発散できない純粋さと無邪気さを奪還すること。各アトラクションに潜む謎に、いつもなら発揮できない純真な好奇心を持つことが許されるのです。そこでは、いつもなら「そんなことよりも早く宿題をすませなさいっ!」と口やかましい鬼ババ母ちゃんも、「さぁ?なにかしらね♪」と、いっしょになって楽しんでくれるルンルンママに様変わり。母親からすれば、日々の家事から解放されて、機嫌が良くなっているだけかもしれませんけど。
とにかく、ディズニーランドで子供が子供になることとは、その純粋さを奪還することなのです。


それに対して、大人の場合はどうでしょう。彼らも子供に帰れるとして、その子供とは、子供たちが純粋さを取り戻した上でなれる子供と同義なのでしょうか。僕はそうは思いません。


日々の生活や仕事、人間関係、経済問題にさいなまれるうちに蓄積されたストレスや不安。皮肉なもので、それらを溜め込みやすい大人になるにつれて、それらをはき出すことが許されなくなってきます。この社会では、そのようなネガティブな感情を外に解放できるのは、元来子供のみと決まっていますから。だからたまに、それらに耐えきれなくなってぶち切れる人が出ると、それに輪をかけて「子供じみた行為」となじられる。いや、だからそういう「大人なんだから」とか「子供じゃないんだから」という考え方があるから、大人が負のエネルギーを溜め込んじゃうんだって。


いや、話が逸れました。大人はだから、辛い存在なんです。
でも、そんな大人でも、ディズニーランドでは子供になれます。ではそのディズニーランドで、大人が子供になるというのは、どういうことか。それは、子供が子供になるときの「奪還」とは異なります。むしろ逆です。それはストレスや不安といった負のエネルギーの「放出」なのです。
そして、その放出によって大人が帰る子供とは、しばしばグロテスクなものなのです。


僕にそのことを感づかせる、二つの事例があります。
ディズニーランドを歩いていると、地べたに座っている女性がいました。そこは少し開けた広場のような場所です。ディズニーランドに行ったことのある人なら、あそこの床がすべてゴム製で柔らかいのはご存じでしょう。たしかに座るのには適さないことはない。しかし、場所としては皆が行き来する広場のど真ん中であり、あきらかに不自然です。まるで、だだをこねているかのようにも見えます。僕だけでなく、他の人もちらちらその人を見ています。
一瞬、体調が悪くしたのかなと、勘ぐってもしまいました。しかしそうでもない。その人はビニールシートをだして、完全に自らの意志で、その場に座っているのです。
しばらくしてわかりました。その人は、昼間のパレードを見るための場所取りをしていたのでした。何度も行っているから知っているのでしょうか、ここが一番見るのに適しているという場所を早くから取っていたのでした。
でも、再三論じたとおりそこは、皆が歩く場所のど真ん中で、僕なら羞恥心がともなって、そんなことできはしない。しかし、ここでの問題は僕とかの女性の差異ではない。そんなことよりも、かの女性が夢の国の中だからこそ、当然のごとく座っているその身振りのグロテスクさが僕の心に残ったのです。

パレードは確かに美しい。一番よい位置で見たいというのが、人の抱く願望なのかもしれません。大人たちが日々縛られている何ものかを放出して子供に帰るときに露わになる、普段なら「分別」という名で抑制が効いていたはずの願望の真の姿。かの地べたに座る女性を通して、大人が帰る子供の不気味さに僕は気がつかされたのです。


もう一つは、あるアトラクションを待っている時のことです。

僕らはユニークフェイスの人のすぐ後ろに偶然並びました。そういうときはどう振る舞おうかというのを今でも悩むのですが、とりあえずその時は見ないし気にしないふりということに徹しようとしました。
しかし、そこで間のあたりにしたのは、僕ら以外の他の並んでいる人の視線というものの暴力です。子供に帰った大人たちの容赦のない視線。そこまで近くだと、本人が気がつくだろという距離でもお構いなし。ジロジロジロジロ彼らは見るのです。でも彼らは見ていると同時に僕に見られていました。「夢の国に来たのに不気味なものを見てしまった」という、彼らの表情に現れる下劣さ。それこそが「感じたことをそのまま表現できる」という子供の特権の不気味な裏面です。僕はたぶん一生忘れないと思います。
「お前らの血は何色だ!!」と、『北斗の拳』のレイばりにその時の僕は心の中で叫んでいました。もちろん、その人に対して同情という言葉は軽々しく使えません。僕がどのように想像力を働かせたって、あの人の代わりにはなれないですから。
しかしこれだけは言える。もしあれがディズニーランド以外の場所だったらどうだったか。彼らは、その人の顔を見ても大人の対応をとっていたのではないでしょうか。いや、吐き出せずに溜め込んだ負のエネルギーが苦しくて、他人のことなんて構ってられないだけなのかもしれませんが。


ディズニーランドで、何かを取り戻す子供がいれば、何かを吐きだしていく大人もいる。
もしかして、スタッフさんが回収して持ち歩いてるゴミ袋にも、彼らが吐きだしたその一部が入ってるのかもしれません。
またいつか僕も、あそこに訪れるでしょう。そのとき僕はそこで何を奪還して、何を放出するのか。そしてその僕の身振りは、見るに耐えれるものなのか。それが気がかりであるのでした。


イマダ