※下記の記述には<<ネタバレ>>が含まれています


2nd GIG


みなさん、こにゃにゃちは。
どうもイマダです。
今日はおちゃめに、あいさつで軽くボケをかましてみました。

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さて、先週僕は、今話題の『ブラインドネス』という映画を観に行った。
あらすじをかいつまんで説明すると、ある日突然、人の目を見えなくさせる謎のウイルスが蔓延して、どんどん盲目の人が増えていってしまう。要するにパニック映画だ。


ブラインドネス』を観た後、この映画に対する他の人の評価が気になった。そこで家に帰って「みんなのシネマレビュー」の『ブラインドネス』のページをのぞいてみたのである。すると、そこには赤い文字が上の段から一列にキレイに並んでいた。


<<ネタバレ>>である。


映画を観た人だけに許される特権。「このレビューでは、その映画のオチにバラしちゃっているので気をつけてくださいよー」という但し書きである。この<<ネタバレ>>という言葉は、少なくとも2000年代に入ってから使われ出したと思うが、もはや一般化している。『ブラインドネス』は、そのテレビCMなどで、かすかにそのような「とんでもないオチ」を臭わせていたため、おそらくそれに関して、彼らレビュアーは言及しているのだろう。

ところでどうだろう、この<<ネタバレ>>という標記には何か、そのレビューの書き手の独特のナルシシズムを感じられはしないだろうか。


「あなたはだめ!まだこの映画観てないんでしょ?ならこのレビューを読んじゃダメよ、オホホホ♪」


「知っている者」と「知らない者」の間に引かれた、絶対的に超えがたい一線。それが<<ネタバレ>>だ。
もちろん、そのレビューを開けば、誰だってその映画のオチの真相を手に入れることができる。しかし、<<ネタバレ>>を無視してレビューをのぞき、映画のオチを知ってしまっても、僕たちは「知っている者」の側にはつけない。大抵<<ネタバレ>>と書かれているレビューは、実際に映画を観た人でないとわからないような、こみ入った内容が書かれていたりするので、そこだけを目にしたとしても、あなたに<<ネタバレ>>によって隔てられた、知っている者の向こう側にたどり着くことはできないのだ。それにそもそも、あなたは作品そのものを観ていないのだから。そこを超えるにはやはり、自分も映画を観るしかないのである。


しかし、そもそもこの<<ネタバレ>>という線を引き、自分を知っている者に、他者を知らない者にすることによって快楽を得るのは、映画鑑賞に限った話ではないのではないか。
先日、9月に千葉で起きた幼女殺害事件の犯人が逮捕された。この事件が視聴者の目を釘付けにするのは、逮捕前の犯人が平然と、マスコミのインタビューを近隣住人として受けていた、というところだ。僕の錯覚だろうか、最近特にこういう逮捕前の犯人の映像を目にすることが多くなっていやしないだろうか。
江東区で起きた、ipodのイヤホンをタートルネックからたら〜んと垂らしていたあのおじさんの殺人事件の時もそうだった。あの犯人もほとんど狼狽することなく、むしろ堂々とした態度でマスコミに応対していた。


なぜ彼らは、マスコミの前にノコノコ現れるのか。もしかすると彼らが堂々としていたのは、<<ネタバレ>>の快楽を味わっていたからではないだろうか。自分を囲むカメラやマイク、そして報道陣の視線。彼らが求めているのは事件の真相であり、彼らは無知。つまり「知らない者」だ。そして犯人だけは、その彼らの獲物、事件のオチを「知っている者」なのである。彼ら犯人がいけしゃあしゃあとテレビのインタビューを受けるのは、<<ネタバレ>>という表記をつけたいからだ。
もちろん彼らはそこで、「僕が犯人です」となんか、宣言しない。彼らがするのは、報道陣の前に現れる、そこまでである。それこそが、彼ら犯人にとって、事件に<<ネタバレ>>という標記を付けることになるわけである。もちろん、そのようなパフォーマンスには、犯行発覚の危険がつきまとうが、それでもそれを犯してしまう(江東区ipod野郎は、何度も囲み取材を受けていた)。それほどまでに、事件に<<ネタバレ>>をつけることの快楽は、依存性が高いのかも知れない。


日常における<<ネタバレ>>はしかし、犯罪者だけのものではない。僕ら一般人の人生だって、そもそもは<<ネタバレ>>の集積だ。


(12月10日書き忘れた部分の追記)
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僕自身にも、少年時代にはものすごい<<ネタバレ>>の快感享受の思い出がある。それは小学校6年生のころである。その当時、ゲーム少年たちの間での根っからの話題は、発売当時の「Nintendo64」、通称「ロクヨン」についてであった。発売してまだ間もないそれは、まだ二万をくだらない高価なものであり、大多数の子供にとっては、読んでいるコロコロコミックコミックボンボンなどの雑誌からの情報としてしか近づけないものだったのである。
だが、イマダ家は、なんとそれを買っていたのである。そのときの経緯はよく思い出せないが、なぜか当時の親父は羽振りがよかったのである。母親は、もしうちにロクヨンがあることが学校でバレたら、家にガキどもが大挙して押し寄せるのが目に見えていたから、子供の僕と弟には「かん口令」をしいていた。
しかし、学校では当のそのロクヨンの話題で持ちきり。「俺、ロクヨン持ってるよ」という<<ネタバレ>>の一言で、教室のヒーローになれるわけである。

そんなの我慢できるわけ、ないじゃないの。

案の定、友人たちにロクヨンを持っていることを言ってしまった僕には、みんなからの羨望のまなざしが集中した。「あれはどうなってるの?」「どうやってプレイするの?」。彼らにとっては、家庭用ゲームとしてはまだ未知なる物であった「ジョイスティック」を搭載したロクヨンについて、僕はぺらぺらしゃべってしまった。その日の放課後、イマダ家に友達が大挙して押し寄せたことは言うまでもない。


今思い返して見せると、僕がロクヨンを通して視線を集めることで得た快感は、訳知り顔で報道陣の前に登場する、犯人たちの得ていた快感と、そう違わないのではないだろうか。お互い、<<ネタバレ>>という表記をなす行為だったということを考えれば。

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人と人の出会いというものにも、当然ながら<<ネタバレ>>は隠されている。
初対面の者同士が、お互いの「オチ」を知っているわけがない。いやむしろ、お互いの「オチ」を知っていないからこそ、興味が持てるのではないだろうか。その点で出会い系、その中でも特に、最近流行っている「プロフ」なるものの意味がわからないのは、お互いがお互いの趣味や特技などを予め知った上で会っているという点である。最初から全部知ってて、何が楽しいのか。


いかんいかん。説教オヤジみたいになってしまっていた。


残念ながら、僕らはお互い、<<ネタバレ>>の標記があるから面白がれるのである。「相手のことを知る」ということは、一般的にはポジティブなイメージで語られるが、ぶっちゃけた話、その知る内容も「知って何の得になる?」という程度のことなのである。おそらくね。
僕らは、友人に対しても恋人に対しても互いに、<<ネタバレ>>という標記によって謎めいた存在となり、相手の興味を引っ張り続けなければならない。これは人類の宿命なのだ。


でも映画に話をもどしてよ〜く考えてみると、<<ネタバレ>>をつけられて語られる映画って、幼稚なものが多いような気がする。要するに、最後の最後で起こる突拍子もないこと、大どんでん返しを目当てに鑑賞する映画なんだから。ひどいのになると、そのオチまでのプロセスになる2時間あまりは、ほとんど内容がなかったりする。それらの映画は、常に<<ネタバレ>>によって謎めいていなければならない。謎めいていなければ、もう誰も観ないだろう。たとえTSUTAYAの半額キャンペーンの時であっても。


その点、名作として後世まで語り継がれる映画は、<<ネタバレ>>なんてなくたっていい。
例えば、『明日に向かって撃て』なんて、「最後にポール・ニューマンロバート・レッドフォード死ぬんだよ」って言われても、全然平気なのである。なぜならあの映画は、最終的に二人が死んだかどうかに限らず、作中で彼らが歩んだ道全てが見せ場なのだから。『トゥルーロマンス』だって、最終的に二人が結ばれるのかどうかなんて、どうでもいい。そのプロセスが、有り余るほどエネルギッシュな映画なのだから。


だから僕らも、<<ネタバレ>>で人の興味を引っ張り続けるのは、いいかげん卒業すべきなのかもしれない。いつかは、「謎めいてはいないけど深みのある男」、「名作な男」になりたいものである。


イマダ