グーテンベルグをひっぱたきたい


2nd GIG


男の部屋のベットのそばには、本が山積みされている。背表紙をみると大学や市立図書館所有のものであることを明かす判がずらりと並んでいて、それらが借り物であることがわかる。延滞したくないという男の神経質な性格の表れだろう、それらは返却期限がせまっているものほど上の方に積まれていて、もっとも上に積まれた本の表紙が男に読んでもらうのを今か今かと待ちかまえている。いわゆる「積ん読」である。
しかしこれだけではない。男は街に出ると、古本屋にふらっと入る癖がある。そしてさらにそこで「読んだことないけどタイトルは聞いたことのある本」ないし「読んだことないし聞いたことないけどタイトルが気になる本」などを見つけ、それが安ければ片っ端から買ってしまう癖をももつ。それゆえに、次に読まれる予定である本の上に、また新たに「まだ読んでない本」が追加される。
男が最初に「積ん読」したのは、どの本だっただろうか。
そしてその本は、もう男に読まれたのだろうか。
もし読まれていないとすれば、はたして男はその本を死ぬまでに読むことがあるのだろうか。


今回は趣向を変えて、小説風に入ってみたが、これが今の僕の状況である。人がものを書くというのは、その先に読む人がいる、という根拠のない前提を想定しないとできないことだ。人に見せない日記帳の類だとしても、それは「未来の自分」という読者を、とりあえず読者として一人確保しているのである。この書くことについて、その意義を見いだせないという人の話を聞くことはよくあるが、僕はその逆である。最近僕は、「読む」ということの途方もない徒労は、いったいいつ報われるのだろうか、ということを思うのである。


この疑問は前から漠然とした形ではあったのだが、最近面白半分に読んでしまった『華氏451度』という小説のせいで、一気にそれは燃え上がった。このSF小説は、人にものを考えさせないようにするため、あらゆる本が読むことと所有することを禁止され、見つけ次第焚書官によって火炎放射器で焼き払われるという近未来が舞台だ。
この作品には、テレビと始めとするマスメディアによる情報統制、言論弾圧に対する作者レイ・ブラッドベリの批判が込められている。したがって、この本が描く世界はディストピアだ。読んだほとんどの人は、社会がこうなって欲しくないと考えるだろう。
しかし、これを読んだ後の今の僕の気持ちは反対だ。


焚書官さま!あらゆる本を焼き尽くしてください!」


前々から僕は、「一日一冊」という原則を勝手に決めて守ろうとしている。最近は忙しさも重なり、すこし守れていないのだが、それでも一日0.7冊ぐらいは読んでいると思う。しかし、残念ながら僕が一日に一冊潰したとしても、その何十倍、いや下手したら何百倍の数の本が出版社によって世に出されているのである。そう考えると、「一日一冊」の原則を守れたとしても、僕の気持ちは治まらない。
これはある意味、最初から勝負が決まっている出来レースである。もし僕が、栄養を点滴などで摂取し、糞尿は垂れ流しでだれか他の人に世話してもらうという完全介護状態で、風呂も全く入らずに本を読み続けたとしよう。さらに睡眠時も睡眠学習の要領で読むとする。つまりは、24時間すべてを完全に読書に充てたとしても、たかが知れてる。僕は人生全てを駆けても世界の本をすべてを読みつくすことはできないのだ。


これは僕の強迫神経症の表れだろうか。例えば、郊外によくある大型書店に立ち寄ったとき、僕は言いしれぬ不安や切迫感や焦燥感、強迫観念に襲われる。
「は、は、早く読まなきゃ・・・」

端から端まで、これでもかと言わんばかりに本の背表紙で敷き詰められた、2メートルを優に超える大きな本棚。そんな本棚がさらにドドドッと十数台も設置されているのである。立ち読みしている先客の風景は、さらに僕の焦りを募らせる。

僕の実家の隣に、「売り場面積中四国最大級」という謳い文句でフタバ図書という書店チェーン店ができたときなんか、初めて店の前に立ったとき「きえぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇっ!」と金切り声を上げて発狂しそうになった。実際はしなかったけど。


子供の頃から、RPGなどをプレイした際にこの症状は出ていたと思う。RPGでも、僕はダンジョン内にあるすべての部屋を点検しないと、次の場所には行けないのだ。もうすでに次への扉や出口のある場所はわかっている。それでも、たとえその出口と正反対の場所に、まだ入っていない部屋があると、僕は労を惜しまず向かってしまう。いや、むしろ逆だ。行った方が僕にとっては苦労ではないのだ。そこをやり過ごしたまま先に行った方が、気になって気になって仕方がなくなってくる。



もちろん、世界には「読むべき本」と「読まなくていい本」があるのだろう。それくらいわかっとる。
しかし「読むべき本」というその判断基準を示すやつは、いったい信じれるのかどうか(ここにも僕の症状が)。それに「読むべき本」に限定したとしても、それでも世界は本で埋め尽くされているのである。それは「太平洋の水を全て飲み干せ」という指令が、「日本海の水」へと規模がちょっとだけ縮小したくらいのもんであり、どっちみち無理難題であることに変わりはないのだ。


また、一度読んで「読んだ本」にそれを登録したとしても安心ならない。
たまに愕然とすることがある。そのように片っ端から本を読破していくことは、必ずしもその本の内容をすべて、あるいはその要点を自分のものにした、ということにはならないのである。人間の記憶力というものにも限界がある。人と話していて、ある本の話になったとして、その本のタイトルで「読んだことがある!」という記憶まではあったとしても、悲しいかなそこから先、そこに書かれていたはずの内容というものが、すっぽり頭から抜き落ちていることがあるのだ。それははたして、「読んだ」ことになるのか。


ああ、神はなぜ我に本を読むことを教えたもうた!?
ああ、神はなぜ我に本の読み方を、表裏の表紙を両手に持ちそれを両側に開いていくというその読み方を教えたもうた!?
ああ、神はなぜ我に文字を識別する脳みそを与えたたもうた!?
いくら読むまいとしても、すらりと下った後にまた右側にカーブしながら上がっていく線を「し」と読むことを識別し、その右上に点々が二つついたら「じ」と読むことを識別してしまう、その脳みその回路をなぜ与えたもうた!?


先に挙げた『華氏451度』に登場する焚書官の署長ビーティはこう言う。

現代社会はそんなものがなくたって、りっぱにやっていけるんだ。見ろ、本なんて、くだらぬものをかかえこんだばかりに、どんなおもいをしたか。
レイ・ブラッドベリ華氏451度』198p)

まったくですぜ、ビーティさま。
だが、それでも読んでしまうのである。なぜなら、読まないとどんどん増えてしまうから。全く読まないで「世界の全ての本」の量が増えてしまうよりかは、「世界の全ての本−1」にしたほうが、僕の心の安らぎは保たれる。


これは、僕が「人生の専門分野」を持たない/持てない、ということに起因するのだろう。
「人生の専門分野」、それは学問や職業にとどまらない、人生を通して読み続けようという分野のことだ。それは、一望俯瞰的にあらゆるものを見据えた上で、選ぶものではないと思う。それは、ある時から天啓を受けたかの如く、その分野にどっぷりとのめり込んでいく、それになぜ自分は引き込まれるのか、それにすら気がつかないくらい没入していく類のものなんだと思う。


専門分野をもつというのは、ある種の「恋」だ。
恋をするとき、僕らはその恋の成立条件を「髪が短くて、背が高くて、色が黒くて・・・」などと、並べ立てることはできない。たとえ、そのように成立条件を並べることができたとしても、その核心となる何かは、つねにそのリストからこぼれおちていく。そのことを大澤真幸は『恋愛の不可能性について』でクリプキの理論と絡めて解き明かした。
「人生の専門分野」だってそうだ。その分野を専攻したきっかけ、理由なんて本当は言えないはずだ。その当人の中では説明つかず、「いや、なんとなく」であっても、それでいい。
僕には未だそれがないのである。もちろん本を読んでいて「面白い」と思うことは多々ある。しかし、そんなときでも脳のどこか一部は冷え切っている。一望俯瞰的な僕が、そこでは未だ健在なのだ。この人生の専門分野というなの恋する対象があれば、きっと他の分野には気を配ってなんかいられないはず。なにせ夢中なのだから。


僕はその忘我や、没入を本当の意味ではまだ知らない。
その意味を探すために、今日も僕は書に向かうのである、強迫的に。


イマダ