さすがのサンタさんも美しさはくれなかった


2nd GIG


メリークリスマス。みなさんいかがお過ごしでしょうか。どうもイマダです。
一年のうちでもこの季節だけは、サンタサンタと北欧の見ず知らずの大男の話で巷が盛り上がるので、このmoso magazineでは女の話を少々。


おとといの深夜、何の気なしにテレビをつけると、画面では同年代の女の子が十数人くらいズラーっと並んで映っていた。なんだと思いテレビ雑誌を見ると「ミスキャンナイトフジ(仮)」とある。映っているのはみな、各大学の学祭などで選ばれたミスキャンパスだったのだ。
この番組は他にも、つい先日M-1決勝でしのぎを削っていたナイツが普通に若手芸人としてガヤを入れていたり、エイベックス現在ゴリゴリゴリ押し中の新人アーティスト、GIRL NEXT DOORが突然現れて、歌をしかも一番だけ歌って去るという摩訶不思議な場面があったりと、まあいろいろ興味深い要素が含まれていたのだが、それはさておきミスキャンである。


80年代の女子大生ブームを経て、今再び女子大生がブームになりつつある。しかし、今度のブームにおいてはそんじょそこらの女子大生では相手にされない。女子大生は女子大生でも、その大学の象徴、ミスキャンパスという数千人の在学生の中から選ばれた、ただひとりの女の子でなければならないのだ。
これには、いろいろな理由が考えられると思うが、ブームの火付け役はなんといっても八田亜矢子福田萌だろう。彼女ら元ミスキャンパスの、最近の活躍はめざましいものがある。なんたって二人とも、ラジカルで中山秀征にイジってもらえるのであるから。所詮は中山秀征じゃんとあなどるなかれ。有吉弘行に「バブルの生き残り」と罵られようが、中山秀征は中山秀征。腐っても秀ちゃんは秀ちゃんなのである、なんか文句あっか?
秀ちゃんにイジられる八田亜矢子福田萌を見て、女子大生の何割かは思っていたはずである。「ミスキャンパスも捨てたもんじゃない」と。


今までにも、ミスキャンパスに輝いた女子大生が女子アナになったという例は多々ある。しかし、女子アナという就職口の数なんてたかが知れている。いくらミスキャンという武器があろうと、圧倒的な数の論理の前では無力とかすことだってある。それに対して八田や福田は、大げさに言えばコペルニクス的転回をしたのだ。ミスキャンという武器を既存の就職先において発揮するのではなく、ミスキャンを通じて自分自身を職業にしてしまったのである。
今や八田亜矢子は「八田亜矢子」という、福田萌は「福田萌」という就職先を探り当てたのである。昔ながらの会社ならば滅私奉公、「私」の部分を捨てて盲目的にお上につかえることが求められるが、彼女らはその逆。むしろ、「私」を捨てず、「私」であること自体をビジネスにしているのだ。


それにしても、と思うのだ。画面上ではしゃぐミスキャンの女ども、すこし浮かれすぎとりゃあせんか?(菅原文太風に)。素人女のノリが軽いというのは常識かも知れないが、それでもかの「恋のから騒ぎ」(特に三列目)に出ている女性たちは、もうちっと気を引き締めて番組に臨んでいるはずだ。
思えば、彼女らミスキャンよりも同年代のアイドルの方がテレビに出ることに切実さがあるのかもしれない。彼女らは最初から退路を断って、アイドルとして売れることに賭けているのだから。それに比べて、所詮ミスキャンは棚からぼた餅(それはもう、棚がへし折れるぐらい巨大ぼた餅だ)。ミスキャンを「たまたま」獲れたおかげで、「たまたま」テレビに出られるというぐらいの、「めっけもん」という感覚のやつも中には混じっているのかもしれない。


女を生きるのは過酷である。なぜなら、見た目が全てだからだ(キッパリ!)。むしろ、その真実から顔を背ける方が、欺瞞でありゃあせんか?(再び文太さん登場)。先日『女女格差』という本を読んだ。女同士の間での経済、教育、労働格差を分析した本なのだが、どうも面白くない。結局、一番重要な格差が後回しにされていたからだ。その格差とは、「美醜」。一応、そのことについては申し訳程度に最終章でちょっとだけ述べられているが、あの薄い数ページに、あの本が論じていた他すべての格差の要素を覆すような重要なことが述べられているのである。「美しい人のほうが得する」と。


僕の気に入っている大塚美容形成外科のCMには、「私の胸がもう少し大きかったら・・・、私の目がもう 少し大きかったら・・・私の鼻がもう少し高かったら・・・世界が少し、変わるかもしれない。」という文句がある。整形すること自体は余り好きではないが、このセリフが言っていることにはある種の真理があると思ってしまうのは僕だけだろうか?そうでないと、説明がつかないではないか。なぜ愛校心のかけらもないような腐れ外道が、「大学の代表」ミスキャンとして、チヤホヤされなければならないのかを。そしてその反対に、なぜ身だしなみも整えず日夜勉学に励む地味目の子が「ミスキャンパス」、大学の象徴として選ばれないのかを。


ここで、ポジティブに発想の転換をしようではないか。
ビジュアルとはそもそも勝負の決まっていた出来レースなのである。そもそもは卵子が受精して胎児として顔が形づけられていくまでの過程の間の一種のクジみたいなもんで、そこにおいても僕ら自身にはどうしようもできない。胎児がその時点でまだプニュプニュした自分の顔をいじって美しく整えられるならいいものの、そのような超人的な技巧がない限り、自分の顔というのはもはや「終わった試合のスコアブック」のようなものとして立ち現れる。
そう考えたとき、あなたは「顔面敗者」でもこの年まで生きながらえたということに、ありがたみを感じられはしないだろうか。あなたは母胎から取り上げられた瞬間、そのあまりの不細工さ加減に医者に分娩室のタイルにたたきつけられ死滅しなかっただけ、ありがたいと思えないだろうか。

美醜によって損得がわかれるのは何が原因なのだろうか。それは資本主義のせいなのだろうか?いや、あまり関係ないと思う。社会がもし、共産主義になったとしよう。そうなったとき、たしかに「労働」は均一に人々に分け与えられるだろう。しかしだ、美しい女はどんな場面でもえこひいきされる可能性があるのである。社会が共産主義下にあっても、美しい女は「それ持ってあげるよ」とか「かわりにしておいてあげるね」とかなんとか言って、周囲の男に労働を手伝ってもらえるだろうから、なんだかんだいって得するのである。それを隅っこの方から苦々しく見つめるブスな子の姿が、僕の脳裏にはありありと浮かぶぞ。


ではどうすればいいのだろう。経済の共産主義があるなら、美の共産主義もあるはずだ。それは美の平等主義だ。それは具体的にどうすればいいのか。この場合、平等の基準を美しい方に合わせること、要するに下の方の人間の美を底上げするのはかなり大変なような気がする。いくら美容整形の技術が発達しても、世の中には「無理なものは無理」というのもある。しかも、日本では未だに整形することに対する偏見があり、僕のように「整形が嫌なのではなくて、整形までしてキレイになろうとするその性格がイヤ!」という、妙ちきりんな奴もいると考えると、結局整形して美を底上げしても、元々は美しくなかった人が損することになる。


では反対に、全体を下にそろえるのではどうだろうか。問題は男の性欲である。美しい女がチヤホヤされ、ブスな女が割を食うのは、突き詰めればそこに男の性欲の問題が介在する。美しい女に男が性的に興奮しなければ、否、美しい女がいなくなれば美醜によって格差は生まれない(その分、出生率がさらにガクッと下がってしまうことは了承願いたい)。


具体的にはどうするか。とりあえず、丸刈りだ。
「全女性瀬戸内寂聴計画」である。いやしかし、難しいのは丸刈りも男にセクシャルなものを感じさせる可能性があるのだ。ある映画の中で、ナタリー・ポートマン丸刈りにされるのを観て、「興奮した!」という友達がいたっけ。しかも、こないだテレビで観た寂聴、実は化粧をしているではないか!当然、美の共産主義においては化粧も御法度になるだろうから、寂聴を理論的モデルにするのは難しい。寂聴却下っ!


だから完全な丸刈りはやめだ。でも代替案はある。
スーパーなどでよく見る、女としてもはや終わった感のある中年の女性が、プロゴルファーのジャンボ尾崎を彷彿とさせる、頭頂部は角刈りで後ろ髪だけ伸ばすというあの通称「ジャンボカット」。あれなんかどうだろうか。僕はあの髪型が、女性として一銭も特になっていないと思うのである。男なら、もし自分の愛する人がある日突然あのジャンボカットにしていたという情景を想像してみて欲しい。近親相姦同様、想像もしたくない図かもしれないが、おそらく付き合いをあらためようと思うだろう。つまりそれは、相手に対する幻想をぶっ壊され、性欲が減退させられたということなのである。そう考えると、全女性がジャンボカットになるということは、美の共産主義者としては願ったり叶ったりの状況である。


当局はそう判断した!「全女性ジャンボカット計画」(別名「全女性神取忍計画」)である。しかしこの場合も、同じ短髪である民主党蓮舫議員のように、スタイリッシュな短髪も紛れ込んでいる可能性があるので、そこには注意が必要だ。


当局とか、いつの間にか中国共産党みたいになっていたが、これは単なる荒唐無稽な話ではないと思う。
たまに「美の革命」というフレーズを聞くが、あれは大きな間違いである。本来革命とは、その価値観が全く逆転することをいうのだから。たいてい「美の革命」と喧伝されるものは、既存の美的感覚や常識からちょっとばかしずれているだけで、既存の美の領域を侵犯しない。どっちにしろブスには関係のない「革命」なのである。


考えてみれば、なぜ醜い者は、美しい者と同じ土俵で戦ってきたのだろうか、という疑問も湧く。先にも書いたとおり、おそらくは生まれた時点で勝負は決まっているのである。そんな出来レースに、なぜノコノコと参戦するのか。もともと勝てない勝負なら挑まなければいいのである。醜いものが化粧をしている時点で、100メートル走をスタート地点後方100メートルから挑んでいるようなもんである。なぜそんなものに挑むのか。
「あたしダメだわ!」と悟った女の子はその時点で、美しくなることを拒否すればいいのだ。


そこのまつげを反り返らそうと苦心している君!そんなもの止めたまえ!
そこのアイプチしている君!図画工作は小学校で卒業しなさい!


とにかくだ、今すぐ化粧道具はみなダストシュートにたたき込め!そして来るべき美の革命に備えろ!
話はそれからだ!


イマダ