新年1発目


2nd GIG

みなさん、あけましておめでとうございます。
今年もmoso magazineをよろしくお願いします。

こんなに更新が遅れたのも、僕が実家に帰っていたからでありまして。Windows98でははてなにログインすらできませんからね、みなさん気をつけてください。
そんなこんなで、実家での親族の集まりでは、今年も懲りずにお年玉ももらいました。この年になってお年玉をもらえるとは思いませんでしたね。子供の頃ならお年玉を勘定しながら、何に使おう、何を買おうということに夢を膨らませていたのですが、今やそんな気は起こりません。懐具合が暖かいわけでは決してないので、ありがたいと言えばありがたいのですが。
そもそもこの年になっても、お年玉をもらっているだろうと誰が想像できたでしょう。「あと数年でお年玉がもらえなくなるぅぅ」と嘆いていた数年前が懐かしい。僕ぐらいの年になると、いとこや兄弟に子供が生まれたという人もいるでしょうから(さいわい僕にはまだいません、甥や姪)、むしろあげる側に回ってもおかしくないのですから。ここ数年はお年玉袋に札と一緒に「屈辱感」が同封されているような気がします。


そんなこんなで今年もよろしくお願いします。数え年で25歳、今年が厄年のイマダです。

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どちらかと言えば、流行に鈍感なこの連載であるからして、今さら『かんなぎ』の非処女騒動をとりあげるぐらいがちょうどいいだろう。人気マンガ「かんなぎ」の主人公ナギが処女でなかったということが発覚したことから、主にネット上で騒ぎになった。「集めていた単行本を全部捨てる!」という処女崇拝をする熱狂的なファンや、それに呆れる人をも巻き込み、結構大きな騒動になったそうである
このように処女かそうでないかは、未だに議論の的になる。しかし、処女についての「そもそも」を考えていくと、一筋縄ではいかないような気がする。
処女賛美とは、要するに女性の純潔さが求められているということなのだが、はたして処女膜の有無で純潔さが計れるのだろうか。
例えば、キスならどうなのか。処女膜と違い、キスによって女の体に確固たる刻印が刻まれることはないが、それでも場合によっては処女よりも精神的な純粋さが失われると考えることはできないだろうか。処女膜は、例えばレイプされたって破かれることはある。それに対して、無理矢理でない限りキスは本人の能動的な意志によってなされたことなのだから。

それに、男とイチャイチャしている写真を週刊誌に撮られたアイドルを、例え彼女がまだ「処女」だったとしても、あなたは愛せるだろうか?
アイドルやタレントに対するファンの夢破れるのは、例えば週刊誌でその子が男と手をつないでいる写真を掲載されていたりするときだ。アイドルのファン心理にも、対象の純粋さを求めるところはあるのだが、彼らの場合、決定的なHの状況を収めた画像でなくても凹んでしまうのは、そこに精神的な純潔を求めているからだろう。
誰の歌か忘れてしまったが、かつて聞いた曲に「案外キレイじゃないよね、恋にゆれる君の瞳は」という一節があった。まさにそうなのである。自分(ファン)に対してときめいているアイドルは可愛いのであるが、他の男に媚態を振りまくその子は醜いとしか言いようがない。男とはそういう現金な存在である。

はたまたフロイト精神分析においては、突き詰めていけばすべての彼氏、夫はその女性の「二号さん」にしかなり得ない。では一号が誰かといえば、それはもちろん父親である。女性は常に父親という強大な存在に――意識的に無意識的にか――庇護されながら、他の男と結ばれる。そのような状況をはたして「純粋」と呼べるのかどうか。このことについては、かな〜り前にここで書いた。


僕としては、そんなことより自分たち(男たち)についてもっと語ろうぜ、という思いがあるのである(長い前ふりだ)。はたして、ドラゴンボールの悟空に御飯という息子が生まれたとき、それほど巷で話題になっただろうか。はたして、のび太君が童貞でなかったとしたら、ネットで祭りになるのだろうか。というのも、童貞/非童貞、非モテ/モテなど、いろいろ男の内部には対立軸があるのだが、最近僕はそれらが本質的なものではなかった、いや、なくなってきているのではないかという気がしてきているのだ。


年末に実家に帰っていたときだ。以前通っていた塾の忘年会に参加させられたとき、その場にいない元塾生の話になった。その時、ある元塾生が自分へのクリスマスプレゼントにデリヘル嬢を呼んだという話が出たのだ。その場は笑いに包まれたが、僕だけは衝撃を受けて笑えなかった。もちろん風俗というものに行ったことがない(自己申告)ということからくる衝撃なのだろうが、それよりも何よりも、自分と同年代(僕よりも下)の、知っているようなやつが実際に女を買っているという事実に驚愕するとともに、自分もそれをしている(して当然)と思われてもいい人間だったということに気がつかされたからだ。

童貞かそうでないかが男の問題の本質ではない。そうではなく、もしかすると風俗に行ける男/行けない男が真の境界線なのではないだろうか。
考えてみれば、そもそも童貞/非童貞問題なんて、これ一発で片がつくという言葉を、水滸伝で有名なかの北方謙三先生がおっしゃっている。「ソープへ行け」と。ああ、なんという性のコペルニクス的転回。所詮童貞など、金で解決できる問題だったのである。今の時代、「素人童貞」という言葉ができてしまったから、それでも解決できないと言えばできないが、それでも「何はともあれとりあえず」という言葉もある。童貞童貞となじられ、それでも行かないのであるから、この風俗に行く/行かないという男の断絶は相当なものではないだろうか。
僕自身はどうか?僕ははたして風俗に行けるのかどうか。おそらく無理である。なんだか怖いのである。それは風俗店が、暴力団とかとつながりがあるじゃないかとか、そういう背景からくる怖さではなく、知らない人と肌を合わせることの怖さだ。


では、風俗に行かない男はどうやって性欲を発散しているのかというと、それはもちろんスポーツや芸術といった高尚なものに打ち込むことで昇華して・・・というわけでは全然なく、「自主トレ」だ。ここにも対立軸があり、アニメでヌクオタクがよく、現実の女に興味がないからといって批判されるが、そもそもAVだって「二次元」である。そういう意味で、対象がアニメ/現実の女性という違いも、風俗に行く/行かないほどの対立ではないような気もする。どちらもモニター上の光に興奮しているのだから。近頃は、ネット上で無料で「女性のすばらしさ」が拝めるサイトもあるため、さらにこの風俗に行ける/行けないという差異が鮮明になってきているのではないだろうか。



これも、実家に帰ったときの話である。広島にはフタバ図書という大型書店があるのだが、それの駅前店が、僕の知らぬ間にエラいことになっていた。PTAやなにやらが、子供にとって有害なものはできるだけ排除していこうとしているのが時代の流れであるが、そういった社会の動向に影響されてか、AVの商品陳列棚が巨大要塞の如く隔離されていたのだ。面白いので僕もいちおうそこに潜入してみた(言っておくが、買ってはいないぞ)。外から見えないようにするためか、入り口には暖簾が垂れていて、それをくぐればそこにはエロDVDが所狭しと陳列されていた。客も結構いたが、みなどこか後ろめたそうな顔で商品を物色している。レジもその要塞の中に特設されていた。それも買う人が顔を見られないように工夫がされていた。教会で牧師に罪を告白するのでもあるまいし。

それは歴とした「消費活動」なのに、まるでそこは禁酒法時代のアメリカのように、違法なものが売買される闇市のような雰囲気だった。なぜにここまで社会は「有害」なものを排除しようとするのか理解に苦しむが、裏を返せば、そこまでして男たちが守りたかったものがそこにあると言える。思えば風俗に行かない(行けない)男たちにとっては、そこが文字通り最後の砦なのだ。風俗という選択肢もなく、彼女もいないとすれば、エロDVDしかないのだから。


女性にも、性欲はあるのだろう。それは認める。しかしそれは、おそらく男のそれほど強く、悲惨で、悲痛なるものではないのだろう。でないとあのエロDVDの要塞の存在が説明できないではないか。あの隔離された要塞が表現するのは、男と女の違いである。女性のみなさん、こうまでして発散したい性欲がありますか?


暖簾を出たとき思った。童貞も非童貞も、風俗に行く男も行かない男も、AVでオナニーする男もアニメでヌク男も2009年、みんなに幸あれ♪
なんのこっちゃ。


イマダ