海老蔵だって言っている、ルールに縛られない男がいるって


2nd GIG


どうも、イマダです。
最近、といってももう数週間前になるが、ふとテレビをつけたところ、ものすごい大歓声の占めるアリーナが僕に目に迫ってきた。画面が変わると、今度はごっついプロテクターをはめた黒人白人を問わない屈強な男たちがものすごい勢いで歓喜している映像。それはそれはものすごい騒ぎだったのだ。
いったい何の騒ぎだ?とテレビ欄に目を移すと、スーパーボールという文字が。その画面に映すのは、アメリカンフットボールの、NFLの年間王者を決めるプレーオフの決勝戦スーパーボールにおいて、今シーズンの王者がピッツバーグスティーラーズに決まった瞬間だったのだ。「ああ、そんな季節か」と思っていたが、どうも、自分が場違いであるかのような、疎外感のようなものを覚えて、結局試合のハイライトもなにも視ないままチャンネルをかえてしまった。


というのも僕、アメリカンフットボールを全然知らないのである。ラグビーは後ろにしかパスできない、アメフトは前にもパスできるということぐらいは知っているが、その他ほとんどルールを知らない。何がすごいのか、どんなプレーをおもしろがればいいのかすら、わからない。だから、場面全体で「これはすごいことだ!」感を押し出されても、ピンと来ない。
僕は画面の中で起こった出来事の「すごさ」を分かち合っている選手や監督および大観衆、そして実況アナと解説者の興奮気味の音声についていけなかったのだ。そのとき、僕のうちの中では、テレビ画面の内と外で、それはそれは埋めがたい断絶があったといえる。その興奮の温度差のようなものに僕は耐えられなくなり、チャンネルを手に取ったのだ(ちなみにその後は教育テレビで落語をしていたので、そっちを視ることにした)。


ここで僕が気づいたのは、あらゆるスポーツ(観戦)には、それのすごさをすごいと思える共同体への参与が不可欠ということだ。ここでいう共同体とは、別に国家を指しているわけではない。たしかにアメリカンフットボールはその名の通り、アメリカを母国としていて、さらにアメリカ国内と国外においての盛り上がりに差があるが、そういうことを言っているのではない。日本人にだって熱狂している人がいることは、あの中継で興奮気味だった実況と解説の日本人の声を聞けばわかる。アメフトには、アメフト固有の、時と空間に束縛されない「想像の共同体」(Byベネディクト・アンダーソン)が存在するのである。もちろん、サッカーにはサッカーの共同体がある。野球にもまたしかり。スポーツは、それらの共同体に参与しなければ、それを真の意味では楽しめないし、それを真の意味では驚けないのだ。


一時期、「<アメフトも語れる俺>って、いいかも」という下心から、チームやら著名な選手の名前やらいろいろ頑張って覚えたりしていたのだが、ダメだった。まわりに誰もいないのだ、アメフトを語れるやつ。こういうのはやはり、自分一人で覚え始めるよりも、知人友人の薦めで見始める者なのだから、自発的に始めても好奇心のスタミナが持たない。端的にいって、僕の周りにはアメフトをすごいと思うことのできる共同体がなかったのだ。その点、野球やサッカーの共同体は、そこいら中にあふれている。


なぜ、スポーツを楽しむために共同体への参与が必要なのかというと、何を隠そうそれらスポーツがもともとは恣意的な虚構だからである。したがって、それら虚構の遊技を、虚構と思えないほどに信憑性を付与するために共同体が必要なのだ。


よく考えてみてほしい。例えば、プロ野球選手が何をしているかというと、所詮は固い球を投げたり、木の棒でそれを打ち返したりしているだけである。
真面目に考えてみてほしい。あんな動き、日常生活のどこで活かせるだろう。ためしに原始時代に立ち返ってみよう。野球選手でもボールを投げる能力は、例えばマンモスを打ち倒すための投石の能力として使えるかも知れないが、それにしてもあんな妙ちきりんなフォームのままでは使えないだろう。早急に改善すべきだ。もしマンモスがこっちに向かってきている場合、あんなに時間をかけていたら、投げる前に体当たりを食らってしまう。バッティングのあのスイングのフォームもいただけない。あんなへんてこな構えから棒を振り下ろしても、マンモスは倒れてくれないだろう。
それだけでない。ピッチャーのマウンドからキャッチャーまでは、おそよ18メートルあるが、なんで18メートルと決まっているのだろうか。スリーストライクを獲られたら、なんでバッターはアウトにならなければならないのか。挙げだしたらきりがない。あらゆるルールが恣意的なのである。以前にワールドベースボールクラシックという世界大会が開かれた際に、ストライクゾーンが日本プロ野球のそれと違う、というのが問題として盛んに取り上げられていたが、もともと「日本プロ野球のストライクゾーン」だって、何かの根拠に基づいて決められたわけではないのに、と僕なんて思ってしまったわけだ。


こんなことを書き連ねていても、僕自身プロ野球ファンだし、欧州サッカーは、ビッグゲームであれば欠かさず視てしまう人種だ。言っていることとやっていることが違うではないか、といわれるかもしれないが、それは僕がそれらスポーツの共同体の成員であるから仕方のないことなのだ。メタレベルにおいては、この文章ではスポーツなんて虚構だといっている僕も、オブジェクトレベルでは、「イチローすげぇ!」とか「メッシ速ぇ!」と歓喜する、一ファンなのである。そのへんの分裂は許してくれ。
スポーツは虚構だが、「想像の共同体」の中にいるからこそ、人はそれら虚構の信憑性を疑うことなく没入することができる。それは、かのヘーゲルのいうところの主人と奴隷の弁証法そのものだ。スポーツという虚構を現実たらしめているのは、選手ではなくファンなのである。ここまではいいだろうか。
しかし、それが「年収」という数値の形で、社会的な名声の形で、歴然とした差となって顕在化するのは、どこか不公平感が残るのではないだろうか。スポーツという虚構を現実たらしめているファンがいるからこそ、その中で活躍できる人間たちが、その虚構を現実たらしめているファンたちの数十倍、いや下手すれば数百倍の年収を稼ぎ出すのは、どう考えても理不尽ではないだろうか。
彼らは野球という、サッカーという虚構を現実たらしめている共同体の中でこそ、優れているのである。では、そんな彼らに対抗する術はあるのだろうか。


ここで僕が取り上げたいのは、近年よく取り上げられる、ギネスブックの中でも珍記録系に参加する人々だ。
「最も多い人数が参加したヌード写真」(7000人)や「最もたくさんのギタリストでボブ・ディランの名曲に挑戦」(1700人超)など、そのほとんどが質ではなく数にものをいわせて打ち立てられた記録ばかり。こういう記録に対して、お昼のニュースのキャスターなどは「(にこやかに)すごいですぇ」と、半ばバカにしたかのような冷ややかな反応をするが、果たして海外サッカー情報で日本人選手が得点したことに興奮している彼らに、それらギネスの珍記録保持者たちを嗤うことができるだろうか。


彼らがそれら珍記録をおかしいと思えるのは、それらギネスの珍記録が「だれにでもできることだから」というだけではないだろう。それだけではなくて、おそらくそのおかしさの源泉は、それら珍記録の恣意性にある。「そんな恣意的な基準で世界記録を打ち立てても全然すごいと思えないよ」、と思われてしまうわけだ。しかし、ここまで考えてきたとおり、スポーツのルールだって恣意的な虚構であって、それら恣意的なルール上でおこるプレイにすごさもまた、虚構なのである。
確かに、ギネス珍記録をすごいと思える共同体は、それはそれは小さい規模かも知れない。もしかして当のギネス記録に参加している人の中にも、「あー、アホらし」と感じていて、その共同体に厳密には入っていない人もいるかもしれない。しかしそれは、所詮共同体の大小の問題で、野球の共同体が、サッカーの共同体が日本全域を覆っているため、それを色眼鏡なく視るための「外部」が存在しないというだけなのだ。ギネスで珍記録を打ち立てようとしている人たちは、計らずともそういったメジャースポーツの価値を相対化している。スポーツ選手たちが恣意性に彩られた、想像上の共同体において人気者になったのなら、自分たちだってまた別の恣意的な共同体によって、人気者になろうと。


数年前に、槇原敬之の「世界に一つだけの花」という曲が流行った。
ナンバーワンにならなくても、君はオンリーワンなんだよ・・・
そういった背中がかゆくなってきそうなメッセージを載せたナンバーが流行るほど、世は被承認欲求に満ちている。しかし、ナンバーワンはもちろんのこと、すべての人はオンリーワンにすらなれないのが、現状だ。そんな中、ギネスの珍記録というのは、そういった飢えた被承認欲求に対する、すばらしい処方箋ではないだろうか。今や、one of themであっても、オンリーワンであり、ナンバーワンにもなれるのだから。


イマダ