エヴァとは健康ランドのことである


2nd GIG


みなさんご無沙汰しておりました。イマダです。
ああ 明日の今ごろは〜♪・・・ならぬ先週の今頃は僕、旅に出ていました。そのことについて書きたいのですが、なにぶんこの連載を読む人の中には僕と一緒にいた人も多分にいるために書きづらいのであります。でも書くけどね。


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塩尻インターチェンジを降りた我々一向が目にしたのは、荒涼とした信州の大地にたった一つ、仁王立ちのようにそびえ立つ健康ランドという名の城。人類を苦しめるすべての疲労終身刑務所。前に名古屋の健康ランドに行ったときの、その凄まじい土日の内情については、にしたことがある。今度は二度目である。

冬の長野の、肌を突き刺すような寒さに追い立てられるようにして自動ドアの中に入ると、すでにそこは別世界。なんなんでしょう、あのどぎつい柄の着物、とは言い難い、アロハ、とも言い難い、どうにも形容しがたい変な服を身にまとったおじさんやおばさんたまに若い人、といった割合の人々。まだ午後5時すぎだというのに、もうすでにひとっ風呂浴びてきましたよと言わんばかりに、体から湯気を立てて、彼らはそこら辺をさまよっている。そこは、外から来た客を向かい入れるロビーのはずなのだが、そのようにもうすでに癒しの洗礼を浴びた人たちが、所狭しとたむろしているため、そこはかろうじて「ロビー?」といえる場所と化している。あそこで感じた威圧感は何だろうか?目の据わったおじさんおばさんから、新参者である我々に向けられる、じとっとした視線。えっ?これ縄張り争いかなんかでしたか?


以前から、僕の脳内で猛烈な葛藤として顕在化していたのは、スーパー銭湯というものが真の意味で癒しとなるのか、ということ。銭湯を超える銭湯が、果たして癒しになるのか。健康の国(ランド)は、はたして来客者の快眠の領土を侵犯していないと言えるだろうか。いやいや、もっとわかりやすく言おう。過剰なる癒し、大量に施される癒しというものが、はたして真の意味で人を癒すことができるのか。それは健康ランドのその存在自体が、語義矛盾を犯しているのではないか、健康ランドの本気度の高さが、むしろ僕らの癒しを疎外するのではないか、という疑問だ。
健康ランド初心者があそこに訪れてまず覚えるのは、安堵感というよりも不安感のほうが多いのではないだろうか。自分はこんなとこにいて本当にいいのか、ここはどこか別世界の生物の住処であり、自分はそこに迷い込んだだけなのではないか?そのような「場違い」という意識が脳裏をよぎる。自分あらざる者と遭遇することほど、ストレスフルな経験はない。他者だらけの中に投げ込まれたところで、はたして僕にとって、そこに癒しはあるのかい?(「ひとつ屋根の下」の江口洋介っぽく)
それに、僕のような「アンチ裸の付き合い」的な生き方を辛抱する人間としては、当然のことながら健康ランドとも無縁の人生を歩んできた。さらに、人様に裸を見せたことがない、人様に見せられるような裸体をもっていない。ただでさえそんな人間が、はたして健康ランドという名の大量疲労破壊兵器の恩恵に預かることができるのだろうか。


しかし僕はその後、このような考えがすべて間違えであったことを思いしらされたのだ。それは宴会ホールにおいてである。
どうだろう、宴会ホール全体をがっぽりと包む、あの「ぐだ〜」っとした雰囲気、世界観。オスが黄緑色の、メスがオレンジ色の、みなが同じような服を着て、畳の上でぐだ〜っとなっていた。この「ぐだ〜」が日常においては行えない怠惰であるから格別である、というような話ではない。その「怠惰」というような価値判断を下すやいなや、さらにそれさえも根本から「ぐだ〜」によって溶解させられるほどの、ただひたすらに「ぐだ〜」なのである、そこにただようものは。
そしてその「ぐだ〜」によって、空間も時間も均質になっていく。周りにいる人は、別に知り合いではないし、しゃべりかけるわけではない。しかし、ぐだ〜となっているという点で、皆共通に、均質になっていくのだ。
前ではおっさんがカラオケを歌っている。何歳ぐらいだろう?誰と来てるんだろう?普段は何をしてる人なんだろう?ってか、なにげに歌うまいしっ!というような疑問や感想も、意識の水面に浮かんでくることはくるがそれ以上に広がることはない。それらすべてが、また「ぐだ〜」の均質空間の中に回収されていくのだから。


僕は根本から考えをあらためなければならなかった。健康ランドへやってきて個性を、個別のアイデンティティを抱え込んだまま、癒しに預かろうとしていた僕の考え方が甘かった。世間知らずだった。それは健康ランドという国家への冒涜だ。
健康ランドにおいては、マスであることによって癒しが癒しでなくなるのではない。そうではなくむしろ、膨大なる癒しの前に、僕らの自我やら個性やら社会的地位やら見栄やら自尊心といった、凝り固まった外皮たちから解かれ、マスの中へ投げ出されることで我々が健康ランドのOne of Themになりえる。その無名の一人であることの快楽。そう、いわば健康ランドが僕たちに提供しているのは「忘我」、という名の癒しなのだ。そう考えれば、温泉における赤の他人との裸の付き合いというのは、その「ぐだ〜」の均質空間への一種の通過儀礼だったというのがわかる。別に自分の一物が、自分の乳房が、他人と違うところについているわけではない。多少はその「フォルム」に自信がないかもしれないが、よく考えてみよう。そんな悩み、誰もが持っているものであって、誰もが持っているからこそ、それは悩みではなくなりむしろ、我々を癒しの集合体へといざなうものとなる。


僕たちは日常において、「自我」や「個性」という名の「モビルスーツ」によって互いが互いを分断し分断されている。「自己はこうであらねばならない」「他者はこうであらねばならない」という命令を相互交信することで、互いが互いを雁字搦めにしてきたのだ。だからこそ、相手を憎みそして愛し、しかし愛されなかったからこそ再びまた憎む。そんな馬鹿馬鹿しいことの繰り返しで人生をすり減らしていく・・・。


シンジ君が逃げたかったのは、そんな世界からだったね。


僕にとっては難解で、宙づりのままにしていた新世紀エヴァンゲリオンの最終回の解釈が、期せずしてこの信州は塩尻健康ランドにおいて、ついに結実した。人類補完計画の現実的形態とは、ずばり健康ランドのことだったのだ。


イマダ