キャッチボールは相手の胸元に


2nd GIG


どうもイマダです。
研究会や読書会と銘打たれた会合で、前々から「あ、こういうのって、あるな」と思っていたものがあったのだが、最近までそれについて何も書かないままほっといて忘れていた。しかし、つい先日またその「こういうの」を思い出す出来事があったので、それについて書いておく。


研究会や読書会といったものが、授業やゼミなどと根本的な部分において袂を分かつ、その違いとは何だろうか。おそらく誰もが思うそれは、上下関係の無さ。これにつきるだろう。研究会にも発表者がいて、司会者がいることもあるだろうが、その場において一般的には発話者と聴き手が同一平面上にいる。そしてもちろん、両者の立場は交代可能なものである。それはいわば知の「交換場」なのだ。
授業やゼミというものにおいては、それは一方的に上から下へと下るものであり、教師―生徒という固定した関係性で繰り広げられる、知の供給だ。


研究会や読書会は勝ち負けではない。勝ち負けではなくて、大切なのは議論なのだけれどしかし、目には見えないパワーゲームが存在するのも確かだ。そのパワーゲームが、議論の本筋とはいささかも関係のない、ということは多々ある。がしかし、そのパワーゲームに支配されれば、言おうとしていることの正当性、その論題に対する適切性に関わらず、その人は閉口せざるを得なくなる。この見えないパワーゲームは、中にはそれ自体を自己目的化している参加者もいることもあるだろうが、そのほとんどはそのパワーゲームの存在すらしならないまま、議論に参加している。
しかし、それでも見える人には見える。厳然と存在するのである、パワーゲームってやつは。


僕が感じた「こういうの」とは、そんなパワーゲームを、無意識に制する方法である。僕が先日参加させてもらった研究会があった。そこは先にいった通り研究会であって、授業やゼミといった上下の権力関係が働く場ではなかった。もっとも、授業を受け持っている教授陣であったり、見た目の若さからして、「どう考えても生徒だろ、教師だろ」という区別はつく面々だが、建前上そこは平等に発言権のある場所だったのだ。


そこでだ。ある理論、というか知識について、その会合の全体での了解が取れていないと察したある発言者が、突如として授業でもするかのような語り口で、それについての説明を始めたのだ。そのときに僕は思ったのだ、「あ、こういうのって、あるな」と。
この「教師の話法」というのは、パワーゲームを制するという意図の有無に関わらず、「やんわりと」パワーゲームを制するためには、格好の手段のように思える。この「教師の話法」によって話しかけられると、少なくとも僕という聴衆は「萎える」のである。それは僕が、その知識について知らなかったから「萎縮する」ということではない。むしろそのときの話は、当たり前のごとく知っていたことだった。いや、知っていたからこそ、萎えてしまったのだ。
どういうことかというと、そういうことをされると「『こんなことも知らない』と思われているのか」と、僕なんかは思ってしまうのだ。これはいわば、僕自身が理解する能力と、話者がそれよりも低く見積もった僕の能力の「差額」に、萎えさせられたといえる。


発話者が「教師の話法」で話せば、必然的にそれを聴き手には「生徒」であることが要求される。そのことによって、話者は議論の同一平面上から、一つ頭の抜けた存在へと格上げされるのだ。


ちなみにその研究会のテーマは家族であり、そのときは「親と子」や「教師と生徒」の間にある抜きがたい権力はあるという話題で、その論者が説明しようとしていたのが、あろうことかヘーゲルの「主人と奴隷の弁証法」であったというのは、これに優るアイロニーがあるのか、というほどにアイロニカルなのだけれど。


繰り返すが、この「教師の話法」のミソは、そのほとんどが意図されたことではないということにつきる。むしろそれは、親切心から来ている場合が多いのだ。しかしそれでも、無意識のうちに発話者と聴き手の間に権力関係を差し込むのだ。だからといって、「教師の話法」を二度と研究会などでするな、と言えないのもまた事実だ。そこには、知識のコンセンサスがないことによる不都合が生まれているという厳然たる事実があるのだから。


こういうことがあってから、僕が最近考えるのは、議論においての知識というものとどう向き合っていくか、ということだ。
それは例えるなら、キャッチボールにおける「グローブ」のようなものだと思う。あるのはまず「硬球」としての論題。そしてそこにいるのは、それを投げたり受けたりする参加者たち。そこで、議論について知識が不足しているというのは、もしかするとグローブがないのと同じなのではないだろうか。


グローブが人数分ない。子供のころにこういうシチュエーションに出くわしたことが、特に男の場合はあるのではないだろうか。このとき、最悪なのはグローブのある人だけキャッチボールに参加するということだ。要するに知識のないものを閉め出すということ。これはではあまりにも忍びないし、可哀想だ。しかし、だからといって硬球の球を素手でキャッチすること、知識を持たずに高尚な議論に参加することは、あまりに危険すぎる。それは「怪我」のもとだ。
ということで当時の僕たちがやっていたのは、受け手へダイレクトで届くボールではなく、ワンバンかツーバンするボールを投げるということだった。もしくは、ボール自体を硬球から軟球、もしくは駄菓子屋で売っていたあのカラーボールに代えるということだ。それはいわば、議論自体を低い次元に押さえる、ということになるだろう。
これによって、晴れてそこにいる全員がキャッチボールに参加できることになれるのだが、どうも面白くない。ワンバンのボールは、言ってしまえば「捕れてあたりまえ」だし、カラーボールは風によって、あらぬところに言ってしまうことがある。やはり一番いいのは、硬球は硬球のまま、捕球を間違えると怪我をする可能性があるという緊張感の中、のスピードボールの投げ合うことなのだ。


ということで結局は、僕も含めて「みなさん、最低限の『グローブ』は勝っておきましょう。でも『いいグローブ』持って喜んでるだけじゃダメだよ。グローブは最低限捕球できれば、最悪ボロボロだっていい。大切なのはキャッチとスローイングの練習だよ」としか言えないのである。


イマダ