置きにいく言葉


2nd GIG


どうもイマダです。
みなさんは「置きにいく言葉」というのをご存じだろうか。
例えば、以前にこんなことがあった。僕がブックオフに買い物に行ったときである。本を選んでレジに向かう。ところが、僕がレジに行き店員さんが会計を始めてから数人が後ろに並びだしたのだ。小心者の僕はここで妙な焦りを覚える。そして、当時まだ存在したブックオフのポイントカードを財布から探す手も、俄然早くなる。やっと見つけたという安堵の気分とともにそれを店員に渡すと、しばし怪訝そうな表情をした後、その彼はおもむろにつぶやいてカードを突き返してきたのだ。


「あのぉ、これTSUTAYAのですけど。。。」


焦っていたのが災いしたのだろうか、ブックオフのカードの代わりに、その時はまだ提携も何もしていなかった、つまり全然何の関係もなかったTSUTAYAカードを店員に差し出してしまったのだ。
彼のそれは、至極当然の冷静すぎる指摘であった。TSUTAYAのカードをリーダーに通しても、おそらく機械はウンともスンとも言わなかっただろう。この時点で少なからぬ辱めを受け、心の傷を負うこととなる僕からすれば、もう少し愛のあるツッコミをいただきたいところだったが、時給1000円ほどで働くその彼にそんな管轄外の労働を要求するのは酷な話だろう。
そしてここである、例の“ヤツら”がやって来るのは。僕はまず「あれぇぇ!?」と、もはやすでに芝居がかっている声を上げながら、カードを受け取り財布にしまい込み、もう一度財布の中を探るのである。何が「あれ」だ、という話だが、そんな時にもどうしても漏れてしまう。「あれぇぇ?」にはさらに、「おかしいなぁ」とか、「どこかなぁ」や「間違えたっ!」などが続く。なーにが間違えただよタコ!という話だが、しかもそれらすべてが聞いている人にはそれこそマンガではよくある「聞こえねぇよ!」と突っ込まれがちなあの「もごもごもごもご」というあの小声となって、この口から発せられるのだ。これが僕の言う「置きにいく言葉」の使用例である。それ自体に言語のそもそもの目的、相手とのコミュニケーションは含意されていない独り言である、という装いを呈しながらも、実はその場の気まずい空気を空白にしておけないがために、その場の人に聞いてもらいたいがために発せられた言葉。まさに苦肉の策、それが「置きにいく言葉」なのだ。


他にもこんなことがあった。大学の図書館に入るときに学生証をバーコードに通すのだが、慣れというものは怖いもので、手元をよく見ないでやってしまい、TSUTAYAのカードを思いっきりバーコードリーダーにかざしてしまった。当然ゲートは開かれない。なぜこういつもTSUTAYAなんだ、という僕のTSUTAYAカードへの固着の根源を探るのも興味深いことだが、ここではそれよりもまず、後ろで僕の後に通ろうとして待っていた人間に思いっきりその失態を見られていた、という非常事態について書いておかなければなるまい。しかも複数人、ちゃらちゃらした経済学部系のやつらの連んだ集団に見られてしまったのだ。


Oh MY Godness!


タダでさえ普段は小馬鹿にしているような種族のやつらなのに、こんな失態をもろ拝まれてしまったぜ。しかもやつらは、多勢に無勢。相手側も一人なら、こういうときは話す相手がいないから、傍観者となり無害になる。どうせ後で友達との笑いのネタにするだろうが、僕自身がその場にいて嗤われるという心配はない。しかしあいつら連んでやがる。仲間と連んでいると、大概人は気持ちがでかくなる。やつら、くすくす嗤ってやがる!
そこでである。またしても、僕の弱さが「置きにいく言葉」を置きにいかない、ということを許さなかった。


「あっ、間違えた!」


いや、そんなデカい声出さんでも、というぐらいの声のデカイ「独り言」だったのだが、それを置きに行かずには、その場をやり過ごす勇気が僕にはなかったのだ。


この「置きにいく言葉」は、いったいどのような力学で発せられるのだろうか。いや、もっと簡単に言えば、なんで僕らは「置きにいく言葉」を置いてしまうのだろうか。それは、端的に言って間違いをしでかしたときに、眼前の自分の招いた事態と、それを見る人々の存在に耐えられなくなるから、ではないだろうか。
まず僕が失敗を犯す。その瞬間に、僕は「まずいっ!」と思うのだが、「まずいっ!」と思うだけではダメなのだ。それではその場とその恥ずかしさに耐えられない。したがって、そこで分裂が起こる。「置きにいく言葉」を発するのは、この「やらかしちゃったイマダ」ではなくて、「ツッコミのイマダ」の方なのである。ツッコミのイマダは、自分がもう「やらかしちゃったイマダ」ではないことを周囲の人間に向かってアピールする。ええ、僕は間違えましたよ、でもそのこと知ってますよ、ということを明示的に現表することによって。これは「まずいっ!」ときょどった「やらかしちゃったイマダ」のその存在自体の否定だ。いわば「やらかしちゃったイマダ」は、トカゲの尻尾きりよろしく、「ツッコミのイマダ」に切り捨てられるのだ。


しかしである。この「置きにいく言葉」を置きにいったとしても、十二分にはっずかしいのである。なんせ失敗したのだから。やらかす方も、ツッコム方も、どう足掻こうがやっぱりイマダなのだ。しかも、「置きにいく言葉」を使うことによって、その場を取り繕うどころか、傷口に塩を塗るような逆効果の場合も多々ある。みな胸に手を当てて思い返してみれば、人生のどこかで「置きにいっている」はずなのだ。よく考えてみれば、みな同じような経験をしているのだ。僕がもし、図書館でTSUTAYAのカードを間違えてさらにその後、「置きにいく言葉」をお約束通り置きにいった人を目撃したとすれば、十中八九、まず間違いなく「うわっ!こいつ今『置きにいく言葉』を置きやがったよ〜〜!」と意地悪く思うはず。そう思われることって、ある意味「置きにいく言葉」を置かないより恥ずかしくないだろうか。野球でも、カウントを取るために置きにいった球を打たれてホームランにされた、ということが何度繰り返されてきただろうか。置きにいく言葉にも、置きにいくだけリスクをともなうのだ。


だからこそ僕は、この置きにいく言葉からの卒業をそろそろしたいのだ。そしてなりたいのだ、必要な時に必要な言葉を単刀直入にしか述べない男に。侍ジャパンの原監督ものどから手が出るほど欲しがるだろう、「ど真ん中のストレート」しか投げない男に。そもそもは、そのままでは恥ずかしいから、というのが「置きにいく言葉」の起源だったはずだ。ならばこうも考えれる、恥ずかしさがなんぼのもんじゃい!、と。「置きにいく言葉」は、所詮は恥の上塗りなのである。ならば、むすっと黙ってさえいれば、恥も外聞も関係ない。


「あのぉ、これTSUTAYAのですけど。。。」に戻ろう。「置きにいかない男」はそんなことでは動じない。はっきりとした声で「失敬」と言うと、その男は店員の手にあるカードをむんずとつかむやいなや、すっと財布に戻し、何食わぬ顔でじっくりと本当のカードを探す。「何も恥ずかしいことはしてませんよ?私は至極立派に生きてます」という気概である。
しかし、置きにいかない男になれたと思い、意気揚々として店を出ようとした僕は油断して、店の入り口付近で突っ伏すだろう。そこは最近多い、押しボタン式の半自動ドアだったのだ。それに気づかず立ちつくしていたことに、恥ずかしくなった僕は、再び


間違えたっ!もごもごもごもご」・・・。


イマダ