うすっぺらな男(だからこそ)の美学


2nd GIG


みなさんこんばんは。
エレベーターを降りる際に、二人ないし三人くらいしか乗ってないのにバカ丁寧にも「開」を押してこちらが降りるのを待ってくれている人に、「さっさと降りろよ」と戸惑いながらも、やっぱり軽いお辞儀をして先に降りて行ってしまうイマダです。



みなさんは内田春菊という漫画家を、そしてそのマンガ『こんな女じゃ勃たねえよ』をごぞんじだろうか。

主人公の日出夫(ヒデオ、通称デビィ)は色男、今で言うところのイケメンなのだが、無職でまともに働く気のないぷー太郎。いろいろな女の子の家を点々としながら、その子に貢いでもらった金でバクチをしてはすってしまい、また金を催促しに行く。なぜ彼に女の子たちが貢ぐのかというと、彼が色男であり、それと同時にセックスが上手いからだ。彼はいわゆるヒモ、というやつだ。女から女へと渡り歩く。


こんなやつPART1


そんな日出夫の恋愛観、というか女性の扱い方は、おそらく彼の叫びであろうこのマンガのタイトル「こんな女じゃ勃たねえよ」に凝縮されている。彼に言わせれば、「女は射精の道具」であり、金づるだ。そんな「自己中男」のイデアをこの世に具現化させたような彼は、単刀直入に言えば「女の敵」というやつなのである。文化人類学の知見によれば、女性は家と家が交換する財であるらしいが、日出夫は女と女が交換する「負債」のようなものだ。持っているだけで、騙され傷つけられる。そして、一緒に居ればいるほど、お金を吸い取られていく。マンガの冒頭で、日出夫は同棲している女性とのセックスの真っ最中なのだが、ふいにそれを中断してしまう。「何なのよ それ〜〜〜〜」と不満を漏らす女の子に対して、背を向けた日出夫はすかさず「うるせい やってられっか こんなセックス!」と言い放つ。さらには「オレもうあきた そんなお前の何もかもに」と捨て台詞を吐くと、泣きじゃくるその子をほっぽって部屋を出て行ってしまうのだ。

ひどい、このゲス野郎!と言いたいところだが、ここまでゲス野郎のこのゲス度が高まると、逆に清々しくなってくるのは僕だけだろうか。


こんなやつPART2(同棲している女の子の友達を口説いている)


しかし、そんな無頼の日出夫にも、悩みがないわけではない。
ひとつは慢性的な金欠である。彼は終始「金がない」とぼやいている(もっとも、一時彼の手元には女の子から貢がせた「金がある」のだが、前述したとおり、それら全てを彼は遊んで使い切ってしまうのだ)。だからこそ金づるたりえる女の子をハントするのだ。
そしてもう一つ、相当な女性遍歴を重ねた彼は、もはや女性一般と、その女性と繰り広げるセックス一般に対する期待や幻想を失いかけているのだ。女の子の家を「引っ越した」後に、彼は年上の女性の家に転がり込み、毎度のことながらやはりセックスをする。しかし上手く勃たなかったことに「『その気』になる女がいねえんだよな どいつもこいつもどっかで見たようなやつばっかでよ」と、それまで内省をしなかった彼の、作品上初めての心の声が飛び出す。
そしてまた別の女性とベットをともにしたときにも、誤って精子をその子の服にかけてしまった後に、「オレ・・・服としたのかなあ・・・」。買ったものでその人が形成されるという消費社会の中で、着ているものを剥いだらのっぺらぼうなになってしまう女性たちに、彼はほとほと幻滅しきっている。昨日セックスした女とさっきセックスした女、その違いは脱いだ服の違いでしかないのではないか。


男の風上にも置けないサイテーな野郎だが、彼は彼なりに悩んでいるのだ。マンガはそんな彼が、自分勝手で表層的な自分の生き方に嫌気がさして、人間的に成長を遂げながら、生涯の伴侶を見つける・・・、と言う風には絶対に進まない。彼はただただ「こんな女じゃ勃たねえよ」とぼやきながら渡り歩くのである。むしろ回を増すごとに、日出夫のゲス野郎っぷり、その人間としての薄っぺらさは増していく感がある。

何を隠そうこのマンガのミソは、主人公の日出夫の内面の、この徹底的なまでの「空虚さ」にある。明日は明日の風が吹くではないが、行き当たりばったりで即物的な快に溺れては女を泣かせ、めんどくさいと思いながらも、「もうやめよう」とまでは決して思わない。


そんな「女の敵」日出夫を、女性である描き手の内田はどのように描くかというと、その筆致はきわめて冷めている。主人公であるとともに対象でもある日出夫を見る目は、冷徹な観察者のそれだ。内田春菊は、自身が少女時代に強姦された義父との歪な関係を書いた『ファザーファッカー』という自伝的小説も発表している。またその続編的内容の『あたしが海に還るまで』では、その義父から命からがら東京に逃げてくるのだが、そこで出会った数々の男たちも、やはり義父と同じ「男」だったのだ。そんな経験を書いた一連の小説を読むと、彼女が男性一般に対して大きな失望、というか諦めさえも抱いているように思えてならない。
諦めている。だからこそ変な期待も込めず、もはや冷静な視点で日出夫を描けるのではないだろうか。


ところで、単行本の扉絵にはこんな英文が踊る。

His liPS(※原文ママ) MADE MANY MANY LIES. But IT WARE(※原文ママ) JUST HIS REAL
(彼の唇は数多くの嘘をついた。だがそれこそが彼の現実だったのだ)


実はこの言葉を僕は結構気に入っているのだ(言っておくが、だからといって別に日出夫になりたいわけではないぞっ!?)嘘で塗り固めていく内に、「真実」とか「本心」なんてものが消え失せてしまい、嘘の戯れそのものを現実として生きていく。まさにポストモダン的ではないか。
嘘で塗り固めたその向こうに、日出夫の本性、自己中心的な性格となった原因、出生の秘密などが隠されているわけではない。その場その場で、自分にとって都合のいい嘘をついて女性を騙す。さきに書いたとおり、彼は地理的にも、そして考え方にも「定住地」を持たない。帰るべき家も、バックボーンにある考えも全くないまま生きるというのは、ある意味最もタフな生き方ではないだろうか。ナンパなのはナンパであるけれど、ナンパを突き詰めていったら硬派になる、という不思議な逆説がここにはある。男に二言はないという、ある意味近代的なダンディズムとはまた様相の異なったダンディズムを感じてしまうのだ。


変な話、彼のことを書いていたら、アンパンマンに登場するバイキンマンを思い出してしまった。
ご存じの通り、バイキンマンドキンちゃんと組んで悪巧みをし、ドキンちゃんと一緒に棲んでもいる。しかし、この二人の関係はいったい何なのかというとはっきりしない。実はドキンちゃんはしょくぱんマンのことが好きなのであり、バイキンマンはそういう意味での彼女のパートナーではないのである。「しょくぱんマン様」に恋の炎を燃やすドキンちゃんの隣で、バイキンマンはどうするかというと、別にしょくぱんマンに嫉妬などしない。彼もドキンちゃんのことが好きなわけではないのである。おそらく子供向けの作品であるから、そこら辺の関係性を複雑にしたら話がややこしくなるという配慮だったのかもしれないが、それだけではない。バイキンマンは好きという感情以外にも、そういった嗜好という名の内面が欠落したキャラクターなのである。
バイキンマンも日出夫もあるのはただ一つ、「悪さ」をするということだけなのである。内面がなく、表層的な感情しかないという点では、実は一緒なのである。


イマダ