ラカン派精神分析的“恋愛”入門(第二回)

STEP1 女は治療から遠ざかる言い訳を探している


まず今回は、弁明からはじめなければならない。
ひとつは更新が遅れに遅れたということ。これには諸事情があり、なかでも一番大きいのは筆者である私が現実社会を生きている実存であり、現実を生きている以上、いずれはこの貨幣経済を自力で生き残っていかなければならないという問題に直面する運命にあり、その問題を解決するための就活など、いろいろ立て込んでいたのである。
まあ物理的に書けなかったのか、あるいは本当は書きたくなかったのか、それは私の自我のレベルにはない別の理由があるのかもしれないが(ニヤリ)。これは、今回の第二回にも関係する問題であるので、後に詳述する。
さて、もう一つ弁明しておかなければならないのは、全開第一回で私がとてつもなく大きな誤りを犯していたということだ。これを指摘しておかなければ、連載全体に支障が来す。前回で私は、「ハゲ・デブ・メガネ」を三冠王と上げたが、これは「ハゲ・デブ・チビ」の間違い。書いているときは全く気がつかなかったが、メガネはコンタクトをつければ問題ないし、メガネ男子という造語があるぐらいだからモテ要素にもなりかねない。反対に、チビというのは抗いようのない問題だ。私自身が小柄であり(公称167センチ)、チビという問題に対して抑圧のふたをしていたのかもしれない。


さて、今回のテーマは「第一章 分析における欲望*1」だ。これは恋愛においてはいわば、「気になるあの子をデートに誘え!」に相当する箇所だ。
だがしかし、我々はここでいきなり大きな関門を迎えることになってしまった。我々はこの連載で分析家―分析主体という関係性を男―女という関係性に当てはめられないかという問題を立てている。しかし当たり前のことだが、この二つの関係には大きな、そして根本的な違いがある。端的な話、俺たちが誘っても彼女がデートに来てくれなかったらどうすんの?ということだ。分析主体が、能動的に分析家の元に訪れることを選択しているのに対して、女の子は能動的に男のもとに訪れているわけではない。むしろ、男の方がへりくだって来てくれるよう懇願しているのが、そのほとんどだ。どこの世界に、患者に来院を頼む医者があるのか。ところがあるのである、精神分析においては。


例えば、歯痛で歯医者に訪れた患者は、即刻歯の治療を望むだろう。目にものもらいができた患者は、悪化しないうちにできるだけはやく眼科を受診するだろう。通常患者は、治療して欲しいという動機を持って診療所におもむき、医師の治療を受け入れる。受容と供給の関係が、ここでは当たり前に、無矛盾的につながっている。
しかし、精神分析においてはそう簡単にはいかない。患者は、たとえ何らかの症状を訴え、一度は診療所を訪れながらも、それでもなお治療を拒絶するのである。それは、他の病気にはない、症状自体はその患者(以後分析主体)にとっての「代理満足」になっている可能性があるからだ。

患者とは自分の症状を享楽するものなのだ。いや、それどころか、一般的に言って、症状こそが、享楽を得るための手段として患者が知っている唯一のものなのだ。とすれば、自分の人生におけるかけがえのない満足をわざわざ手放そうなどという人はいるはずがない。(4p)

ここには、実社会において支障をきたして苦しんでいる主体と、一方で満たされぬ欲望の充足を症状という迂回した形で叶えている無意識との乖離が存在している。であるからして、分析主体は症状の完治を願っているとともに、願っていない。分析主体は治療に来ながらも、実は何も知らないままでいたいという、実に複雑な構えをとるのである。
加えて、こう付け加えるべきだろう。精神分析とは、患者の「知りたくなかった自己」を知る経験である。畢竟、分析主体が分析に対しては後ろ向きの姿勢をとらざるを得なくなる。先にもほのめかしたが、私はこの連載を私の意志において始めた。しかしこの連載の更新が遅れたということには、無意識においてはこの連載を始めたくなかったのではないか、もしかするとこの連載によって自分の自我にとって「不都合な真実」が暴き出されるのではないか、という私の知られざる私による抵抗のひとつの事例といえる、かもしれない(実際はどうだか知らないが)。


さて、この抵抗は恋愛を扱う我々には当てはまることだ。分析主体が治療から遠ざかる理由を探しているのと同じく、女はデートから遠ざかる理由を探してるのである。分析主体のこの抵抗に対して、分析家の場合は「分析家の欲望」をもって対抗しなければならない。

分析家は患者に対して、分析を続けて欲しい、いついつ来て欲しいと思っている、もっと多く、たとえば週一回ではなく二回、また週四回でなく五回来て欲しい、ということを繰り返し言わなければならない。(太線ママ)(5p)

まさしく、押しの一手である。。
これは前回とりあげた逆転位の現象ではまだない。治療への意欲を失いかけた患者を、なんとしてでも踏み止めるために、分析家は分析主体の来院を欲望し続けなければならないのである。
だがしかし、ここでもまた、分析家とデートに誘う男に共通するある注意点が存在する。この分析家の欲望とは、何か具体的なビジョンをともなった願望ではない、ということに注意が必要なのだ。

分析家の欲望とは、患者が治療にやって来て、経験、思考、幻想、夢などを言語化し、それらについて連想することを欲する、たゆみのない欲望だということである。それは「個人的な」欲望ではない(9p)

分析家の欲望とは、治療の先にある具体的な患者の未来像のことではない。それは、診療所に来てもらい所定の行動をとってもらうこと、それ以上でも以下でもないのだ。
同じように男の諸君も、女性を誘うには注意が必要だ。デートに誘うときに、「個人的な欲望」をさらけ出してはならない。それは、とりあえず棚に置かなければならないのだ。デートに誘うとなるとふつう、それ相応の目的(恋愛、セックス、結婚、結婚詐欺、宗教の勧誘等々・・・)がその男にはあると考えられるはずだ。しかし、こちらの目的をわからないようにしておくことによって、相手の中にこちらの目的、欲望の意味を探ろうとする気持ちが生まれる。そして、それこそがこちらの目的なのである。分析家のたゆまぬ欲望の発露によって分析主体を治療をいざなうのと同じように、男も「デートに来て欲しい」という欲望のみを日々発すことで、相手をデートにいざなわなければならない。とにかく分析家と同じように、男は女の子のデートへの参加そのものへの欲望を相手に発し続けなければならないのだ。



だがしかし、ものごとには限度というものがある。バイトや仕事が忙しい、他の友人との予定がすでに入ってしまっている、断る理由はいろいろ挙げられるだろうが、もしあちらがこちらに好意を抱いているなら、何とかして予定を空けてくれるはずだろうから、とりあえずその線は消えたことになる。


言いにくいことだが、相手が一度も来てくれないというのはあなたにとっても、そして相手の女性にとってもかなりの「重症」であるということになる。まあ三回が限度だ。三回誘って、それでもデートを断られたのならそれは、相手があなたによっぽど魅力を見いだせないか、その娘が重度のワーカホリックか、そのどちらかだろう。親愛なる友人としてあなたは彼女に、ワークライフバランスについて真剣に再考することを勧めるべきだろう。
残念ながら精神分析で直らない患者がいるのと同じように、あなたがどんなに誘っても、デートに来てくれない女というのはきっと存在するのだ。

とにかくそんな女はやめちまえ。我らに残された青春はあまりにも短いのだ。デートに応じたものの、当日ドタキャンした、あるいはすっぽかしたなど、もはや論外、といいたいところだが、これも一種の抵抗かもしれない。そういう場合は、もう一度誘ってみよう。分析家にも、デートに誘う男にも、信望が必要だ。


とりあえずこのデートに誘う過程はクリアしたとして、次回からは女性がデートに来てくれた以降、「第二章 治療過程に患者を導くこと」に沿って論述していきたい。


イマダ

*1:この連載は、ブルース・フィンク『ラカン精神分析入門』を読解することが目的である。

ラカン派精神分析入門―理論と技法

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