俺の体は俺のもの、おまえの体も俺のもの

メルロ=ポンティ (現代思想の冒険者たちSelect)

メルロ=ポンティ (現代思想の冒険者たちSelect)

■2つの「暴力」について


第140回直木賞を受賞した天童荒太『悼む人』には、かつて夫からのDV被害に受けていた、という設定の女性が描かれる。あらすじははしょるが、祖母の死をきっかけに巡査部長の倉貫と肉体関係をもった倖世は、彼と結婚する。しかし、成り行きで結ばれた二人がうまくいくはずもなく、やがて倉貫の暴力がはじまり、それは次第にエスカレートしていく。さらに無理心中を図ろうとした彼に倖世は耐えかね、「東北の小さな町にある寺」へ、命からがら転がり込む。その「寺は暴力を受けている女性が逃げ込むためのシェルターを設けて」いたため、倖世はかくまってもらえることとなる。

DVというものの特異性が際立つのはここからだ。それは単に「愛情が冷めた」や「性格の不一致」というような理由では収まりきらない、独特の展開を見せる。「倖世が寺へ逃げて三週間後、倉貫が現れ」るのだ。DVの本や、ドキュメンタリーをみるとこのような展開はよく目にする。DVは「少し過激な夫婦げんか」などではない。暴力を振るう側は、なにかいわく言い難いものによって吸い寄せられるように、暴力を振るわれる側を追い求め、見つけ次第また暴力を繰り返す。


話は飛ぶが、次は僕の実体験だ。先日、突如としてケータイが壊れた。それでケータイショップに行ったのだ。みなさんは、ふだんどれだけケータイショップを利用するだろう。僕はというと、あまり近寄らないようにしている。新機種が入っていたりすると、個人的にはいじってみたいという気がないわけではないが、あまり「あの空間」にはいい思い出がない。あの空間に充満するのは、人々の負の感情であっても、まかり間違っても正の感情ではないのだ。実はケータイショップについて、このことを僕みたいに言う人は少ない。


僕が行った日も、開店直後だったのだが、朝っぱらからおじさんが派手にやっている。おおよその内容を聞けば、それはクレームだった。クレームというと、どこの店でも一つや二つはあるだろうと、みなさんは思うかもしれない。しかし、僕が思うにケータイショップにおいてのそれは、常軌を逸している場合が多々あるのだ。僕が目にしたそのおじさん(というか老人の域に達している)もすごかった。顔面は真っ赤に染まり上がり、担当の店員さん(この人もほんとにツキがない)に食ってかからんばかり、つかみかからんばかりなのである。もう少し行けば、他のスタッフが止めにかかるのではないか、というぐらい。もう少しすれば、頭の血管が切れてぶっ倒れてしまうのではないか、というぐらいその人はエキサイトしていた。まわりの僕を含めた他の客も、もちろん注目していた。


ここで考えたいのは怒り、についてだ。怒りの原因を抽象化していくと、何が残るのだろうか。怒りの原因を一言で言うとそれは何なのだろうか。考えてみれば、僕らは他人のことでとやかくいうことはあっても、そのことによって爆裂するような怒りを覚えることは、少ない。利己的ではあるが、僕らは常に、自分の身に起こったことに怒りを覚える。そしてそれをつきつめていけば、「自分の領域を侵害されること」、それこそが怒りの源泉がある、といえるのではないだろうか。

■本日のテーマはメルロ=ポンティでした


前置きが長くなった。今回は、以前症候会議で読んだメルロ=ポンティの話である。メルロ=ポンティフッサールを始祖とする現象学を代表する哲学者の一人、として位置づけられるだろう。そして、その哲学理論の根幹を彩るものの一つが、<肉>の概念だ。

20世紀哲学は、おおまかにいえばデカルトに始まる心身二元論の否定をひとつの目的としていた、といえよう。
心身二元論とは何か。例えば、マジンガーZを思い出してもらえばわかりやすいだろう。あれは心身二元論的な身体観の典型的な戯画だ。
マジンガーZには頭に搭乗席がある。マジンガーZというボディ=「身体」は、いくらそれ自体に力があったとしても、その搭乗席に兜甲児という「心」またの名を「理性」=上空俯瞰的理性が乗らなければ、動くことさえできない。逆に言えば頭の搭乗席から、マジンガーZの身体はすべて一方的に統治されている、ということが言える。大まかに言えば、それがデカルト以来考えられてきた心と体の関係の関係である。

しかし本当にそうだろうか。心と身体の関係は、前者から後者に指令が送られる一方的な関係なのだろうか。実は、身体には理性では制御できない部分、いやもっと言えば理性と身体は相互交流的(可逆性)であり、影響し合っているのではないか。さらには、理性という中枢機関すら、それは人間の描いた「虚構」であって、本当は身体には中心も周縁もない、ネットワークとしての身体という考え方もできるのではないか。それが<肉>という概念だ。余談だが、ロボットアニメつながりで言えば、マジンガーZデカルト主義的身体観であったのに対して、それ以降に、搭乗者の思い通りには必ずしもならない「エヴァンゲリオン」というロボット(正確には人造人間であるが)が搭乗したというのは、身体観の歴史と奇妙にも符合する。


これは僕の推測ではあるが、<肉>というのは、身体という単語と、その違いをはっきりさせるために用いられた言葉なのではないだろうか。身体、というと頭があって胴があって四肢があって、というくっきりとした人間の身体の像が思い浮かぶ。それは、心身二元論における頭=中枢、体=周縁というイメージを喚起させる。それに対して、肉と聞くと僕は、精肉店でよく見る、アバウトに切り分けられたままフリーザーに無造作にどかりと置かれた、あのぶよぶよした物体を想像する。そこに頭はない。あるのは肉だけだ。しかし、僕らの身体も、同じようなものなのではないか?そう言う問題提起が、この<肉>という言葉にはあるような気がする。


さて、<肉>としての僕たちの体は、それだけではない。伸縮も自在なのではないか、という問題提起もできる。メルロ=ポンティは実際に、幻肢という現象を通して、それについて考えている。
幻肢とは、事故なので体のどこかが欠損した患者が、もはやそこにあるはずのない「手のさき」や「足の裏」が、そこにあるように感じる、という現象だ。場合によっては、痛みやかゆみを感じることもあるらしい。


このことからわかるのは、僕たちが思っている以上に、僕らの身体イメージというのが「あやふや」だ、ということだ。体は事故によって、欠損した。事実、そこにはもうないし、体はそれを知っている。しかし、頭の方はそれをまだ「気がついていない」のだ。幻肢は、一言で言えば、心の描く体の輪郭と、現に存在する体の輪郭の「ズレ」、ということではないだろうか。そして、この身体イメージというのは、縮小することもあれば、拡大すると言うこともあるのではないか。

■問題の根源には身体の(悲劇的な)拡張があるのではないか


話は戻る。先に僕は、DVとケータイショップにおける怒りを取り上げ、それらの源泉には「自分の領域を侵害されること」に原因があるのではないか、と書いた。そしてこの「自分の領域」こそが、拡張された身体イメージなのではなのである。先に挙げた『悼む人』において、倉貫によるDVが加速していく箇所を追ってみよう。

そんな結婚が上手くいくはずなかった。不満を口にしたのは、やはり相手側だ。(・・・)倖世はよくひとりで外出した。ひとりの時間をもたないと、他人との生活に窒息しそうだった。倉貫はそれを責めた。


『悼む人』234p

この箇所を、「独占欲の過剰」と読み解くことはたやすい。しかしもっとちがう読み方があるのではないか。そう例えば、倉貫にとってはもはや、倖世とは手の一部であり、足の一部、つまり「身体の一部」になってしまったのではないかと。それを物語るかのような箇所が次に来る。

おれはこんな風じゃなかった、おまえがこんなおれにしたんだと、泣きながら暴力を振るった。


『悼む人』235p

彼の行っていることはある意味正しいのかもしれない。倖世という拡張した先の身体を手に入れるまで、おそらく彼と彼の身体の同一性は保たれていたのだろう。倖世をも身体として取り込んだことに彼の悲劇はある。当たり前のことが、倖世は彼に内属する身体ではない、確固たる一人の人格なのだから。彼がしまいに無理心中を強要したことはある意味、単なる「自殺」なのだ。自分は死んで、自分のくるぶしの部分は生かしておこう、なんていうやつはいない。自分が死ねば、体も死ぬのだ。
そして彼が逃亡した倖世を取り戻すために執拗に追いかけるのは、何かに吸い寄せられたというよりも、彼自身の体の一部を取り戻すための「当然の行為」、とも言える。


ケータイに関しても僕は同じようなことが言えるように思う。ケータイがつぶれるということは、たしかに痛い。ビジネス上、あるいは人間関係上支障をきたすことになるが、それだけに、あの小さな機械が僕らの「ネットワーク上に拡張された身体」、出先機関だと読み解くことはできないだろうか。
なんということはない。そう考えると、僕らはサイバーパンクの世界は、すでに実現しているといえることになる。ケータイは、僕たちがネットワークに触れている「肌」の部分なのだ。


繰り返す。
DV夫(あるいは妻)がパートナーに暴力を振るうのは、そしてケータイショップにて人々がぶち切れするのは、なにも対象が「自分の身体のように自由にできないから」ではない。そうではない、反対だ。「身体であるにも関わらず、自由に動かないから」こそ、彼らは対象について、異常なまでに暴力的にふるまうのだ。


イマダ