あなたは探しているの?それとも捜しているの?



今回もまず、みなさんに謝らねばならない。ひとつはまた一週間以上連載に穴を空けてしまったこと。もう一つは、件の連載に使っていた本(『ラカン精神分析入門』)、図書館に「奪われ」てしまったのだ。いや、ただしくは向こうが僕から「奪還」した形になるだろう。実は僕は大学図書館のヘビーユーザーで、現在どんな本を何冊借りているのか、自分でも把握しきれていない。そんなもんだから、いつの間にか返却期限を過ぎているということがあるのだが、今回はこの本がそんなことがならないように先週、いち早く返して、またすぐ借りようと思っていたのだ。

しかしだ!なんと別の本がすでに返却期限を迎えていたらしいのだ!

返却期限が過ぎるとどうなるかというと、ペナルティとして期限をオーバーした日にちだけ、本を全く借りることができなくなるのだ。したがって、返してすぐまた借りようとしていた当の本までも借りれなくなってしまったのだ。すぐに該当する返却期限の過ぎた本は返したのだが、次また本を借りるのには、とりあえず一週間以上は待たなければならない。よって今回は、ひさしぶりに日々の雑感を書こうという次第である。ゆるしてちょんまげ(古い)。それが二つ目の謝罪。

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最近めっきりテレビというものから、僕の欲望が減退している。世に言うネタ番組とか、見る気力すら起きないのだ。なぜかというと、とにかく今お笑いが「多すぎる」のだ。どこのチャンネルを映してもお笑い芸人ばかり。とくに吉本が多い。
そしてもう一つ、とにかく適度にみな面白いのである。みな面白いということは、良質な商品が揃っているということになり、それはそれでいいことなのではないか、という素朴な市場の原理を持ち出す人もいるかもしれないが、おそらくお笑いに関しては逆だ、少なくとも僕にとっては。適度に面白いやつばかりだと、視ていて疲れるのだ。今テレビに映っているコンビに「ははは」と笑えたとしても、そいつらと同じか、もっと面白いヤツがわんさかいる。その中で、こいつらだけを視ている必然性はない。かといってそれなら、他のチャンネルのネタ番組までちゃんとチェックしてその中で自分の好みを選び抜こうという気も、僕が歳なのか(先週めでたく24歳になりました)、なかなか起きない。
つまらないやつらがいる中で一生懸命面白いヤツを見つける方がはるかに視聴者として「視がい」がある。とにかく今はみんな面白いからみんなつまんないのだ。



前置きが長い!と思われた方、ここからが本題。上記のような感じで、最近のテレビの映像はもはや僕の眼球の網膜上に映っている単なる情報でしかなかったのだが、昨日のあるクイズ番組のある問題が面白くて、不覚にも僕はその網膜上の情報を、自分の意志で「視て」しまったのだ。
さて、突然ですが問題です。

漢字で「さがす」は「探す」と「捜す」というように二通り書き方がありますが、二つはいったいどういう風に使い分けるのでしょうか?

シンキングタイムは一分間、さあスタート!!



チッタチッタチッタチッタチッタ………



はい、タイムアップ。みなさん、答えはわかっただろうか。ちなみに僕は、前者の「探す」が動かないもので、後者の「捜す」が動くものだと考えた。しかしそれは不正解だった。


正解は、(原則としてだが)「探す」がその対象を「一度も見たことのないもの」の場合、一方で「捜す」はその対象を「見たことのあるもの」の場合なのだそうだ。みなさんは正解しただろうか。


僕はこれをなるほど!という気持ちとともに、興味深いことでもあるなぁと思った。実は僕らはこの「探す」と「捜す」を、文章を書く際に錯誤して使っている以上に、実際に行動する際に全く取り違えていたりするのではないだろうか。僕らは常日頃、(一度も見たことのないものを)探しているようで、実は(見たことのあるものを)捜しているのではないだろうか。


例えば婚活というものを考えてみよう。婚活の場合、結婚相手をさがしているわけだから、普通に考えればこの場合「さがす」は「探す」、となる。お見合いサイトに登録するのも、お見合いパーティに馳せ参じるのも、それ以前には「見たこともない結婚相手」に出会うためなのだから、それは当然「探す」ことになるように思える。
だがしかし、本当にそうだろうか。彼ら/彼女らは、「全く知らない相手」を探しているのだろうか。
僕自身、お見合いパーティはおろか、婚活なんてしたことないし、まだするような年齢でもないのだが、聞くところによるとそういう会合では、理想の相手の年収や学歴、年齢、趣味、身長などといった事細かなデータを予め記入する機会があるというではないか。それを元に、お見合いパーティでは男と男の、女と女の、静かなる争いが繰り広げられているそうだ。


予め「理想の相手の年収や学歴、年齢、趣味、身長」を設定しておいてから相手を探すというのは、実は「探す」ではなく「捜す」ことだとは言えないだろうか。なぜなら、理想の相手の「年収や学歴、年齢、趣味、身長」を設定するということは、それは「捜す」相手が世界中で「たった一人」でないだけで、その「理想の年収や学歴、年齢、趣味、身長」にひっかからない人を予め除外しているという意味では、すでに「見たことのある」理想の相手の「パターン」を捜しているのと同じなのだ。そう考えると、彼ら/彼女らは結婚相手を探しているのではなく、捜しているといえる。

だがしかし、予め決めた「理想の年収や学歴、年齢、趣味、身長」と合致する具体的な相手が僕らの前に現れたとて、その人を好きになるかはわからない。もっといえば、「理想の年収や学歴、年齢、趣味、身長」とはまるでかけ離れた人だって、好きになる可能性がある。そこはあなたにだってあやつれない領域だ。


これは、婚活だけに当てはまることではない。
僕らを悩ます就活だって、それは同じだ。


僕らは就活において、企業を「探している」つもりだが、無意識のうちに「捜している」のだ。どんな企業でもいいわけではない。収入がよくて、社会的名声もあって、人にうらやまれて…、挙げればきりがないそれら条件によって、それに該当しない企業を切り捨て、その自分の理想として「すでに夢見た」企業だけを就活の対象にしている。それは探しているとはいえない。捜しているのだ。


何が幸せなのかなんて、誰にもわからない。なら幸せの「パターン」を決めてない方が、幸せを「捜す」より「探す」方が、いいに決まっている。
もし捜し当てたあなたの「理想の仕事」を、あなたが好きになれなかったらどうすんだ。
もし捜し当てたあなたの「理想の結婚相手」を、あなたが好きになれなかったらどうすんだ。


もしあなたが望んで手に入れたあなたの理想の幸せで、あなたが幸せになれなかったらどうすんだ。


イマダ