ラカン派精神分析的“恋愛”入門(第三回)―女の話は、ただ単に聞いてあげるだけでいいのか?


前回、マジンガーZからエヴァンゲリオンまでのロボットアニメの歴史的変遷を追った記事をのぞくと、だいぶ時間が経ってしまった、申し訳ない。今各所方面で話題のmoso magazineプレゼンツ「ラカン精神分析的恋愛入門」第三回。


さて、前回までの内容を軽くおさらいをしておこう。我々は、前回女の子をデートに誘うまでのプロセスを、治療者が診療室に誘うまでのプロセスと比較しながら考えてみた。そこには、精神分析の患者(分析主体)特有の、興味深い内的葛藤が隠されているという話だった。分析主体は、その症状に苦しんでいるフリをしながらも、実は無意識においてそれに享楽しているのである。これを精神分析では、疾病利得という。

この疾病利得はしかし、神経症を患った人特有のものなのだろうか。医学的なレベルではそうなのかもしれないが、ラカンの「すべての人間は神経症である」という文言に従い見渡せば、至る所に「疾病利得」が転がっていることがわかる。

例えば童貞である。そろそろ童貞でいては社会的軋轢が厳しくなってくるんじゃないかという年齢の童貞男子たちが、自らの童貞に対して取り得る態度はさまざまである。

  • 「早く捨てたい!」(けど何もしていないという人多し)
  • 「(努力すれば付き合えるんだけども)女の子と付き合うのはめんどくさい」

これらがよく聞く理由だと思うのだが、これらも実は疾病利得(童貞利得?)ではないかと思えてくるのだ。
これは欲求ではなく、欲望の問題である。欲望とは常に満たされない。満たされる直前がいいのだが、満たされた途端それは欲望ではなくなる。この世に「満たされた欲望」は存在しないのである。
童貞でいつづける以上、他者と交わることによる具体的な性的快感こそ味わえないが、味わえないからこそ、「満たされない欲望」としてそのまだ見ぬ経験は、あまりに魅力的に、あまりに崇高に、思い描かれる。実はその狂おしい「寸止め」の状態そのものが、童貞としての疾病利得、なのではないか。

それは目の前の木に成った、熟れに熟れた果実をもぎ取ることなく、その甘さを想像する行為なのだ。もしかすると彼らは、自我のレベルでは童貞に甘んじている現状に少なからぬ不満を抱きながらも、実は無意識においては、もし実際にそれを体験して「思っていたほどよくなかったらどうしよう!?」「気持ちよくなかったらどうしよう!?」「セカイに革命が起きなかったらどうしよう!?」という不安に駆られている可能性があるのではないか。


その他にもこんな理由を聞いたことがある。

  • 「女の子と付き合うと自分が変わってしまう」

まず「付き合おうと思えば付き合えるのか?」という疑問も残るがそこの詮索は止めておこう。重要なのは「守りたい『自分』とは何なのか?」という疑問。そこにこそ注目したい。この自分=自我への固着こそが、症状(=童貞)なのではないだろうか?
ラカン派においては極端な言い方をすれば、自我とはいわば主体特有の症状なのである。
もっともフロイトにおいても、生まれた頃の幼児には自分=自我は存在し得ず、非人称的なesしか存在しないと考えられている。ラカンの思想においては、それがより先鋭化され、自我が主体にとっての仮初めの姿である、というニュアンスがより強くなったと言えよう。
もう一度繰り返す、自我とはその人特有の症状なのである。このことを踏まえておいて、今回の本論に入っていきたい。

■女の話は、ただ単に共感してあげるだけでいいのか?


さて、ようやく本題。今回の読解範囲は「第二章 治療過程に患者を導くこと」。これは我々のこの「セミネール」に翻訳すると、「デートに来た彼女を本気にさせる会話術」、という具合になるだろうか。ここからが、この連載のまさに肝の部分といっていいだろう。とうの昔にデートにこぎ着けていた諸君。長いこと待たせた。

一般的なモテ本や恋愛本における、デートでの会話などについて割かれた箇所を読んでみると、だいたい次のようなことが書かれてある。

女性の話をよく聞くことは、とても大切だ。(…)それは、女性が「自分のこと」をしゃべり始めたときに、その話をけっして妨害することなく、相づちをうちながらじっくり聞くことである。そして、女性の話の内容をそのまま肯定的に受け止めて、「そうだったんだ」というふうに、共感的に理解することである。


森岡正博草食系男子の恋愛学』54p


特に女性との会話については、他の本を開いてもとにかく「女の子の話を聞くこと」、そして「解決策や意見ではなく共感をしてあげること」、さらに「それを聞いて相手に心情的に寄り添ってあげること」が強調されているのがわかる。これらの本が言わんとしているのは、「共感による相互的関係」によって、恋愛を育もうではないか、ということである。


これに対してラカン派恋愛学を志す我々は、この主張に部分的には賛同する。精神分析においては、分析主体の会話を聞くことから始まるのであり、こちらが積極的にしゃべってもらちがあかない。その部分では、他のモテ本と考えを同じくしている。

だがそれ以外において、ラカン派恋愛学が提示するのは、その他モテ本恋愛本が提出する考えと全く異とする手法だ。

分析家と分析主体のあいだに相互性(「私にあなたの話を聞かせてくれたら、私の話をしてあげる」)がないのだということをはっきりさせることに費やされる。(太字は原文ママ


ブルース・フィンク『ラカン精神分析入門』*116p


精神分析の初段階において、分析家は分析主体との相互性を絶たなければならない。ここでいう相互性というのは、分析主体の考えに共感すること、そして反対することも含め、同一平面上にいる「単なる他人」*2であるということだ。分析家はまず最初に、分析主体にとっての自分が、この「単なる他人」の次元「にはいない」ということを明確に示さなければならない。


分析家が、分析主体にとっての「単なる他人」ではないことをわからせる、その具体的な方法とはなんだろうか。論点を先取りすればそれは、分析家が分析主体より、「知っている」ということである。
いったい何についてか?
それは主体自身についてである。それは実際に分析家が興信所などに依頼して、彼女のいろいろなプライバシーについて事前に調べておいてもらうとか、そういうことではない。主体の中に、「私以上に私について知っている人」と想定された他者として、出現することなのである。


では反対に、なぜ「共感による相互的関係」ではダメなのか?
この共感するというのは、一見安全パイに見えて、実は諸刃の剣なのである。よく聞く男のフラれる理由のひとつに、「友達としてしか見れない」というものがある。「恋人として見ようとしろ!」と言いたくなるが、これはそもそも告白までの前段階における、「共感」のプロセスが原因であったということではないか。恋人というのは、もちろん友達とはちがう。友達とは、どんなにその人と親密が高かろうと、主体と同一平面上にいる「単なる他人」なのである。それに対して恋人とは、主体にとって特権的な位置に占める象徴的な存在だ。「友達(単なる他人)としてしか見れない」という断り方をする女性がいるとすれば、彼女が求めているのが象徴的他者=「父としての彼」のではないだろうか。


もっとも「友達のような彼氏」を望んでいる人も、中にはいるのかもしれない。この点やや脱線するが、「三低」および「草食系男子」、あるいは「格差婚」などが時代のキータームのように持ち上げられているが、「ラカン派恋愛学」からすれば少し訝しむところがある。女性の自立が進んだ今の時代、性的、経済的、社会的な女性の自立を認めることに異論はないが、はたして彼女らがパートナーに「父性」までも求めていないとは、言えるのだろうか。あるいは今の時代、男は父性を背負わなくて本当によかったのだろうか。紀香―陣内の離婚を見よ。時代が移り変わっても、主体が軸とすれるべき象徴的他者(=父性)は必要なのではないだろうか*3


閑話休題
さて、我々はとにかく、相手(分析主体)の話を聞くということまでは他の恋愛本と考えを同じくしている。ではそこから先、「単なる他人」の位相から抜け出し、相手にとっての「私について私以上に知っている」特権的な位置に上り詰めるためには、いったい何をすべきなのだろうか。相手の話に「共感」するのでないとすれば、いったい何をすればいいのだろうか。分析家ならこういうだろう、「句読法、そして「区切り」だと。


まず句読法についての引用。

患者の発話の句読法、すなわち、特定の単語の強調(いわば「アンダーラインを引くこと」)、失敗や不明瞭な発音のすばやいこじつけ、重要だと考えていることの繰り返しなどは、分析家が独自に句読点を打ち、他の読み方が可能であることを示唆することで、変容をこうむる。しかし、その際分析家はその読み方がどのようなものであるかは言わないし、その読み方が明らかで一貫していることすら言わない。(…)分析家の句読法は一つの特定の意味を指摘したり、そこに縛りつけたりするというよりは、むしろ患者が注意していなかったレベルの意味、すなわち意図しなかった意味や無意識的な意味を示唆する。

同上(20-21p)

(区切りとは)とくに重要だと思われるところ、すなわち患者が力強く何かを否定していたり、何かを発見したと主張していたり、夢の内容豊かな部分を説明していたり、ちょうど口がすべったりしたところでセッションを打ち切ることである


「句読法」も「区切り」も、「共感」と似て非なるものである。簡単に言えばそれは、相手の発話内容を、相手の意図した文脈に留まらせず、その文脈を常に揺るがせ続け、決定不能にし続ける、ということである。


精神分析は彼(引用者註―分析主体)が何を言わんとしたかwhat he meantということよりは、むしろ彼が実際に言ったことwhat he actually saidのほうに関心を向けるのである。(強調原文ママ


同上(34p)


ふつうに考えるとまるっきり逆なように思える。多少の言い間違いや表現にひっかかるところがあったとしても、発話者の「本当に言いたかったこと」をくみ取ってあげるべきではないのだろうかと。
だが精神分析ではそうではない。ラカンの「無意識は言語によって構造化されている」という文言が示す通り、精神分析において発話とは、無意識の露出に他ならない。そして、分析においては「何を言わんとしたか」は主体自身がそれだと認識する「自我」の部分であり、「実際に言ったこと」とそれの偏差は、「何かの偶然」などでかたづけられない。その「実際に言ったこと」こそが、主体の無意識の表れなのである。そして前段の、「自我」が主体特有の症状であるという議論に接続すれば、その症状の根本を揺るがすためには、自我ではなくその無意識の部分に介入しなければならない。これこそが、句読法が用いられる理由、といえるだろう。


ここまで読むと分かるだろう。相手の話に「共感」するということは、相手の発話を相手の「本当に言いたかった」意味、文脈どおりに受け取ってあげるということであり、それは相手の自我という「症状」を容認することに他ならない。つまり共感しているだけでは、相手の症状を現状肯定する域を脱し得ず、分析者は相手にとっての自分の位置を特権的なそれのレベルにまでは、持っていくことができない。どんなに共感することに努力をかたむけても、せいぜい「私と同程度に私について知っている人」ぐらいにしかなりえず、「私以上に私について知っている人」はなり得ないのだ。分析主体がもし同じ話を、他の友達にもしているとすれば、我々がその彼女の解釈を通して現れる自我に風穴を開けるには、その彼女の解釈の仕方に介入するしかないのである。

もちろん、次のような疑問が残るだろう。

なかには苛立ちを感じる患者もいるかもしれない。


同上(21p)

まともな人をそう思っても当然だ。特に我々は女の子を分析に誘ったわけではない。デートに誘ったのだ。誘われて、そしてその誘いにのって来てみて、話していることにいちいち変な反応をされていては、興ざめである。しかし、我々は「自分が強調が重要だと思った素材を強調するのを恐れてはならない」。何よりも重要なのは、この句読法、区切りと言ったこれらの方法によって、「自分が自分の家の主人ではないということが患者にほのめかされる」ことなのだから。

患者が分析に本気になって取りくみ出すのは、彼らがそうしたことを問題にし始めるとき、つまり自分の発言における「何、なぜ、誰」が患者自身にとって問題となるときであるである。


同上(37p)

これらのプロセスが上手くいけば、分析主体は「私の中には私ならざる私がいる」ということに気づき、それについて考えることに興味を持つはずである。そして、その「私ならざる私」について目の前の人(つまりあなた)が、私以上に何かを知り得ていると言うことも。おそらくこの時点で、分析主体はおそらくこの分析空間(つまりあなたとのデート)に興味を持ち始めているのではないかと考えられる。すでに転移関係の入り口に、我々はさしかかっていると言えるだろう。

ではこの次は何をすればいいか。それは次回「第三章 分析的関係」にて。


今日のセミネールは終わり!みなさん予習復習をしておくように!!


イマダ

*1:

ラカン派精神分析入門―理論と技法

ラカン派精神分析入門―理論と技法

*2:ラカン精神分析によるところの「想像的他者」。

*3:この点、本論では扱わないがブルース・フィンクも別箇所にて同じようなことに言っている。