ラブ・イン・エレベーター

2nd GIG


マイケル・ジャクソンの件についてもしかり、最近「アメリカのこと」となればなんでもかんでもすぐデーブ・スペクターにお伺いを立ててしまう日本のマスメディアの脆弱さに危機感を抱いている、どうもイマダです。
もうわかってます、これほどまでこの連載の感覚を空けてしまったことへのあなたの怒りは。ラカン本は手に入りましたので、いずれまた連載を再開したいと思います。失礼しました。


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さて、今日は中島らもについて。実は僕はこの作家をかっていて、もっと評価されてもいいのではないかなぁと、読んでいるとふつふつと思うわけだ。もちろんもうすでに一定の評価はされているのは当然で、長編では吉川英治賞受賞作もある。しかし一般的にこの人は演劇の人とか、コピーライターの人とか、あるいは単なる変な人というような評価しか受けていなくて、ナンセンスなのかリアリズムなのか判別しがたいその小説世界というのを知っている人は、実は少ないのではないかとさえ、僕は思っている。


中島らもって、実はすげー小説家でもあるんだぞ。


そのことを知らしめることなく、彼は転倒事故で急逝してしまったのだけれど、今月は彼の命日のある7月だ。そういうことで、前から書きたかった中島らもについて。
中島らもには『白いメリーさん』という短編集がある。その中の僕のお気に入り「ラブ・イン・エレベーター」について、今日は書きたい。

白いメリーさん

白いメリーさん

このエレベーターに僕が乗ったのがいつのことだったか、もうわからなくなってしまった。何週間か、何ヶ月か、ちょっとするともう何年も前のことなのかもしれない。とにかく、ずいぶん長い間こうして彼女といっしょに箱の中で過ごしていることは確かだ。(261p)


小説は唐突にこう始まる。「ビデオ制作の仕事をしている僕は」、「軽いロケハンのつもりで」休日に超高層七十二階建てのビルに訪れ、地階から昇ってきたエレベーターに乗った。中には休日出勤なのだろうかOLがもうすでに乗っていて、彼女が「屋上直通ですよ」と聞いたのに対して「僕」がうなずいたのに始まりに、それからエレベーターがずっと、止まることなく上昇し続けてしまうのである。

何時間経っても屋上に着かない、そして開きもしないエレベーターの中、ふたりはようやく異変に気づく。

恐怖に泣き喚くその彼女を尻目に、「僕」はあらゆる脱出への努力をつくすが、すべてが無に帰す。次にふたりは、この事態についてあれこれ議論する。「どこか違う次元のところにいってしまったのではないか」「トンネルの最上階と一番下の階が何らかの歪みでつながってしまったのではないか」あるいは、「何者かのシミュレーションで、僕たちはその中でてすとされているのではないか」「これは幻影ではないか」等々。ふたりはありとあらゆる可能性を考えたが、「答えは出しようがなかった」。なぜなら、たとえふたりが探り当てた答えがこの事態の真相だったにしろ、現にエレベーターは上昇し続けているのだから。
そして転機が訪れる。

そんな中で、僕たちにやってきたのは深い諦めの感情だった。底が見えないような諦めの感情の中で、やがて僕は彼女を愛し始めた。少しずつ、少しずつ。発狂せずにいるためには、そうするより他になかったのだ。


『上昇』が始まって四日目か五日目に、僕たちは最初のセックスをした。


ここにこそ、ショートショートと分類できるだろうこの小説が、星新一でも小松左京でもなく、紛れもなく中島らものそれであることの証明みたいなものがある。閉じ込められたエレベーターの中、男と女ならばまずは一発ヤルでしょうというまるでAVの世界のような短絡的でナンセンスな展開に見えるのだけれど、考えてみればエレベーターとは、わずか1メートル四方の「個室」である。細かい人物設定は短編ゆえに省かれているけれど―いや、お互いの素性を知らない匿名的な男女だったからこそ―成人した比較的若い部類に思える大人の二人が、このように4日も5日も閉じ込められていたら「もしかするとそういうことになるのかもしれない」という、不思議なリアリティーがそこにはある。

セックスをしていない時間には、僕たちはお互いのことについてしゃべり合った。最初のうちは堰を切ったように自分のことをしゃべった。どこで生まれ、どう育って、何をして生きてきたのか。何が好きで何が嫌いか。・・・


ふたりはとにかくしゃべり合う。しかしこの展開に、どこか「既視感」のようなものを感じはしないだろうか。実はこの物語は、「半永久的に上昇し続けるエレベーターという特異な空間において男女の営み」なんかではなく、ごく一般的なカップルについて書かれているのである。
閉じた共同体の中の男と女は、たとえどんなにその関係の偶発性がぬぐえなくとも、吸い寄せられるように恋仲になっていく。それこそが世に言う恋愛、といううやつだ。学校のクラスだろうと、大学のゼミだろうとサークルだろうと、就職した職場であろうと、男と女は所詮動物なのであり、同じ檻の中に偶然に囲い込まれた同種の異性を、即物的に求めあう。この短編が描いているのはSF的な特異空間や異次元空間なのかもしれないけれど、それを通してて描かれるのは「ある恋愛の一形態」と読み取るべきではないか。


そして、「恋愛を一言で言えば?」という問いに答えるとすればそれは、この小説が描くように絶えず自分のことについてしゃべり合い、「しゃべっていないときは眠るかセックスしているか」、その無限反復に過ぎないのかもしれない(もっともそんな恋愛を無価値だと切って捨てるか、あるいはそれでも価値を見出すのかは、また別の位相の問題だ)。


だが、そんなエレベータ内の恋愛にも、ご多分に漏れず「終焉」が待っている。

しかし、そのうちに僕はあることに気づいて、今度こそ骨の内側まで凍り付くような恐怖に襲われた。つまり、僕は彼女に「飽き始めて」いたのだ。


永遠に閉じ込められてしまうかもしれないというこの開かずのエレベーターの恐怖よりも、なぜこの「彼女に『飽き始めて』いた」という事実が、「僕」を恐怖させるのか。ここでこの小説におけるエレベーターという存在の意味が結実する。無限に上昇するエレベーターとは、まさに恋愛という「制度」であり、当人たちの間ではすでに「終わった」恋愛ですら、恋愛の形をしたまま惰性に続いていくのかもしれない、「僕」はその可能性を恐怖するのだ。その事実を、この小説は端的に言い表している。

彼女は平凡な女だった。彼女が話せば話すほど、彼女のすべてをおおっていた凡庸さがあらわになっていった。(…)彼女が話せば話すほど、僕がこの女愛する理由が失われて行くような気がするのだ。
それでも僕たちは憑かれたようにしゃべり続けていた。僕たちの間にかつて確かにあった愛と、それが壊れていくプロセスにつて今で語り合った。しゃべり終わることへの恐怖につき動かされて、僕たちはただただ狂ったようにしゃべり合った。


惰性で続く恋愛は、惰性であるけれども惰性になりに「上昇」し続ける、無限の会話によって。その会話ですら途切れたとき、この短編は終わりを告げるのだけれど、そのあまりに月並みな「オチ」の部分には触れないでおきたい。それよりもこの短編小説は、短いながらそのオチにたどり着くまでのプロセスにおいて、恋愛とはなんぞやという問いへの、中島らも風味のあまりにも冷徹な解が凝縮されているように思えて、僕はこの中島らもという「小説家」のすごさを感じずにはいられないのだ。



イマダ