グローバル・ヴィレッジって、だれがいった?

2nd GIG


昨夜、出川哲朗が「アイドリング」なるアイドルの番組に出ていて、「わさび寿司」と「さわってさわってなんでしょねー」(箱の中に穴から手を突っ込んで中に何があるかを当てるゲーム)の、その「やり方」をアイドルたちにレクチャーしていた。「やり方」というのは言うまでもなくリアクションのことであり、どうもがけば面白いか、どう怖がれば愉快なのかを教える講師をやっているのである。そこから遡ることつい先日にも別の番組でも彼は、今度はオードリーに女王様からの「ろうそくプレイ」の「受け方」や、「熱々おでん」の「食べ方」、「熱湯ぶろ」の「入り方」を伝授していた。


わかっている。こういうのは今の始まったことではないし、今日ここに書いたのもたまたま続けざまに出川のそうした姿を見たからに過ぎない。


こういった「リアクション芸を出川哲朗から学ぶ」という企画は、僕自身見慣れたものでありながらもおきまりに「へへ」と笑ってしまうのはたしかで、にもかかわらず同時に、笑いながらもどこかで「不健康さ」を感じてしまうのも確かなのである。「不健康さ」でわかりづらいのであれば「倦怠感」、もうこれ以上には何もないなという「先細り」の感覚を強く覚えてしまうのも確かなのである。


「リアクション芸」という言葉と営みには、一つの転倒がある。ある行為=アクションから自然発生的に生まれる反応=リアクションこそが、であるからこそが面白いにもか関わらず、カメラにどう撮られ、どうのようなコメントを刷ればいいのか、その全てが計算ではないにしろ、計算が多分に含まれているということは、もはやテレビに映ってる側、だけでなくそれを視ている側にとっても自明の殊なのである。


ここ数年、24時間テレビの深夜の時間帯ではかの往年の「スーパージョッキー」の名物企画(我が家の日曜昼の12時はいつもこの番組だった)、「熱湯コマーシャル」が行われる。そこではかつてのようにダチョウ倶楽部が熱湯兄弟として活躍するのだけれど、興味深いのはそこでは彼らを、他の彼らより若輩のタレントたちが、長年憧れた伝統芸能を視るかのように眼を輝かしてみているということである。


それはまるで、年に一度の縁日の中央で、毎年のごとく大太鼓を叩くおじちゃんを見上げる少年少女たちのそれである。しかもそれは、テレビの中だけでない。おそらくあの時間までわざわざ起きてあのチャンネルを視ている輩なぞ(僕も含めて)、おそらくは彼らの例年通りのその「儀礼」を待ちわび、そしてそれにがははと笑うのだ。


冒頭で記した出川のその受容のされ方と、ダチョウのそれには、そのような共通点があり、ここにこそ近代からポストモダン、そしてその次への具体的な未来図がおぼろげながらもあると思うのだ。


2001年の『動物化するポストモダン』以来、大きな物語の失墜だデータベースだと、日本ではさまざまな議論がドメスティックに展開しているけれど、ふりだしに立ち返ってみて、「じゃあ近代とポストモダンってどうちがうの?」と問われれば、なかなか答えにくいのもこれ事実。そんな問いに、稲葉振一郎『モダンのクールダウン』は、興味深い交通整理をしてくれている。

モダンのクールダウン (片隅の啓蒙)

モダンのクールダウン (片隅の啓蒙)

「近代」というもの派語源からしても新しい何かであり、伝統への反逆を意味するわけですが、「モダニズム」にとっては「近代主義者」的「近代」はすでにしていま一つの伝統、というか反逆すべき新たな正義となってしまっているわけです。
『モダンのクールダウン』p9

ニーチェをその象徴とするモダニズムの旗手たちは、大衆化した「近代社会」そのものへの批判者であり、いわばエリート主義なのだ。この時点で近代主義モダニズム、和訳すればイコールになるはずの二つの言葉に乖離があるのだが、ではその先に来る「ポストモダン」とは一体何なのか?

「歴史は繰り返す、ただし一度目は悲劇として、二度目は喜劇として」とマルクスが引き合いにしたヘーゲルのセリフにありますが、ニーチェモダニストたちが演じた悲劇の二番煎じがポストモダニズムである。意地悪く言えばそうなります。ニーチェやホセ・オルテガ・イ・ガセットの口まねの近代批判、大衆批判がそれ自体知的ファッションとして大衆化し、大衆が大衆を(自己批判という痛烈な自覚なしに)批判して楽しむというお笑い沙汰、それがポストモダニズムだ、と。
同上16p


ここで近代およびモダニズムと、ポストモダニズムの関係図がおおよそわかってくる。
テレビでこの関係を例えるならば、近代人とはいわば昔の視聴者である。彼らは僕らよりももっと上の世代、それ以上でもそれ以下でもなくテレビを「テレビ」として享受していた世代だ。大晦日は何の疑いもなく紅白歌合戦が当たり前。吉本新喜劇のお約束のギャグにももれなく笑う。大衆らしい大衆として彼らは振る舞うのだ。それに対して孤高のモダニストとしての視聴者とはすなわち「ナンシー関」のことだ。松本人志も称賛したその独特の角度から繰り出され、対象を的確に獲られた「テレビ批評」は、スリリングであり、何よりもかっこよかった。


そして我々ポストモダンのテレビウォッチャーは、まさに「彼女以後」に属している。彼女に憧れ、彼女の批評眼をほしいと強く願った、「批評性」のある世代なのだ。


ポストモダニストであるテレビウォッチャーたちは、もちろん「視聴率」にも敏感だ。だれそれのあんなつまらない番組があんな視聴率だ、やはりあの番組は面白いから視聴率が高いだ、某掲示板でも日夜盛んに論ぜられている。だが言わずもがなだが、視聴率という数値を形成するのは彼ら自身であり、すなわち「大衆」なのである。「大衆が大衆を(自己批判という痛烈な自覚なしに)批判して楽しむ」ということの、これは格好の事例ではないだろうか。


では、そのポストモダンの次に来る「ポスト・ポストモダン」とは、いったいどんな世界なのだろうか。

僕はもしかすると、周期的な時の移ろい以外何も変わらない前近代あるいは中世のようになるのではないか、と最近思う。その具体的な像こそが、冒頭で挙げた出川哲朗ダチョウ倶楽部、近年における両者の受容のされ方、お笑いを一種の伝統として披露するそれなのだ。


最近「バカと暇人のもの」だと密かに囁かれているネット上だって、「ムラ」が展開している。
例えば、先月繰り広げられた一連ののりピーの一件、押尾学の一件を見よ。事件発覚後、当然のごとくネット上では盛んに両事件の「ネタ化」が繰り広げられ、ある人はAAを作り、ある人はボーカロイドで替え歌をこしらえる。ネタそのものが新しい分、もちろん内容には新鮮みがある。しかし、大枠で捉えた全体像は、かつて数多の有名人がなんらかの不祥事を起こしメディアで取り沙汰された時のプロセスと、何ら変わらないのではない。「以下同文」ではないだろうか。
「祭り」というネットスラングは、不定期ながらもこのムラで起こる祭事を指し示している点で、奇しくも的を得てしまっている。



かつて「芸術は終わった」「映画は終わった」などと、あらゆる芸術に終わりが告げられた。それに対して、「でも映画館にまだ人、入ってますよ」とおバカな返しする後輩がいたが、そういうことではなく、斬新かつ前衛的で「何か次があるかも」「新しい世界を見せてくれるかも」と見る者を期待と興奮の渦に巻き込んだものとして、それらの多くは「終わり」を告げられたのである。


もしかすると「ネットも終わった」のかもしれない、そのような倦怠感と息苦しさに、先日「白いクスリ」という替え歌の存在を後輩から教えてもらい実際に視聴した際に、僕は襲われた。


そんな文章を今ネットに書いてはいるのだけれど。。


イマダ