マツコ・デラックスを巡る冒険 漂流2日目


今週号のAERAマツコ・デラックスのインタビューがあったので買ってしまった。


初めて見たのはTBS「ピンポン!」のコメンテーター。その巨漢に衝撃を受け、「デラックス」という名のハマリ具合にまた衝撃を受ける。そして、言ってることがめちゃめちゃマトモで、さらに驚いた。


それ以降、コメントを見ても聞いても痛快で、これはナンシー関の再来か、と思った。「TBSは赤坂サカスなんて不動産業やってんじゃないわよ。そんなことで儲けてたら、面白い番組作る意欲が湧いてこないじゃない。」みたいに、コメントがいちいち的を射ていて、こりゃーすごい人が出てきたな、と感じたのをよく覚えている。





記事は、マツコがその絶大な批評性を獲得するまでの半生を追う、興味深い内容だった。

「子供のころからデブとか、ゲイとか、数々の負の要素を抱えて、葛藤を続けていたはずで、その業の深さが私と通じていたんです。自分探しって『神』を探すことに似て不毛な作業。その不毛に、マツコは女装というパロディで挑んでいる」(p57)


・現代の肖像「マツコ・デラックス」(『AERA』09年8月31日号)


と、作家の中村うさぎ。彼女がマツコの批評性を見出したのだそうだが、そうした「生き辛さ」を噛み締めてきた人たちの言葉は、今の時代に必要とされるし、よーくフィットする。
いいインタビューだった。AERAグッジョブと言わざるを得ない。





しかし、その中で、一箇所引っかかる点があった。

「急ぎすぎたかな、と思う。でも、もどかしかったのよ。90年代にゲイがゲイとして解放されたのはよかったんだけど、雑誌でも何でも、自由の謳歌だけがフューチャーされて、ワンセットであるべき責任への言及がなかった。そこを表現できなければ、ゲイだって次の段階に行けないのに」(p56)


この中の「解放」という言葉だ。実体を上手く表せるのは「開放」という表現ではないだろうか、そんな違和感に襲われる。
言葉の意味はそれほど重要でない文脈にも見えるが、敢えて辞書に立ち返って見てみる。


解放:束縛や制限を取り除いて自由にすること。


開放:?窓や戸をあけはなつこと。?禁止したり制限したりせずに、だれでも自由に出入りするのを許すこと。


とある。


解放っていうと、「奴隷を解放しました!」「力を解放しろ!」みたいに、ある種の苦行を伴うイメージがある。する方も、される方も。
逆に開放は、「開放的な気分!」に代表されるように、割とのん気なイメージを持つ人が多いだろう。


自分の引っかかりは、(ゲイなどの)文化が安易に「解放」されることがあったのか、という違和感だったのではないか、と思う。



もっとも、インタビューをテープから起こしているので、マツコがどちらの「かいほう」を意識していたかは分からない(意識なんてしてないかもしれない)。
しかし、僕にはマツコが「開放」の方を想定して喋っていると考えるほうが自然に思えた。そしてそれを「解放」と書いてしまうライターの病もなんとなく理解できる。ここに、「消費」をめぐるAERA側とマツコ側の大きな対立が見て取れるのではないかと思う。





インタビューを行い文章を書いたのはライターの清野由美氏。プロフィールに「ジャーナリスト。出版社勤務を経て91年からフリー。時代の感覚を追って、人物インタビューから都市現象まで幅広く取材する。著書に『新・都市論』(隈研吾と共著・集英社新書)。」とある。そうした「消費」の最先端を様々に見聞きしながら生きていく中で、氏の中の「かいほう」が持つイメージは、「消費を介して対象を救う」というある種の使命感を帯びたものになっていったのではないだろうか。


もっと言うとそれは、「私が取り上げてあげることで、対象に注目が集まる。するとお金も集まるようになって、その人たちは豊かになり、救われる。」という価値観だ。そしてそれは、マスコミという巨大権力が持ついわゆる「おごり」として、批判を繰り返されてきた。


そうした「救ってやってる」という態度に対しては、一線で活躍するジャーナリストが自覚的自律的でないはずがない。


しかししかし、揚げ足を取るようなツッコミかもしれないが、この「解放」には、無意識に出た微量の「おごり」が、感じられてしまうのである。





対して、マツコの言葉が痛快なのは、「自分が消費されるものである」という自覚(つまりメタ目線)を持ちながら、同じ外部にいるマスコミを批判するという、ある種の内部告発のような視線をはらんでいるところだ。


「解放」は、ただ開け放って消費するだけの「開放」ではなかったか。


「アタシ、女性誌というのも大嫌いなのよ。女の味方の振りをしながら、バリバリの男尊女卑を垂れ流していて、ものすごく傲慢。この間、友人と一緒に受けたアラサーの恋愛相談の仮タイトルって、何だったと思う? 真面目に答えたんだけど、『愉快な女装たち』ってくくられて。ふざけるな、ってことよ。そう、アタシたちへの注目って、消費の一環なのよ。でも、それで結構。だって、消費されなければ、アタシみたいな存在は食べていけないもの。」(p55)

「救って」いるようで、実はそれは消費しているだけである、そんな「強者」への強烈な批判と諦めが、ここにきれいに現れている。消費されることでしか食べていけない人間にとって、道化を演じるのは生きる術だ。90年代のゲイが、結局は「消費されるもの」にしかなれなかったという挫折が、マツコのそうした発言を引き出しているんだと思う。


「ワンセットであるべき責任への言及がなかった」と反省するのが彼の潔さだとも思うが、やはり90年代に行われたのはマスコミによる「解放」ではなくて、消費のための「開放」だったと思うのである。





として、そろそろ落ち着いてきた「ボーイズラブ」を巡る特集や言説を見ると、腐女子と呼ばれる人たちは実に上手く、マスコミの「解放戦線」から逃れたように思う。


注目されること、消費されることの快感に安易に踊らされず、むしろ頑なに口を閉ざすように「私はこれが好きなだけなんで…」と舞い上がらない(一部舞い上がった人はいるようだが)。
そもそも腐女子の定義が曖昧だったこともあって、マスコミも結局誰を「解放」していいやら分からなかったのが正直なところだろう。


「解放/開放」という二重のメガネで様々なものを見てきたマスコミは、「生き方の解放/開放」から「趣味の解放/開放」へと向かっているように思えるが、これはまた別の機会に考えたい。





そしてもし、この先に雑誌やテレビ、その他メディアが行うべき「かいほう」は、僕はなんとなく「介抱」になるんじゃないの、と思う。


解放ほど大げさでなく、開放ほど無責任でもない、
かつ、決して馴れ合いの礼賛でもない本気のヘルパー、介抱、
そんな役割を担うべきなんじゃなかろうか。


そんなダジャレ的なオチでも、
後悔しない!




おおはし