フロイト『文化への不満』


純粋恋愛批判――「不倫が文化なら、純粋恋愛は・・・。」


先日、某有名ポータルサイトのニューストピックでスゴい話を見ました。なにやらあの武田鉄矢が週刊誌かなにかの自身の連載の中で、芸能界における禁忌に破ってしまったということです。
かつての金八先生の生徒の一人であり、いまやスパースターのKAT-TUNの亀梨くんが、恋人の小泉今日子とふたりで自分のところに身の上相談に来たというのです。これだけでもそこそこタブーに触れてしまっているような気もしますが、もっとすごい、あるいはひどいことに、先生は亀梨くんが語った内容――自分に役者の才能がないことは自分自身よくわかっている。30までには芸能界を引退したい。キョンキョンとの結婚を真剣に考えている。――までも明らかにしてしまいました。
それにしても武田鉄矢はなぜここまで書いてしまったのでしょうか。もしかしたら、先頃放送を終えたドラマ金八先生とともに、一瞬燃え上がった自身の存在の炎がまた小さくなっていることに危機感を覚えたのかもしれません。たしかに、こんなことを書いたら炎上するに決まっています。でもそんなこともないでしょう。彼はもう十分世間に自分の存在を認められています。
さて、この出来事は私たちになにを語っているのでしょうか。私たちはなにを聞き取るべきでしょう。もちろん亀梨くんの苦悩と希望、金八先生のスゴさとかも聞こえてきます。ただ私がここで問題にしたいのは、一体なにを聞き取る「べき」なのかということです。
この出来事から私たちが引き出すべきテーゼは次のようなものではないでしょうか。


「先生は生徒に対して残酷になれる。しかも、生徒への愛ゆえに先生はそうできる。たとえそれが許されないことだとしても。」


前置きが長くなってしまいましたが、私がここで試みようと思うのは純粋恋愛批判です。はじめに言っておきますが、私は対象をただ単に批判するわけではありません。女性において偏って使用される言葉に、「生理的に無理」というものがありますが、そういうことではありません。私は純粋恋愛にたいして批判的検討を試みたいのです。その結果として純粋恋愛の完全無欠な絶対性に出会うのかもしれません。たとえそうであったとしても、その絶対性の証明こそが批判によって弁証法的におこなわれたことになるわけですから、ある意味では純粋恋愛の揚棄を唱えたことにもなります。


さて私たちの歩みはまず、純粋恋愛にまつわるある困難さからはじまります。
といってもその前に、これから検討する対象をある程度概念的にまとめおく必要があります。私たちは純粋恋愛をいかなるものだと考えればよいでしょうか。おそらくそれは、もしそういうものがあるとすれば不純恋愛と相反する概念だと思われます。もちろん恋愛という意味では一つの前提を共有しているわけでして、当然ながらここでは純粋と不純がたがいに排他的な関係にあるわけです。恋愛において純粋なものと、不純なものとはそれぞれなんでしょうか。ここで「倫」という言葉を導入してみましょう。「人として守るべきみち」といった意味の言葉です。殊に恋愛の場面においては、純粋と倫は非常に近い意味で使われます。つまり、不純恋愛というものがあるとすればそれは不倫であり、純粋恋愛はそうでないものだと考えられるのではないでしょうか。言ってみれば、「人として守るべきみち」に適った恋愛です。ただここで気をつけなければならないのは、純粋恋愛は純愛とは違うということです。純愛はしばしばみちならね恋です。


純粋恋愛にまつわるある困難さに戻りましょう。
世の中には純粋恋愛者と呼べるような人々が存在します。こう言うと純粋恋愛者は少ないような気がしますが、たいていの人はそうではないでしょうか。
「人として守るべきみち」に従う正しい人間であるにも関わらず、純粋恋愛者にも困難が降りかかることがあります。私たち正しい男性純粋恋愛主義者が、好きな女性と仲良くしたいと思っても、相手の女性から「自分でもよくわからないけど無理」とか、さきほども触れた「生理的に無理」とか言われてしまうことがあるのです。性格とか容姿とかそういうことが理由で断られるならば私たちもなんとか納得することもできるかもしれません。あるいは、そこを改善して再チャレンジすることだってできます。でも「生理的に無理」みたいに断られるなんて、なんだか理不尽でたまりません。一体どうしていいのやらという感じです。


この場合、私たちが途方に暮れてしまうのはどうしてでしょう。それはこれらの「理由」が、理由っぽいけど理由にはなっていないからではないでしょうか。
「生理的に無理」において現れる問題は厄介なものです(「生理的に無理」は理由にならない理由の代表として考えていいでしょう)。というのも、「生理的に無理」と言う主体自身が、いかなる意味において無理なのかよくわかっていないからです。「なんだかわからないけど無理」をなんとなく理由づけするために選ばれたのが、たまたま「生理的」だったのではないでしょうか。「生理的」という言葉からはたしかに、何処其処がということはわからないがとりあえず何処かがというニュアンスが感じられます。
たとえばいまみたいに書いていると、「だから『生理的に無理』なんだよ。」と言われてしまうかもしれません。そこで私が「生理的に無理」てどういうことだよと問い詰めたとします。そしたらまた、「そういうのが『生理的に無理』」とか言い返されそうです。どこまでも同じやり取りが続いていくのであって理由にはなっていません。


一体なにがどのように「生理的に無理」なのか。そう言っている本人でさえもよくわからないとなると、「生理的に無理」を感じる主体は一体誰なんだと考えたくなります。言ってみればそれは他者でありながらも自分である誰かです。そしてそれこそがフロイトのいう無意識であり、ラカンに言うところの<他者>(大文字の他者)ではないでしょうか。
さらにここで考えてみたいのは、「生理的に無理」な対象は実は偏って存在しているのではないかということです。本当に「生理的に無理」とか「なんだかわからないけど無理」ということならば、どんな男性だって均等にそういわれるはずです。ですが実際にはそういわれる対象はいわゆるキモい男です。
「生理的に無理」といった理由になっていない理由を言う場合、女性自身も本当はなんとなく、あるいは明確に理由をわかっているのではないでしょうか。ただ問題なのは、その理由を口にすることが禁じられているからです。あなたが身体障害者だからあなたとは付き合えないとか、たとえそうだとしてもそんな理由は口にしてはいけません。こういうときは「生理的に無理」な対象の方が自ら気を使ってそういう事態をさけなければなりません。
明確にそのもの自体については誰も教えてくれませんが、私たちはまわりの大人の言葉の端々からそういうことを学ばなければいけません。そして、それこそがまさに文化というものではないではないでしょうか。ジジェクによれば、「文化の基本的規則のひとつは、いつ、いかにして、知らない(気づかない)ふりをし、起きたことがあたかも起きなかったかのように行動し続けるべきなのかを知ること」(『ラカンはこう読め!』)だというのです。さらに彼は日本語版のために書かれた序文の中で、強力な「世間」を持った日本人こそが<他者>の国民であると言っています。空気を読み合う日本こそが、たとえばフランスよりもよっぽど文化立国だということでしょうか。ただプライドの高いフランス人のために、でしゃばらないで空気を読んでいるということでしょうか。


私たちは純粋恋愛者の困難について考えているのでした。こう考えてみると、その困難はまさに文化にこそ根ざしているのだと考えられます。
私が言いたいことは次のようなことです。どうして私たちは、純粋恋愛者どうしであっても簡単に引っ付いたり離れたりすることができないのか。カントによれば「婚姻とは、性を異にする二人の人物の、それぞれの性的特性を生涯にわたって互いに所有し合うための結合」(『道徳の形而上学』)です。恋愛と結婚の違いが「生涯にわたって」というところにあるならば、恋愛においてはもっと簡単にたがいの性的特質を所有し合ったりやめたりすればいいではないか。市場の流動化とともに恋愛市場も流動化して、最終的には「神の見えざる手」のはからいによってもっとも正しい配分が果たされてもいいはずです。正しい配分の結果が恋愛格差社会であるということならば、それこそ「万国のフラレタリアートよ、団結せよ!!」ということになっても仕方ないかもしれません。
とにかく私たち人間の恋愛は、簡単に需要と供給が一致するようなものではないということです。あるいはこういうことかもしれません。誰もが自分自身、本当は相手が異性ならば誰だって構わないのだわかっている。ただ私たちの無意識が、<他者>が、文化がそれを許さない。


「不倫は文化だ」という某有名恋愛上級者の言葉ありますが、それはどういう意味で文化なのか。おそらくその場合、<他者>に反抗するという意味でそうなのでしょう。文化はそれに反するものと従うもの両方を包摂することで成り立ているのではないでしょうか。
たとえば大学という文化の空間を考えてみましょう。資本主義の繁栄のために研究に邁進する人がいれば、研究室のドアにイタリア共産党創設者の一人グラムシのポスターを顕彰している人もいます。この二人が仲良く並んで用を足せる場、それが文化的な場というものではないでしょうか。
不倫が文化なら、純粋恋愛も文化です。私たちは、自分が恋人や結婚相手のことをもうそんなに愛していないことをわかっていたとしても、それでも相手を愛しているふりをしなければならないのです。そしてそれこそが恋愛という文化ではないでしょうか。


結局のところ、私は本稿においても保守的な意味での文化的なおこないしかできませんでした。


湯川