文化の両義性――前衛的アーティストはモテるのか


以前イマダさんが連絡してくれましたが、わたくし湯川も連載(不定期ですが)をするということなので、今回一回目を書かせてもらいます。どうぞよろしくお願いします。


先日、今年のはじめに読書会で扱ったフロイト『文化への不満』の議事録を遅ればせながら投稿させてもらいました。「議事録」は扱ったテキストに関連してなにか書くということでやっていますが、そこで私は恋愛という文化における私たちの不満について考えてみました。そしてそこで問題になっていたのは、文化の両義性という性質でした。


ある種の恋愛は文化によって禁止されている。このあいだの話から一例を出すと、女性は、「生理的に無理」な男性とは仲良くすることができないのです。「生理的に無理」という一見したところ非常に個人的な領域に基づいているのようにみえる言葉が、実際のところ、文化という間主体的な領域から発せられるのではないか。「生理的に無理」の内実は、イケメンやキモメンの規範とその価値関係というきわめて文化的なものではないだろうか。私はそう考えてみました。
ここにおいては、文化は一つのなめらかな秩序のもとに主体を縛りつけているように思われます。イケメンはもうとにかく「よい」のであり、その後に数多くの「ふつう」の男性が存在していて、最後のキモメンはただ全くもって「よくない」、というような様態として。


しかしながら本当にそうでしょうか。市場主義の現代において、ケインズの有名な言葉――「市場は美人(イケメン)投票である」――はそのように解釈すればよいのでしょうか。そんなずはありません。もし本当にそうだとしたら、キモメンは自らが世界に存在していることの辛さで押しつぶされてしまうでしょう。キモメンはこの世界から「自主的に」抹殺されるはずです。*1どうしてそれでもキモメンが生きていられるかというと、文化はある面ではキモメンにやさしいからではないでしょうか。
そのような面を見るのは意外に簡単です。というよりも、むしろこちらの面の方がふつうに使われる意味での文化かもしれません。「文化の中の文化」とでも言えるようなものがそれです。大学における文化とは多くの場合この文化をさしているでしょう。
萌え論者の本田透に『喪男の哲学史』という著書がありますが、彼はその中でいわば「文化の中の文化」史を取り扱っています。哲学という「これぞまさしく文化」というものの歴史が、いかにしてモテない男たちによって形作られてきたかを示そうとした野心的な著書です。さきほど出した例のように、文化によって恋愛を禁止されているというある意味文化的でない人間こそが「万学の女王」たる哲学という文化を担ってきた。
ここからわかるように、文化は文化的でないものをこそ文化的であるとする側面があるのではないでしょうか。芸術の領野における前衛はまさに文化を破壊することによってこそ文化を創造しようとします。そして、ここにおいてこそさきほどのケインズの言葉を真に解釈することができます――「(たしかに、)市場は美人(イケメン)投票である。(がしかし、美人(イケメン)になるには従来のそれを否定しなければならない。)」。これこそが彼が「修正」資本主義者たる所以ではないでしょうか――「神の見えざる手」なんて、見えないだけでなく、うまく動かない。


ここまで見てきたように、文化の両義性とは「文化でないものが文化である」という状況です。しかしながらここで次のように言われてしまいそうです――「この言明はそれ自身矛盾しており、単なるレトリックにすぎない。どうしてこのような状況を記述できるかというと、ここで言う二つの文化は単に同一ではないからである。」。
たしかにそのような気もします、恋愛と哲学は存在する領野が異なるのだと。また、この反論に則ってみると文化は一つではないことになります。時代や地域、さらにその内部におけるさまざまな社会的状況によって人々の文化は異なっている。それぞれの文化はそれぞれ素晴らしいのであり、その間に優劣の関係は存在しない。これこそは現代において「政治的に正しい」文化相対主義というものです。
でもよく考えてみると、この反論自体が矛盾しているのではないでしょうか。そもそも本田透の主張の前提は、モテないことと哲学とに関係性があるということです。だからこそ恋愛と哲学をならべることに意味があるわけであって、それによってこそ恋愛と哲学とは対照的で反比例的な関係性があると言えるわけです。繰り返しますが、恋愛と哲学は相対的な関係ではなく、一つの文化にあるからこそ本田透の主張に意味があるのです。主張の結果を、その主張が前提とするものを否定することによって肯定する、というのは本末転倒というものではないでしょうか。
ややこしくなってしまいましたが、要するに「では、前衛的と言われるアーティストが女性にモテることをどう説明できるのか」ということです。ここでまた、「『前衛的アーティスト』なんてモテない」という反論が出ないでしょうか。それはなんだかうれしい反論です。


今日は文化は両義的であるということについて考えてみました。先日私が主張したことを繰り返しただけのように思われる方がいらっしゃるかもしれないですが、その点についてはお許しください。


最後にもう一つだけで今日は終わりにしたいと思いますがこれは重要なことです。それは、どうして私はふつうに言われるよう文化(先述したところの「文化の中の文化」)をまずはじめに取り上げないのか、ということです。これには意味があるわけでして、それは私における文化の中心的問題に関係してくるからです。恋愛やテレビというような、日常的で、普段私たちがなんとなく「やっている」事柄を、どうしてはじめに挙げるか。それは次のような考えから来ています――文化とは無意識であり、無意識はたとえ意識されずとも、実際に動き、喋る。



湯川

*1:おそらくそれでも新たなキモメンが出現するでしょう。これが文化の恐ろしいところです。文化は私たちを名付け、それによって私たちを支配しようとします。でもどうして文化は名付けなければならないのでしょうか。つまり、言葉を使わなければならないのでしょうか。私たち人間は物理的に支配することができます、文字通りひもで縛るとか。