moso magazine Issue19――今週の「TBS」




前号Issue18――今週の「テレビ」が予想外の盛り上がりをみせたので、今回はTBSネタ続編。前回は昨今のTBSの「ダメさ」「古さ」について論じた。今回は「煽り映像」という観点からそれに迫ってみたい。書いているうちに長編ものになってしまったので、心して読んでください。


知らない人のために説明すると、「煽り映像」とは格闘技中継の試合開始前の選手の紹介VTRだ。
例えばこんなやつ。



こういう類の映像は以前からあったのだが、特に2000年代に入って総合格闘技団体のPRIDEの人気が出始めたあたりから、煽り映像自体への思い入れを持つファンも現れ始めた。


テレビでも放映される映像ではあるのだが、これは実際に試合が今から行われる当の会場でも流されている。ファンはこの映像を見ることで、今から相まみえる両雄の関係や因縁、遺恨など、ここまでの両者の間に横たわる「物語」を脳内にインプットすることで試合へのモチベーションを高めていくのだ*1
さて、そのとき今から闘おうとしている当の選手達はどうしているかというと、この熱気のほとばしる映像なんか目もくれず(というか見えない)、入場ゲート裏でいたって静かに試合へのモチベーションを高めているのだ。
だからこの煽り映像が煽るのは、選手の闘争心ではなくファンのテンションなのである。


僕も年に一度か二度は格闘技を生で観戦するのだが、会場の大画面で立木文彦のナレーション込みの煽り映像を見れば*2、たしかに試合観戦に対するモチベーションがあがる。こっちは観るだけなのだが、あがる
そんなわけで、コアな格闘技ファンは選手や技について単に詳しいだけでは不十分。いつの間にか煽り映像も詳しくなければならなくなったのだ。


そんな煽り映像にも優れた煽り映像とダメな煽り映像が存在する。
そもそも煽り映像がそれ自体をひとつのコンテンツとして取りざたされ始めたのはフジテレビの格闘技中継、さらにその中でもPRIDEの台頭によるところが大きい。
このPRIDEの煽り映像を手がけていたのが当時フジテレビのスタッフであった佐藤大輔だ。


佐藤の手がける煽り映像は、まず物語性とそのバリエーションの多さで形容できるだろう。
「世紀の一戦」を前にしての、「THE 煽り」ともいえる作品がこちら。



また、コアなファンに対する心憎いメッセージも見逃せない。
例えばこれ、



この映像の序盤1分あたりに挟まれる立木の「和食のハイブリッド!」というナレーション。この「ハイブリッド」とは、近藤有己の所属する「パンクラス」が旗揚げ当初に掲げていたスローガン「ハイブリッド・レスリング」を考慮に入れた表現だ。はっきり言って、格闘技ファンでなければ誰も気づかないような情報だが、そのように格闘技の歴史性を押さえた上で制作された煽りは、ファンからの支持を受ける。


しかし、真剣勝負の格闘技だからといって、笑いも忘れてはいない。



このようにバリエーション豊かな演出によって生み出される佐藤の煽り映像は、ファンの間では神格化されている。


それに対して、ダメな煽り映像というのもある。いや、ダメというかどうでもいい煽り映像といえばいいだろうか。そのダメな煽り映像の代表格*3が、我らがTBSの格闘技中継だ。


TBSの格闘技、とくにK-1MAXHERO’S の煽り映像には、なんと3パターンの構造しか存在しないのだ。
これは驚くべきことではないだろうか。今から戦う選手のプロフィールから、その一戦の意味、重要性まですべてを伝える役割を担う煽り映像が、たった3パターンで構成されているのだ。そこにはロシア・フォルマリズムによって、地球上のすべての物語は数十種類のパターンの組み合わせでしかない、と明かされたときに似た驚きが存在する。


そんなTBSの煽り映像の3パターンを司る三大原則。
それは「家族」「貧乏」「戦争」である。どういうことか。僕はぜひともTBSの煽り映像も見てもらいたいのだが、あいにくYou TubeにはK-1MAXHERO’Sも、煽り映像がUPされていない(それはおそらく誰も好き好んで見たくないからだろう)。
だから文章で解説してみよう。


導入部は、選手の基本的なプロフィールの紹介から始まる。
例えば、得意技は何々で、過去にどんな選手とやって勝ってきたか、どんなタイトルを獲得してきたかなど。これは、フジの煽り映像と寸分違わない。フジの場合は多少変則的になることもあるが。


しかし、TBSはここからが違う。
一段落してナレーション。

「彼には戦わなければならない理由があった!!」
この次にくるその「理由」こそが、TBSの煽り三原則「家族」「貧乏」「戦争(内戦)」なのである。


例えば「戦うフリーター」こと所英男の煽り映像は、彼が寝技に長けた選手であるということが過去の試合映像に沿って紹介される、


ナレーター「彼には戦わなければならない理由があった!!」


彼は食うや食わずのフリーター(ビルの清掃員のバイト)と格闘家の二束のわらじを履いていた!という、実は格闘技とは何ら関わりのない情報がすかさず紹介される。これは三原則でいうところの「貧乏」のパターン。彼は生きていくために格闘技してるんです、という演出なんですね。彼はハングリーなんですと。


次は04、06年のMAX王者のプアカーオ・ポー・プラムックの定番のあおり映像。
まず「絶対王者」と謳われる彼の強さと戦績が紹介され、すかさず!!


ナレーター「彼には戦わなければならない理由があった!!」


彼には、まだ学生の妹さんがいるんですね。母国タイの決して裕福ではない家庭に生まれた彼女を進学させるために、プアカーオは戦っているんです(うるうる)。これは先の三原則でいうところの「家族」だ。でも格闘技とは全然関係ないですね。


それらはすべてウソではないのだろうが、毎回それを見せられているファンからすれば「もういいよ」と言いたくなるのである。もうお腹いっぱい。
僕の記憶が確かならば、もう彼が戦った3試合以上の煽り映像がこの「プアカーオの妹ネタ」なのである。これでは最初に観たときに感動しファンもさすがに、その涙腺は乾いたままだろう。煽り映像だけれども、ぜんぜん煽られないのだ。


図式化するとTBSの煽り映像は

A(選手のプロフィール)

ナレーション
「彼には戦わなければならない理由があった!!」

B(戦う理由)
「家族」 「貧乏」 「戦争(内戦)」

という具合に、なんともお手軽に片付いてしまうのだ。


しかしこの熱いナレーションで一気に場面展開を図る手法に、僕たちはデ・ジャブの感覚に襲われないだろうか。物事にはなんでもルーツがある。そしてこのTBSの煽り映像にもルーツが存在するのだ。僕はそれを見つけた。
それはかの「ガチンコ!」の名(迷)コーナー、「ガチンコ!ファイトクラブ」だったのだ。



ガチンコ!」は、かつて一世を風靡した構成作家おちまさとが手がけていた番組であるが、その中の「ファイトクラブ」のコーナーのその「コントとも見紛うドキュメンタリー」とも表現できるあの手法に僕たち視聴者はあっけにとられていた。あの「コントドキュメンタリー」に濃厚な味付けをしていたのが、時折挟み込まれる「しかし この後信じられない結末が!!」というテロップとナレーションだったのである。
そして、その強引なテロップとナレーションによる場面展開の正当な継承者こそが、TBSの格闘技番組の煽り映像だったのだ*4


なぜTBSの煽り映像はこうまで三原則に固執しているかというと、彼らが意図的にお茶の間向けに発信しているからである。彼らが作る煽り映像の三原則「家族」「貧乏」「戦争(内戦)」は、「人情もの」の原則でもある。お涙頂戴ものなのである。そしてTBSの煽り映像がお涙頂戴ものになってしまうのは、TBSのターゲット層がお涙頂戴ものを好むとされている「お茶の間」だからである。
ふ〜、やっと前回の話まで戻ってきた。


TBSはお茶の間に向けて発信している。

しかし、TBSがお茶の間(マス向け)に発信しているというのは、前回のIssue18で僕が「TBSは想定する視聴者層があからさま過ぎる」と論じたことと矛盾していないだろうか。一見すると矛盾しているようにも見えるが、実はそうではない。
現代の「お茶の間」というのは不特定多数の階層・階級関わりなく存在する視聴者という意味では、もはやない。お茶の間とは、前回コメント欄で僕が作った造語「メタ(ネタ)テレビ批評」の視覚を持ち得ない視聴者の別名であり、いわば「ベタなテレビ視聴者」なのである。わかりやすくいえば、「わかっていない視聴者」だ。つまり、TBS自体はマス向けに発信しているとしても、お茶の間とは実は立派なひとつの視聴者「層」のことなのである。


そしてTBSは、その「お茶の間」という視聴者層をさらに細分化させる。それが前回論じた「噂の!東京マガジン」や「アラフォー」に想定される「視聴者層」だったのである。彼らがターゲットとするの「(ベタな)中年視聴者」であり、「(ベタな)負け犬視聴者」のことなのである。


この「お茶の間」という言葉はすでに死語に近くなっているが、そんな死語同然の言葉を明石家さんまが今でも使っているというのは、ある意味象徴的なことなのかもしれない。


明石家さんま千原ジュニアとのテレビでの対談(たしか明石家さんちゃんねる)で、彼が戦略的にお茶の間(=わかっていない視聴者)に訴えかける戦略をとってきたことを明かす。大まかに言えば、質より量をとったのだ。彼はその対談の中で自分を速球派の投手、松本人志千原ジュニアをシンカーを投げる投手に例える。速球派の投手は、華やかで野球をよく知らない素人のファンも一気にのめりこませることができる。それに対して技巧派のシンカーを投げる投手は、玄人目で見ればすごい技術を持っていたとしても、なかなか一般人にはそのすごさを理解してもらえない。
さんまは「あえて」速球派を選び、一世を風靡した。


しかしそれは、彼がお笑い芸人として売れたのが「メタテレビ批評」の成立以前だったからだろう。さんま、紳助以降のお笑い芸人は少なくとも、僕が論じる意味における「お茶の間」をターゲットにすることはあまりにも得策ではない。


なぜなら80年代に彼もその一躍を担う「おれたちひょうきん族」のヒットを皮切りに、お茶の間は「消滅」していったからである(ひょうきん族がフジテレビで生まれたということも象徴的だ)。彼らが楽屋オチや内輪ネタが笑いとして成立させて以降、テレビは外輪にわかる話を作っていくのではなく、内輪を広げていく傾向になったのではないか。そしてそれは、最終的にはテレビの内も外もみんな内輪にするという戦略ではなかったのではないだろうか。つまり、テレビを観る人をみんな「事情通」にすることで、戦いのフィールドをすべてホームにする戦略だったのである。


そうなると、テレビを完全に外から見る視聴者(ベタテレビ視聴者)は存在しないか、限りなく少なくなってくる。殊に、若い世代にはそんな視聴者はほとんど「絶滅」したといっていいのではないだろうか*5


もはやテレビの向こうには、TBSの想定する「お茶の間」は存在しないのである。




イマダ

*1:ちなみに、会場まで来るようなコアファンは映像に教えられなくても、とっくの昔にその物語を知っている。そのようなファンにとって煽り映像とは、選手紹介などではもはやなく、純粋にテンションを高めるドーパミンの役割を果たす

*2:アニメファンにとっては碇ゲンドウで有名な立木文彦の声も、格闘ファンにとってはPRIDEの煽り映像で有名だ。

*3:他にも、ダメとまでは言えないもののあきらかに時代錯誤で「渋い」煽り映像を放映するテレビ東京のボクシング中継がある。

*4:ただ、断っておかなければならないのは、この手法はその後にバラエティー番組を作るうえで必須の手法になっていったということ。ナレーションベースで盛り上がりに欠ける部分をはしょったり、つぎの展開を明確にする布石を打つ役割として、ガチンコ的編集術は今も生き続けている。たとえば「ぷっすま!」では薙スケのどちらもがMCの役ではない。大熊アナがMCであるとも考えれるが、あの番組の影のMCは紛れもなくテロップとナレーションなのである。

*5:この辺はまた「すべり笑い」を通して、書いてみたい