moso magazine――Issue21



「僕の好きなもの」を超えていく

  
今週の「涙よ止まれ、今夜だけは」の松下くんの記事を読んで、何かコメントしようと思ったんですが、書いているうちに長大になり、もったいないなと思ったので記事にしました。またこの記事を読む前に、ほかのIssueでも「好きなもの」について若干触れている記事があるので参考までに。


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僕だけでしょうか、「好きなもの」について素朴にしゃべる、あるいは書き連ねる人のその身振りが聞くに堪えない、読むに耐えないのは・・・。
自分の好きなものを語る人の、その語りがなぜ聞くに耐えなくないのか。その人は心底その作品や作家にほれ込んでいるのに。


人間誰しも、自分が「これいい!」と思ったもの―すなわち「好きなもの」―を、人に伝えたくなる欲求をもっていると思います。


『エンジェル伝説』というマンガの中で、主人公の北野君がクラスメートの小磯良子との下校途中に晴れた空を見上げる一コマがあります。そのとき北野君が良子に、「天気がいいね」とつぶやく。すると彼女も「そうだね」と微笑みながら返す。それを聞いた北野君がすごくうれしそうに笑うのです。不思議に思った彼女がどうしたのか聞くと

「天気がいいなぁと思って、隣の友達に天気がいいねって伝えると、その人も同じように天気がいいって感じてくれていてそうだねって返してくれるっていうことが、すごく幸せだなぁと思って」(大意)


月並みな表現だとは思うんですが、これって何か僕にはよくわかるんです。おもしろい映画を観ても、うまいラーメン屋を見つけても、それら「好きなもの」になったものを自分の感覚、あるいは記憶の中に取り込んでおくだけでなく、だれか他の人に伝えたくなる。そのような欲求は、社会的な動物とされる人間のもつある種の「性」のようなもので、どうしようもないと思います。(中には自分ひとりでとっておくという人もいるでしょうけれども)。


それは「ある個別の対象を前にした個人の快の感情の表明であり、しかも同時に普遍的な同意を求めるがゆえに、特異なものである」(ジャン・ラコスト著『芸術哲学入門』48P)とされる美学的な意味における趣味(=taste)と同義なのかもしれません。


しかし、今週の記事で松下君はこの「好きなもの」を人に伝えることに内在する危険性を見て取ります。

「好き」なものを「好き」だと主張することは、必ず危険が伴う。おそらく、「好き」だと主張することで、一定の同意を求めることはできるだろう。しかし、その主張に同意しかねるひとは、広く見渡せばもっとたくさん出てくるはずだ。それどころか、同意しなねるひとは、そもそもその主張に耳を傾けたりしない。耳を傾ければ、今回のように不快感を覚えるであろうし、ましてや主張に異を唱えれば、深い対立を生み、お互い理解はさらに遠のく結果になる。


もともと「好き」と感じたことは快感であり幸福な体験であったはずなのに、それを人に伝えることには「好きなものがわかりあえない」という、少し大げさに言えば不幸が付きまとってしまう。冒頭で書いた僕の「読むに耐えない」のはその不幸のひとつだと思います。どうしてこんなことが起きるのでしょうか。


僕の趣味のひとつに「アマゾンレビュー観察」というのがあります。つまり商品を買うという目的なしに、レビューだけを読むんですね。それを趣味にしているのは、もちろん秀逸なレビューと出会いたいという理由もありますが、主眼にあるのは、あまりにひどいレビューを見つけるということです。少々、陰湿な趣味ではありますが。


僕が「読むに耐えない」というときに指すのは、主にこのアマゾンに掲載されている凡庸でひどいレビューのことです。それらは作品とは何ら関係ないことを書いているということや、作家に対する誹謗中傷をしているということでもないのです。具体的に引用するのはやめておきますが、おそらくその書き手の人たちはその作家、歌手、監督のファンなのでしょう。その作品への思い入れが一入なのがわかります。


しかし、それにしても書いている内容は凡庸なのです。読むに耐えないのです。
それらの文章には「おもしろかった!」「気持ちよかった!」「美味しかった!」という感想がちりばめられているだけで、文章上でいくら書き手がそのように「!」マークを連ねて書き綴っても、そのもの自体のよさはいっこうに僕ら読み手には伝わってこないのです。


なぜこれら「好きなもの語り」は、読むに耐えないのでしょうか。なぜそれでは「好きなもの」のよさが伝わらないのか。それはおそらく「好きなもの語り」をする人は、その作品について伝えているのではなく、伝えているのがそれを「好きなもの」と感じたときの自分のことだからではないでしょうか。つまり、「好きなもの語り」とは即ち、「自分語り」でもあるのです。以前にmoso magazineの中で僕自身が自分の「好きなもの」について語ることが恥ずかしくて苦手だ、ということを書きました。そのときは、「好きなものは自分にとっての性感帯のようなもので、そんなことを人に語ることは恥ずかしくてできない」というような結論を書きました。「好きなもの語り」という名の「自分語り」はある意味、自分のデリケートゾーンを語ることになるんですから、性感帯といってもいいのかもしれません。


岡田斗司夫は新刊『オタクはすでに死んでいる』の中で、僕が常日頃から持つ「嫌ヲタ」的な感情の由来を説明してくれます。岡田は本書で、昨今のオタクの定義が「萌え」一元論に集約されているということを指摘します。


元来オタクとは、ある分野(アニメ、SF、ミリタリー・・・)に突出した「知識人」という側面がありました。そのたくましい知識欲によって、オタクとは定義されていたのです。しかし、近年のオタクは自分がいかにも萌えられるか。それにしか興味がなくなったというのです。


いつしかオタクの定義が(無駄に幅広い)知識量から、萌え(=快)へとシフトした。そして、萌えることが「できる」というのが、オタクとしてのアイデンティティーとして、(表面上は蔑称ではあれども)いつしかポジティブな属性へと変換してしまったのです。
僕が前から思うオタクに対する「いらだち」は、彼らに批評眼がないのではないかという疑念に由来しました。つまり、萌えられるアニメであれば、彼らはなんでも受け入れてしまうのでないかと。


もちろん、彼らも個別の作品の優劣は判断できるしょう。しかし、それは彼ら個別の「論理」においてではないでしょうか。つまり、その優劣の審級となるのはずばり、彼ら自身がその作品を見て快なのか不快なのかどうか、その作品で萌えれるのか萌えられないのかどうかに集約されるのではないか。
だからこそ、彼らの「好きなもの語り」が、その文脈の裏に「俺ってこんなアニメ絵に興奮できるんだぜ〜」という優越感を伴う醜い「自分語り」になっているのではないかと僕は推測します。


あえて暴力的にいいましょう。そのように自分の感覚を投影しているだけの「好きなもの語り」は、AVのレビューと相違ないのです。AVというものは、端的に言えば映像を見て快を得ることができるかできないか、もっと言えば「勃つか勃たたないか」だけが問題です。読み手から必要とされる情報は「気持ちよかったか否か」だけであって、AVを論じるのに批評の術は必要とされないのです。
どんな高尚な映画、音楽をその人が見たとしても、彼の書くのが「好きなもの語り」のレビューであるならば、AVを見た人のそれとなんら変わらないではないか、と僕は思うのです。


重要なのは、「好きなもの」に対する感情をいかにしてアウトプットするか、ということではないでしょうか。
僕が感じるのは、「好きなもの語り」と「批評」というものはまったく別物だということです。作品が自分の「好きなもの」に成り得たとき、それと付随する「伝えたい」という欲求をかなえること。それをかなえるために僕らは批評するのではないでしょうか。
批評は前段から僕が論じている凡庸なレビュー(=「好きなもの語り」)とは違います。
批評は「好きなもの語り」とはことなり、ずっと複雑な作業を擁する。自分が感銘を受けたもの(好きなもの)から、その感情をクールに取り去り、できるだけ純度の高い客観的な視点でもう一度対象を観てみる。そのように自分の感覚という末端から、帰納法的に対象の特性に遡っていき作品に隠されているものを発見していく作業が批評であると、僕は解釈しています。
そこでは、もちろん自分に都合のいいことばかりが発見できるとは限りません。中には批評することのそもそもの理由となった「好きなもの」が好きでなくなる可能性だってある。このように批評とは、苦役に満ちた営みではないでしょうか。


では、「好きなもの」について好きという感想を抱いた後に、それを「好きなもの語り」にしてしまう人と、批評を試みようとする人。二人の間に、どのような違いがあるのでしょうか。
ここで僕は前者が後者に知性的に劣っているというような横暴は考えません。
知性的であるにしろないにしろ、「好きなもの」について記述したいという気持ちは、両者ともにあるのですから。つまり僕は、「好きなもの語り」をする彼らのその気持ちは買っているのです。


(その営みが成功するにしろしないにしろ)批評に踏み出す人が、「好きなもの語り」をする人に勝っているところがあるとしたら、それは自分の感覚に対して「ひねくれている」というところではないでしょうか。裏を返せば、「好きなもの語り」をする人は自分の感覚に素直なのです。彼らは自分がいい映画、いい小説、いい作品に出会ったならば、素朴にそれらに感動した自分の感覚を支持しているのです。


それに対して、自分の感覚に「ひねくれている」人はそうはいきません。
感覚レベルでは感動してしまった作品(たとえ涙をボロボロ流していたとしても)に出会ったとしても、素直に「感動しました!」なんて書けないんです。ひねくれているから。
感動したとしても、心のどこかで「感動しちゃったじゃねぇか、ばかやろう(北野武風に)」とこぼしてしまうんです。もちろんここで言っている「ばかやろう」には、その「好きなもの」に対する愛着と、それに不覚にも感動させられてしまったことに対する「いらだち」という、愛憎入り交じった想いが込められています。
だから、「好きなもの」から、それの批評に踏み出す人はある種の「いらだち」が筆をはしらせているのではないだろうかと、僕は思います。その「好きなもの」に対する「いらだち」が(少々倒錯した心境ではありますが)、僕らを「好きなもの」を批評することに駆り立てているのではないでしょうか。


しかし、この批評の行為は、正当な答えに僕らを導いてくれるのでしょうか。
つまり批評行為を通じて僕らは、なぜ「好きなもの」を好きになったのかというその理由を知り得るのでしょうか。松下君は先の記事の中で、「好きなもの」を好きになるきっかけを「偶発的で、かつ身体的なものに」と考えます。つまり恣意的であると。
しかし、そうだとしても僕らの中ではきっと、「好きにもの」を好きになる内的なプロセスが存在するはずなのです。


例えば、なぜ僕らは他者を好きになるのでしょうか。
ラカンならそこに欲望の原因であり結果でもある対象A*1の存在を見て取るでしょう。謎は人を好きになることには限定されません。自分でも説明不可の感情の揺らぎに対面したとき、攻殻機動隊草薙素子ならば「ゴーストがささやくのよ」と説明するはず。


しかし、それらを説明しなければならない状況になったときにどうすればいいのでしょう。
自分の彼女に「どうしてあたしのことが好きになったの?」と聞かれたとき、「それはね、君が僕の対象Aなんだよ」と返しても、「俺の中のゴーストがささやくんだよ」と返しても、その子はおそらく納得してくれないでしょう。


相手が人間でなくとも、つまり「好きなもの」であってもそれは一緒なのではないでしょうか。なぜこの作品に惹かれるのか。その真相を解き明かすのは、批評行為をもってしても原理的に不可能なのではないでしょうか。
またそこから、自分の感覚の末端だけでも書きとめようとする誘惑、つまり「好きなもの語り」をしたいという欲求も生まれるのかもしれません。
しかし、批評をめざすものはこの誘惑を振り払わなければならない。


僕たちは批評のもう一つの不可能性に別の側面から突き当たります。
当たり前のことですが、僕らは「においを聞くこと」はできませんし、「メロディーを見ること」もできない。「映像を嗅ぐこと」もできないのです。そして、それら個別の感覚は言語に変換できたとしてもそれは、かりそめの姿でしかないのでしょう。(好きなものについて書くことも含まれる)批評とは、この感覚という名の無限遠点に向かう苦行のことなのかもしれません。


つまり言語とは原理的に、ものごとを批評するのには「舌足らず」ということなのではないでしょうか。
そして舌足らずな言語をもってする批評とは、根本的に正解を導き出せない。それでもあえて目指すべきものを設定するのであればそれは「よりよい誤答」だけなのではないかと僕は思います。


最後に、松下君が今週の記事を書くことになったそもそもの由来、記号学会の一件について考えてみましょう。
BL本は「好きなもの語り」としてではなく、批評の対象としての価値があるのでしょうか。


松下君が記事で対比する「唐十郎」と「BL小説」。
両者にはさまざまな違いがありますが、ここで問題にすべきそれは前者が数多の批評(肯定も否定も含めて)を浴び続けたこと。それに対して後者に対しては、まだまだ批評が始まったばかりであるということです。
批評するに値するものと値しないものがこの世にあるとして、そもそもその批評に値するかどうかということも、一度批評してみなければわかりません。
BL小説に女性のマスターベーションファンタジーという側面があると言われています。そうなると、それはAVと同じ領域に入るのでやはり、批評する価値はないのでしょうか。
しかし、付け加えなければならないのは、アカデミズムの現場ではAVも立派な研究対象になっているということです。


ここで唾棄されるべきはAVそのものではなく、自分の性的趣向を明かすような趣味の語りつまり、「好きなもの語り」です。
「好きなもの」の語りが、好きなAVの語りになっていないか。
ちゃんとした批評的な語りになっているか、それが大切なのだと僕は思うのです。


イマダ

*1:対象Aについては、湯川君が書いてくれた福原泰平『現代思想冒険者たちSelect 鏡像段階 ラカン』の議事録をご覧ください。すごくわかりやすいと思います。