「泳ぐのは僕だ」なんて言わなければ良かった。 後悔9日目



また勘違い北島康介が意味不明なTシャツを着ていたので笑ってしまった。
「泳ぐのは僕だ」? 何を言っている。泳ぐのは、水着だ。



スピード社製水着が解禁されてから、バカみたいに日本新記録が出るので笑ってしまう。水泳に詳しくない僕は、「あれ、そんな簡単に記録って出るの?」とあっけにとられた。水着問題以前に、水泳(や陸上)というタイムを競うスポーツの何が面白いのか理解に苦しむが、「世界水泳」というロゴをテレビ朝日が完成させた瞬間から、どうやら水泳はメジャーなスポーツになったようで、北京オリンピックが近づく今、話題を独り占めしている。

水着問題とは、イギリスのスポーツ用品メーカー「スピード社」の最新鋭の水着「レーザーレーサー」が開発されたことに端を発する。そのレーザーレーサーの性能があまりにも良すぎるため、日本の選手がスポンサー契約するミズノ他の会社製水着では世界大会で勝てない、という状況が発生してしまった。日本の選手たちはもちろん、早く泳げる水着が着たい、でも契約を考えると自社製のものでなければ…というジレンマに陥っているのだ。


この週末で行われた大会で、日本記録がそれはもう頻尿のごとく何度も出たこともあって、世論は「もうレーザーレーサーでいいじゃん」と傾いた。そしてそうした選択をしなければならない選手、会社、水泳業界を慈しむ気持ちからか、「泳ぐのは選手だ。」という、皮肉にも似た愛を送り始めている。



素人ながら、まず浮かぶ疑問は、「水着でそんなに劇的に早くなっていいのか?」というものだ。

レーザーレーサーを買える国の選手と、買えない国の選手では格差が出るだろう。しかしこれはまぁ、練習環境の差が既にあるので一概には言えないかもしれない。室内練習場や筋トレ機器がある国とない国ではきっと、練習の密度も変わってくるだろう。

むしろそれよりも疑問なのは、「スクリューつけちゃダメなの?」ということだ。レーザーレーサーが水の抵抗を極限まで減らしてどうたらこうたら…なら、「スクリューレーサー」という水着が開発されました、この水着は超マイクロのスクリューが泳者の運動を動力に換えて回転し…というのもOKになることになる。

え、水着ってじゃあ、そういうためにあったの?
水着って、裸じゃ泳げないから着てるんじゃなかったの?
もう裸で泳げば、裸で。となる。
「泳ぐのは僕だ」なんて言いたいなら、裸で泳げばいいじゃん。

陸上のスパイクもあんなのインチキだ。なぜ裸足で走らないのか意味が分からない。


しかししかし、世の中がそうなっている以上、意味は、あるのだ。



人々が北島康介に何を期待しているのか、それは「金メダルを取ること」だ。決して「速く泳ぐこと」ではない。一応「世界新記録を出すこと」くらいは望んでいるが、だからといって「世界記録を5秒縮めて欲しい」だとか「200mを2分切って欲しい」なんて具体的なスピードを望む人はいない。
彼に求められているのは、「一緒に泳いだメンバーの中で1番早かった」という幸運と、たまーに0.05秒くらい世界記録を更新する気まぐれ、まぐれ、幸運、だ。


舞城王太郎の小説に『SPEEDBOY』というものがある。主人公の成雄は足が速く、陸上競技で世界記録を期待される青年だった。そしてある大会で100m9秒70という世界新記録を樹立することになる。しかし、ここまでは良かったのだが、彼はまだまだ止まらなかった。9秒6、9秒5、8秒台、7秒台と新記録を出し続ける彼は、コーチからも、ライバルからも、世間からもどんどん見捨てられていき、孤独になっていくのである。同じ競技者からは「陸上競技にならない」とピストルで殺されかける始末。スポーツの土台を壊しかねないスピードは身を滅ぼす、というなんとも教訓深い話である*1



ここに、スパイクや水着が「徐々に」高性能になっていく所以がある。



北島はいつも「少しずつ速く」泳がなければならない。決して、「すごく速く」泳いではならないのだ。陸上選手だってそう。「少しずつ」、速く走れるようにならなければならない。半永久的に儲けていかなければならないスポーツ用品メーカーにとって、簡単に世界記録を5秒も10秒も縮められてしまっては、かなわないのである。
突然、アフリカかどこかから最強に足の速い選手が出てきて、100mを5秒くらいで走られてみようものなら、おそらくナイキやアシックスは倒産の危機のさらされるのではないだろうか?(そんなことはないか。)


としたとき、北島康介は、ミズノ、あるいはスピード社の水着によって泳がされている(そのままの意味で)、と言えはしないだろうか?
北島は、いわば科学の乗り物なのである。
彼は「泳ぐのは僕だ」を、「俺が主役だ」というような意味で使っているのだろうが、そうだとすると間違いだ。主役は、水着であり、科学技術なのである。そのスポンサーがなければ、彼の泳ぎは全く価値のないものになる。せいぜい漁業に役立つくらいだろう。まだ海女さんの方が役立つかもしれない。

北島に代わって先に後悔しておこう。
泳ぐのは僕だ、なんて言わなければよかった。
後悔した。


おおはし

*1:最後には海の上を走れるようになり、コンドルとも張り合えるようになり、音速を超え、挙句の果てには陸軍の特殊部隊に任命され…と孤独さを増していく成雄。しかし、そんな孤独の先に待っていたのは、同じように速く走れ過ぎるがために孤独を抱える「SPEEDBOY」たちであった。講談社BOXより発売中。