「歴史的」精神分析――フロイトとベンヤミン 2


前回途中で切り上げたにもかかわらず、それから一月あまりの時間が経ってしまいました。あらためて考えを続けるにあたって、前回の内容を簡単に振り返っておきたいと思います。


前回は夢という現象における夢見る人の「主観的」時間と、時計が示すような「客観的」時間の相違から考えはじめました。そこで私たちが得た印象というのは、夢においてはごくわずかな時間のうちに、普段の私たちの生活感覚からしたら考えられないような現象が詰め込まれているということでした。そこから私たちは夢においては時間が圧縮されているのではないかと考えたわけです。
フロイトは夢の分析に際して、私たちが考えたような圧縮という夢の作業について述べているわけですが、とくに時間という点に注目してみると同じようなことをベンヤミンは写真やその連続としての映画の分析において述べているように思われます。分析的なまなざしにおいて両者には似ている点があるように見えるということから、私たちはフロイトベンヤミンをならべてみる意味があるのではないかと考えたわけです。


前回はこのあたりまで進みました。実際にはもう少し進んだのですが、その部分は今回への予告のようなものですのでこれから考えていきましょう。


前回は私は、一つの平面の上に、時間的「点」としての一瞬ではなく「線」としての持続した時間が定着されるという写真の性質を取り上げました。その性質に関してここで注目してみたいのは、フロイトの「マジック・メモについてのノート」*1という論文です。この論文においてフロイトは、私たちの考えからすれば「写真としての無意識」といってもいいようなものについて述べています。


フロイトはここで、当時で市販されていたマジック・メモという道具から、それに類似しているものとして彼の提唱する人間の心的装置の説明を試みています。
マジック・メモと聞くと、なにやらデスノートみたいにそこに何かを記したら魔法のようなスゴいことが起こるようなものなのかという気がしないでもないですが、実際はただのメモパッドです。ただふつうのメモパッドと違うのは、メモを消すことができるために何度も同じ平面に新たにメモを記すことができる点です。ここがマジックなのです。


マジック・メモの詳しい構造についてはフロイトの論文を読んでもらうことにして、私は別の例で考えたいと思います。マジック・メモの構造とはちょっと違っているのですが、同じことをより単純に表しているように思えます――その分厳密さについては劣ることになりますが。
小学生のときなどに誰でも一度は黒板掃除の担当になったことがあるでしょう。まだ幼く、真っ直ぐな心を持った私たちは、自分の与えられた仕事をやり遂げるため一生懸命黒板をきれいにしようとします。でもいくらがんばって掃除をしても、どうしてもチョークの痕が消えなかった経験はないでしょうか。最後には濡らした布なんかで拭いたりして、そのときはすっかりきれいになったと思うのですが、黒板が乾いてみるとやっぱりチョークの痕跡は残っていたりします。そして結局のところ私たちはあきらめるわけです。こうして私たちは、消したいがどうしても消せない過去にたいする対処法まで小学校で学ぶわけです。
というわけでここで重要なのは、一見したところ消えてしまったように思われてたとしても、一度記したものは決してなくならないということです。フロイトはマジック・メモの構造においてそのようなものを見いだし、それを無意識の性質に類似したものであると説明します。つまり、意識においてはもはや見いだされず、心から完全に消えてしまったものでも無意識においてはすべて保存されているというのです。私たちの文脈からいえば、無意識は写真のように「線」としての持続した時間を保存しているのであり、さらにいえば無意識は「時間がない」*2ということにもなります。新しいものも古いものも同じように扱われるとしたら、そこにはもはや時間は存在しないということがいえるでしょう。私たちは、なんらかのものの変化によってのみ時間の経過を知ることができるのです。


私たちはまず夢から考えはじめ、それを写真や映画との類似性への導きました。しかしながら、前回の註でも記したように夢はあくまでも「無意識への王道」であって無意識そのものではありません。無意識そのものだったらそもそも夢を「見る」ことは不可能なことになってしまいます。そして今回のここまでの部分において、複製技術とならべるべきは夢ではなく無意識という概念であるということが明らかになったと思います。


ここからが本題です。タイトルに示した「歴史的」精神分析ついて考えてみましょう。ベンヤミンは『複製技術時代における芸術作品』において次のようにいっています。

人の歩き方について、大ざっぱにであれ説明することは、一応誰にでもできる。しかし足を踏み出すときの何分の一秒かにおける姿勢については、誰もまったく知らないにちがいない。(中略)このような箇所にカメラはもろもろの補助手段――カメラの角度の上げ下げ、中断と隔離、経過の引き伸ばしと圧縮、拡大と縮小――を用いて切りこんでゆく。視覚における無意識的なものは、カメラによってはじめて私に知らされる。それは衝動における無意識的なものが、精神分析によってはじめて私たちに知らされるのと同様である。*3


歩き方の細部という、私たちが実際にしているのいるのだが、自分がそれをしていることを知らないこと。そういったものがカメラという装置によってはじめた私たちに知らされるのだとベンヤミンはいうわけですが、これはそのまま無意識についての記述でもあるのです。無意識とは私たちに意識されないものとして意識されているものです。そうでなければ無意識が存在することすら明らかになっていないはずです。以前にも同じようなことを言いましたが、ここで言うならば「無意識は実際に歩く」のです。そのような無意識をカメラという装置によって定着させたものこそ写真、あるいはその連続としての映画なのです。


あらためて無意識と写真の類似性について考えてみましたが、ここでその類似性ゆえに問題になる事柄が浮上していきます。それはベンヤミンにおいては歴史というものが大きな位置を占めているということです。
ベンヤミンは19世紀後半から20世紀のはじめにかけて確立された写真や映画といった複製技術を歴史的なものとして注目しました。また、フロイトが『夢解釈』を世に送り出したのは19世紀最後の年でありまた20世紀直前の1900年ですから実際に時代的には符合しています。しかしそうなると、複製技術も精神分析もその時代に位置づけられるような歴史的産物になってしまうのでしょうか。両者は過去の産物であり、要するに「古い」ということで済まされてしまうのでしょうか。でも本当にそうなのか。このことを考えるにはフロイトベンヤミンの歴史についての考え方を見てみなければなりません。


非常に中途半端ですが、今回もこのあたりで。
結局前回の最後に戻ってしまったわけで、今回はほとんど進まなかったとも言えるかもしれませんが、次回こそは表題のテーマについて考えられると信じております。


前回書いてしまったので、今回も参考文献について。
前回のものから「写真小史」(1931)を抜いて、ベンヤミン「歴史の概念について」(「歴史哲学テーゼ」)(1940)を追加。
(自らの備忘のために)


湯川

*1:『自我論集』(ちくま学芸文庫)所収

*2:この括弧がおそらく重要になってくると思います。

*3:ベンヤミン・コレクション1』(ちくま学芸文庫)、619頁