「元」男女の友情否定主義者がDVについて考える


issue――30


「アキバのカトウくん」は、自分がモテないことにキレて、自らトラックで聖地に突っ込んだ。
「王子のスガノくん」は、「親が言うこと聞いてくれない」と憤って本屋さんの床を真っ赤に染めた。
最近立て続けにこういった通り魔殺傷事件が起きている。


しかしだからといって、あなたが見ず知らずの非モテや非正規雇用者に後ろからブスリと指されることにおびえる必要はないだろう。警察白書の統計を見ればわかるのは、人間殺されるのは見ず知らずの人によっての確立よりも、親類などの顔見知りによっての確立のほうが断然高いということ。先月もこんな事件があった。

http://mainichi.jp/area/chiba/news/20080625ddlk12040258000c.html


このおじいちゃんなんて、まず結婚しているし、子どももいるし、孫まで生まれていた。傍から見れば、それは立派な家族だ。今現在はともかくとして、このおじいちゃん、かつては(少なくとも一人には)「モテた」ということにもなる。
大胆に言えば、あなたにとって危険なのは、見ず知らずの完全なるブ男よりも、あなたの周りにいる家族なのである。通り魔を怖がって身内に安心しきっているのはいわば、「交通事故が怖くて引きこもっていたら、家のガス管が破裂して爆死する」みたいなもんだ。


ところで一家惨殺なんてのはDVの最たるものだ。そんなわけで今回は、DVについて考えようかと。
簡単に解決しているなら、DVなんて言葉自体も流行らなかったのだろう。DVという語が流行るのはそれがなかなか解決できないからでしょ。DVした後の、夫の劇的な変化―優しくなったりめそめそ泣きながら謝ってくる姿、それを見た彼女/妻は「この人は、私がいないとダメだ!」と思っちゃうらしい。いわゆる「共依存」という関係だ。個人的なことを言わせてもらうと、僕はこの共依存というものが、よくわからない。


僕自身、別にDVされたことがあるわけではない。でも想像するに、一回ぶたれたら、もうその関係は終わりではないだろうか、と思う。それは別に僕が、暴力は絶対悪だという論陣を張っているからではない。そうではなくて、生理的にもう二度と元にはもどれないのではないか、と思うわけだ。


たとえば、テレビのドッキリカメラとかで、ターゲットが仕掛け人にめちゃめちゃ恫喝されてビビらされるという類のものがある。半年ぐらい前に、香取慎吾が仕掛け人で若手の女子アナのインタビューにめちゃ不機嫌に答えるというのがあった。もちろん香取慎吾は演技として、横暴な態度で相手に怒ったりもするのだけれど。僕が女子アナならもう元に戻すのはムリね。
ネタ晴らしの後、女子アナは張り詰めていたいとが切れたみたいに号泣してたけど、僕が彼女たちの立場ならむしろ逆に、一生香取クンのこと―たとえ本当はいい人だということを頭ではわかっていても―信じれなくなるね。次また香取クンと同じ仕事になったときは、たぶんトラウマとしてドッキリのときの怖い香取クンが脳裏に残っているから、香取クンが時折見せる真顔とかで、ビクッ!!となる自信がある。


DVも、僕にとってはそれと同じだろうと思う。
やっぱり、一度自分に手を上げた人はいつかまた手を挙げると思うのが普通でしょ。たとえ手をあげないと、相手が固く誓ってくれていたとしても、こっちが元に戻れないわけで、相手が何の気なしに挙げた手にビクついたりするかもしれない。重要なのは、相手がもう二度と暴力振るわないということよりも、もう元の二人には戻れないということだと思う。
それでなくてもやっぱりさ、人間っていうのはお互いはた迷惑な存在なわけだよ。そのことについては別段で書いた。くどいけど、これね。そう、人間なんて迷惑極まりない。本当はいるだけで迷惑なんだよ。さっきの事件のおじいちゃんにしたって「邪魔」といわれたから、家族皆殺しにしちゃったんだけども、おじいちゃんはこう言い返してやればよかったんだ。「おまえだって邪魔だ」って。


だから、嫌んなったらさっさと別れよ!ということになればいいんだけども、そうはやっぱりいかないか。


DVっていうのはもちろん家族の中で起きることだけれども、家族っていうのはしかし、ある意味奇跡なのかもしれない、とかも思うことがある。
小学生の頃、僕の就寝時間は夜の9時だった。それ以降にテレビを観たりして居間で油を売っていたら、こっぴどく叱られた。だからとりあえず床につくのだけれど、9時ではまだ目がさえて布団の中でもなかなか眠れない。そんな眠れない間、無粋な小学生であった僕は、次のような想像をめぐらせていたのであった・・・。「俺がここで寝たら、完全に無防備な状態だ。台所には包丁がある。刃物でなくてもガレージにはバットもある。父ちゃんと母ちゃん、俺の寝首をかくチャンスめちゃめちゃあるじゃん!」勝手にそんな恐怖を抱いてはみるものの、いつの間にやら寝ちゃっていて、次の朝、そんなことにビビッていたことすら忘れて、暢気に毎日登校していたのである。これは確かにガキの頃の笑い話ではあるけれども、よく考えたら実は重大なことだったんじゃないかと、最近思う。
寝ている子どもなんて、簡単に殺傷できるはずだ。でもそれを僕の両親はしなかった。これって重大なことではないだろうか。

断っておくと、別に僕の親は殺人鬼でも何でもないし、僕の親なんだから殺すわけないだろという反論が返ってくるのも、当たり前なことだ。
親の視点から見ればそうかも知れないけど、では逆に僕という子どもの視点から言えば、安心してすやすや寝れる空間という意味で、家族ってすごいんだなぁと思うわけだ。


そんな家族よりもさらにすごいと思うのは、同棲だ。
僕は常日頃から「同棲する者、人にあらず」とまで思ってないまでも、軽蔑はしていた。なんせ、昭和の人間なもんで。でも、そこだけすごいなと思うのは、血のつながっていない、もしかすると数年前まで赤の他人だった人と、寝床をともにするということ。これってある意味、怖いことではないか。さっきの僕の例だと、僕は両親の子どもだった。でも、同棲するのはもともと赤の他人なわけだ。もともと全然知らない人なのだから、何しても平気と思われている可能性だって十分ある。本当は変態かも知れないし、殺人鬼かも知れない。そんな可能性があったとしても、一緒に棲んでいるということだ。


だからつまり、同棲するっていうのは「この人ならば最悪、殺されてもいいや」というあきらめを、お互いが持ち合って初めてできるということでもある。何を大げさな、といわれるかも知れないけど、極端に言えばそういうことになるわけだ。


家族だって文化だし、同棲だって文化だ。フロイトに言わせれば人間なんて煩悩の塊であって、そんな不安定な存在を文化という枠組みに当てはめてしまうこと自体が、不満の原因なのである。そういう窮屈な枠組みに当てはめられると、最初は何とか我慢できていても、何かがきっかけでたががはずれてうわっー!ってな具合に、突如何もかもぶっ壊したくなるのも、ある意味では当然あのかも知れない。さっきのおじいちゃんはそれの典型例でしょ。
それでもなお大多数の家族というものが存続し続けているっていうことは、DVとか一家惨殺を目のあたりにするにつけ、相対的にすごいことのように思えてくるわけだ。


DVはどうすっかって?忘れておりました。本題はそっちでありました。
でも今週はDVから相対的に、家族の神秘性、同棲することの神秘性に流れ着いた次第です。


次週、“元”男女の友情否定主義者がDVについて語る。



イマダ