恋の季節ってなに


――issue31


お暑うございます。僕が生ものなら、とっくの昔に腐っております。
本当にお暑うございます。


ところで「夏といえば恋の季節」という方程式は、いったい誰がはじめに思いついたんだろ。なんで夏なんだ?冬ではダメなんだろか?夏といえば恋だからといって、人様が冬に恋していないわけではない。僕が思うに「夏といえば恋」の恋というのは、恋は恋でも「始まり」のほうのそれなのだ。恋の入り口の部分ね。夏とはみんなが、チチくりあう相手を探すシーズンなのである。みんな服装が開放的になって、心も開放的になっているから、「何かの弾みでっ」とか「何かの間違いでっ」も込みで、いわゆる「ひょんなきっかかけで」恋が始まる、それが夏なわけなのである。


それに対して、冬の恋というのは、夏に生まれた恋を暖めあう季節ですね。夏のホットな間に生まれた恋を、今度は燃焼させて自分たちが暖まるのが寒い冬なわけであります。別に上手いことは言ってませんよ。
だから夏の恋が恋でも「始まり」の部分なら、冬というのは恋の過渡期ということになる。そこから二人の愛が深まるかどうかが掛かっているのが冬なのである。


夏と冬を、行事で見ていこう。
夏というのでまず思い浮かぶのは夏祭り、花火大会とか海水浴だ。こういう所へは、もちろん知り合いの女の子やカノジョという存在を連れていくのにもありだけど、それ以外にも、不特定多数の見知らぬ男女が一同に会す場所でもあるわけだ。欲望をぎんぎんに猛らせた若い男と艶っぽい若い女が出会ったら、そりゃあんたねぇ、何が起こるかなんてわかったもんじゃないわよぉ(近所のおばちゃん口調)。聞いた話によると、夏祭りのシーズンになると、ラブホの表には「着付けができるスタッフがいます」というような看板がついているそうな。要は、「浴衣で乱れてもオッケーよ」ということなのだ。花火の他に何を打ち上げてんのかしらねぇ、まったく、汚らわしいったりゃありゃしない(再びおばさん口調)。


海水浴は言わずもがな。海水浴場なんてチャラ男とギャルのメッカ。「海水浴」の第二検索ワードが「ナンパ」であるぐらい(本当は知らんが)、夏の海は恋の入り口をガッパーッと開けているわけだ。夏の暑さに絆されて、「一夜の過ち」なんてのもあるかもしれない。大抵は一夜限りなのだろうけれど、さっきも書いたとおりそういった「ひょんなきっかけで」恋は始まる可能性も否定できないのである。



反対に冬はどうだろう。
クリスマスに初詣、バレンタインデーというラインナップである。よく考えてみると、クリスマスも(若い男女の行く)初詣もバレンタインデーも、情景として頭に思い描けるのは「二人っきり」というイメージだ。そこに今まではまったくの見ず知らずだった異性の介在する余地は残されていない。クリスマスも初詣もバレンタインデーも、具体的に乳繰りあうべきパートナーとしてあらかじめある人間が想定した上で、胸をときめかすものなわけで、まだ誰にも恋していない人で、クリスマスや新年やバレンタインデーを心待ちにしているヤツは、ただのおバカか、まだサンタさんを信じているガキだけだ。


ん?付き合ってなくとも、クリスマスや初詣は行くし、バレンタインデーで胸がときめく?むしろ、付き合う前にそういう行事を介してお互い親密になっていく、だと?


たしかにそうならば、冬だって恋の入り口的な季節なのではないかという疑問も成り立つ。でもしかし、僕が思うにもうそんな行事を二人っきりで参加するんであれば、付き合ってんのと同じ。カップルとさも似たりなのである。それとも何か?君たちのするような恋は、いちいち告白というような口先三寸で規定されなきゃ始まらんものなのかえ?
そういう意味では、やっぱり恋の本当の始まりは夏になる傾向があるわけだよ。冬の行事なんて、申し合わせ程度もの。
このように僕が言うとるのは、本当に真っさらさらの0から、何の関係もなかった二人がはじめる恋のことなの。


流行歌を見てみてみると、夏というのはバカ野郎というかお調子乗りな感じのものが多い。夏と言えばまず思い浮かぶのはなんといってもTUBEだ。彼らの歌なんて4、5分「夏だ恋だ夏だー!」と歌って気がつけばもう終わり、というものばかりだ(ウソです)。誰か特定の一人を想うという設定の歌よりも、不特定の水着ギャルをみて燃えたぎる俺みたいな詩世界のほうが目立つ。また、夏と言えばもうひとつ、サザンオールスターズが思い浮かぶ。サザンにも「真夏の果実」とか、誰か特定の一人を思い黄昏れる類の名曲はあるものの、やっぱり多いのは誰か一人の女に決めず、夏どっかーん的なノリの歌の方であり、ライブでも盛り上がる。


そんなこんなで、夏というのは「恋の始まり」、冬に向けて恋を作っておく段階なわけである。ところで、そのぎらぎらした夏のそのギラギラを生み出す着火剤となるのが、言うまでもなく「性欲」である。数年前に渡部篤朗も言っていたではないか。「愛なんていらねえよ。夏」って。夏には愛情なんてなくたって性欲のなすがままに行動すれば恋愛ができる、ということなのである。だから、これは単なる狙いすぎて失敗したドラマのタイトルではない。今一度振り返ってみると、ちゃんと含蓄のある言葉なのである。


愛と性欲が不可分なものなのかという問題。それは普遍的な問題だ。


これについてはしかし、かつて「松本紳助」で二人が面白い議論をしていたのを視たことがある。
ある回の放送で、紳助が男の「真の愛情」の量は「セックスの後の男」を観察すればいいと言っていた。男は事が終わった後は性欲が一気になくなる。普段、男の愛情は性欲で水増しされているから、本当に女性が愛されているのかわからないが、その「性欲ゼロ」の虚脱感に浸る状態の中で、自分のことをどれだけ気遣ってくれるか。その時の男の態度を観察することで、その女性に対する本当の愛情の量がわかるというわけである。つまり紳助は、男の愛情は普通は性欲と愛がセットでアウトプットされているものの、最終的には分離できるものとして考えているわけであり、「愛と性欲は別もん」説をとっていることになる。
すると今度は松本が、「男がフィニッシュした後のそれを「真の愛情」と捉えるのは、男にとって不公平ではないか」という反論をした。どうしてかというと、「性欲ゼロ」の状態になると愛情の方も基準値からマイナスされてしてしまう。だから、性欲ゼロ状態のときの男で本当の愛情の量をはかるのは、男にとって不公平であるといっているわけだ。先の議論だと松本は、性欲と愛情は不可分なものである、という見解をとっていることになる。


「愛と性欲は別もんなんですかねぇ?」みたいなことを、フロイトに聞いたとしよう。するとたぶん、胸ぐらをつかまれて「われ、ワイの本読んだ割にはちいともわかっとりゃせんようやのう」と河内弁で凄まれるのではないだろうか。それほどまでに精神分析的にいえば自明に、愛情なんてものは性的対象の過大評価にすぎないということになる。


しかし、時代が21世紀に突入しても未だに僕たちが告白するときには「付き合ってください」という言語しか持ち合わせていない。いくら進んだ者同士の男女だって、「セックスさせてください」と頼み込むのはトレンドになってはいないし、この先もならないだろう。あくまで愛情があるということを表明しないと、無粋なものになってしまうわけである。


よく使われる女の捨て台詞で「体目的だったのね」というのがある。こういう言葉には、「女の肉体であるならば誰でもよかったのか」という相手の男に対する失望も含まれている。別に私でなくたって、性欲が満たされればよかったのかということの対する怒りである。
しかし、次の場合も考えられる。確かに体目的(セックス目的)は体目的であったが、その女性の体でないとダメだったとしたら?対象がその人であるからこその「体目的」であったとしたらどうなるのだろう。


つまり、その男の最終目標がセックスだったとしも、「だれでもいいからセックスしたい」ではなく「あの子とぜひセックスしたい」ではどうなるのだろうか。「あなたと合体したい」は卑猥かもしれないが、「あなたと合体したい」ではどうなのだろう。それに「一万年と二千年前から愛している」のであれば、それは別段失礼なことではないのではないか。


話がまとまんなくなってきた。それもそのはず、僕が3000字書いた程度で結論出ていたのであれば、とっくの昔に誰かが答えを出していただろう。内田樹いわく、僕たちができることは、答えられない問題に対して繰り返しアンダーラインを引き続けるなのだから。


僕の夏休みの予定?
海水浴も花火大会も行きませんよ。家で本を読みます。夏が終わったときの肌の白さが、その人の人間的な奥の深さだと、思っていますから。



イマダ