SATCを視て変に共感している君に告ぐ


――issue34


つい昨日まで帰省していたが、テレビをつけると民放とNHKはどこもかしこもオリンピックばかりで視る気が失せるので、WOWOWばかりつけている。
しかしそんなWOWOWもなかなか強烈というか濃い編成で、先日まで深夜になると毎日「セックス・アンド・ザ・シティ」を6話連続で放送していた。民放のローカル局でも深夜にはSATC(略してそう呼ぶらしい)を4話放送していた。聞くところによると映画も公開されるらしい。
テレビで人気が出たならば、そのテレビで2時間スペシャルでもなんでもすればいいところをなぜだか血迷って映画というパッケージにして制作し、視る方は視る方でそれに(テレビだったらタダのはずなのに)金を払ってまで喜んで観に行く、という日本のローカルな風習が、世界的に適用できるとするならば、このSATCの映画化はその人気の高さを表している、ということになる。僕自身も、その存在は知っていたががっつりと視るまでには至らなかったこのシリーズだが、今回は毎晩6話ずつがっつり視た。


たしかに、おもしろい(福山雅治のものまねではない)。


女性の側から発せられる下ネタというのは、男と言って内容はさほど変わらなくても、そもそも肉体的には「やられている側」で、もっと言えば「語られる側」だったはずであったため、余計にショッキングでよい。

ニューヨークという街に生きる4人の女性。普段は「デキる女」として男勝りに働く彼女らも、女という性からは逃れることが出来ず、いろんな男に振り回されたり、振り回したりする。そういった日常をコミカルに描いているコメディーだ。このドラマは、そういう都会(シティ)で都会的に生きながらも、男を求めずにはいられないという女の性を持てあます女たちの生き方を描いた、さしずめ「文化への不満」(byフロイト)の現状報告ともいえる。もちろんニューヨーカーの実体はどうだかしらないが。


ところで、このSATCの女たちは全員30代独身女性。みながみな仕事である程度成功しているところからも、日本でいうところの「負け犬」であり、おそらく日本でもっとも支持している層もその部類にわりと親和性の高い人たちなのだろう。少なくとも一番の支持層が僕のような文系大学院生男子ということではまずなさそうだ。


おそらく日本の「負け犬」とかそういうスティグマに晒されている女性は、このドラマを「わかるわー」とか「あたしの恋愛観はミランダに近いかも」とか、集まって言い合っているのかもしれないが、そんなやつらに僕は言いたい。

SATCなめんなよ!、と。


突然どうした?と思われるかもしれないが、今日はSATCではなく、むしろそれを視ている側の「負け犬」とか、あるいは「腐女子」とか、それから「オタク女子」とか、そういったスティグマについてのお話。


先日こんな本を読んだ。

30女という病――アエラを読んでしまう私の悲劇

30女という病――アエラを読んでしまう私の悲劇


この本自体はさして面白くない(構成が単調で飽きてくる)。が、こういう女がいるということを知る上では参考になる。
「30女という病」。それは要するに<自分>がうるさすぎてどうしょうもない女のことなのである。何するにつけ<自分>をどうプロデュースするか、何をどこで食べるにつけて<自分>がどう思われるか、何を着るにつけ<自分>がどう見られるか。自分、自分、自分、自分、自分、自分、自分、自分、自分、自分とナルシシズムが増殖していく。そんな痛い女のことなのである。この本は30女が分析対象で、多少は既婚30女の痛さも扱っているが、大部分はやはり未婚、いわゆる負け犬のことについて割かれてある。
その『負け犬の遠吠え』は読んだことがあるが、あれは自虐、を巧妙に装った「自分本」、要するにナルシシズムである。読んでて、最初は自虐ネタをくすくす笑っていられるのだが、いつのまにやら鼻につく内容に変わっていることに気がつく。そういうのを「スティグマの転換」とも言うらしいが、女の自虐にはそういった<自虐を巧妙に装ったナルシシズムが、近頃多すぎやしないだろうか。


もちろん、ナルシシズムはあってしかるべきものだ。精神分析によれば、誰もが自己愛を抱えているのだから(そもそも自己愛が全くなければ人は生きていられるのだろうか?)。でも、それにも限度ってものがある。


SATCに話を戻すと、たしかにあの4人の女たちも、多少ナルシ入ってる部分もある。特に物語の語り手でもあるエッセイストのキャリーは、かなり自分率が高め。この人はさらに30にもなって結構キャピキャピしてるところもあるから、「スイーツ(笑)」でもあるかもしれない(あと、最近思うのだがエッセイストの中で、他にろくな肩書きがない人がいるが(誰か有名人の妻とか)、そういう人がいるからエッセイストも「エッセイスト(笑)」でいいんじゃないだろうか、と最近思う)。それでも、最終的に僕はSATCの彼女らを支持する。なぜなら彼女らはズッコンバッコンやっているからである。

なんだ、最終的にそこかよと思われるかもしれないが、他者と具体的な関係を持つ、SEXするということは、少なからず相手にリビドーが向いているはずである。特にSATCに登場する女性は性的にパワフルであり、男と男の下半身の欲しがり方も尋常ではない。そこの外向きに割かれたエネルギーの量というのに、男の僕は共感できるのである。


SATCの日本版が制作されたらどうなるだろう(実際にありそうだから怖い)。どのようなキャスティングが考えられるだろう。サバサバしてるミランダは深津絵里か?あるいは乙女チックの抜けきらないシャーロットは中年にさしかかりつつある国仲涼子(昔は結構好きだった)か?かなり性欲の強いサマンサはひょっとしたら杉田かおる

おおぉ・・・、見るからに負け犬が好きそうメンツではないか。この仮想日本版SATCでは無論、直接的なセックスは描かれない。事務所がOKしないという問題もあるだろうが、今の日本のテレビでは到底無理だろう。そう考えると、想像するだけで薄ら寒くなる、無味無臭の「女性同士の友情もの」のドラマのできあがりである。


僕の批判の矛先は腐女子とかオタク女子にも向けられる。というかね、腐女子とかオタク女子ではなくてもスイーツ(笑)とかいってスイーツ(笑)に該当する女性をスイーツ(笑)と言って罵っている「自分(笑)女」はみんな該当する。スイーツ(笑)の方々は多少痛いかもしれないけど、普通なりにリビドーが、性欲が外に向いているのである。


もっと言ってしまえばね、負け犬やオタク女子や腐女子を回り回ってアイデンティティにしている女ってね、要するに自分が「普通じゃない」と思いたいわけですよ。「あたしは普通じゃない」「あたしはちょっと変わっている」、そう思いがために自分を腐女子と言ったり、普通にキャピキャピした女の子をスイーツ(笑)とかいって罵っているわけでしょ?

なんでそうなるかというと、おそらくそれはナルシシズムがその唯一性においてのみ満たされるものだからだと思う。ミスコンだって、最終的にはたった一人しかなることはできない。「みんな可愛いから今年は全員ミスキャンね」と言われたって、エントリーした子たちは納得できないし、見ている方も納得できない。なぜなら、ミスコンの女性が輝くのは「あたしだけが愛されているっ!」、「あたしだけが特別っ!」という唯一性においてのみ満たされるナルシシズムによってなのだから。


だからこそ、「あたしは普通じゃない」と思いたくなってくる。
でもそうやって自分のことを「普通ではない」とアピールするにしろ、スイーツ(笑)とかいって他の女の子を貶めることによって相対的に自分を上げるにしろ、それって実に消去法的であって、ミスコンの女子のようにポジティブに「自分はこうだから普通ではない」というように、これこれこういう理由で自分が特別ということを言えないってことでもあるんだろうなと思う。そうまででして勝ち得た「普通じゃない」って、なんだか寂しくないだろうか。


もうさぁ、普通でもいいじゃん!と思うべきではないだろうか。普通を受け入れて、外界に関心が向いている人の方がはるかに醜くないと思えるのである。それに今時、「私普通ですから」って言ってる人の方が、よっぽど普通じゃないから。
そんな論理が成り立つぐらい、「私、普通じゃない」が今日本にあふれてる。


イマダ