好きな芸能人を「石原さとみ」と答えちゃ悪いか?※「」内は相武紗季でも可


2nd GIG


光文社古典新訳文庫のカバーの色使いが、原著の書かれた言語別になっていることに昨日気がつきました。
どうもイマダです。


飲み会などの場で、「好きな芸能人」を聞いたり聞かれたりすることは誰しもあるだろう。僕はこのような質問は、おもしろいものではあるけど別段深い意味があるものではなく、話題の種ぐらいにしか思っていなかったのだが、どうもそうではないらしい。たしかに考えてみれば、多くの男どもにとって「好きな芸能人」とは、「理想の女性像」の鋳型であるから、「好きな芸能人」を聞くことはその男がどのような幻想を女に対して抱いているのかを把握するための格好なツールなのだ。それは、こっちがあずかり知らない謎のアルゴリズムで構成される「脳内メーカー」なんぞよりも断然、その人のパーソナルな部分を知ることができる。
僕が思っている以上に「好きな芸能人」というのは、特に女性にとっては男の見方を左右する重要な「個人情報」らしいのだ。

それを初めて知ったのは、数年前であるが飲み会か何かで、知り合いのある女の子にこの「好きな芸能人」を聞かれ、僕が素直にその当時のマイベスト1、「石原さとみ」と答えたときだ。
その時の聞いていた女の子の反応は言ったら酷いもんだった。「(限りなくキモッ!に近いトーンでの)うわっ!」という驚嘆、というか悲鳴に近い声。そして見てはいけない物体を誤って見てしまった時のような後悔と嫌悪が入り交じった複雑な表情。
待て待て待てと。そっちが聞いておいてそりゃどういう了見だ?という話である。


ここで彼女の反応を如何に読み解くべきなのだろうか。
その質問は実は「そんなのいないよ、強いて言えば、、君かな?」ということを言え!という合図、もしかして僕に告白を促していたのだろうか?そういった「好意的」な解釈は「今年地球が二つに割れます」という未来予測よりも当たる確立が低い故、却下。そうではなく、そもそもこの質問は出来レースであり、僕イマダがどんな芸能人の名前を答えたとしても「(限りなくキモッ!に近いトーンでの)うわっ!」というリアクションが帰ってきていたのかもしれない。名前を出された芸能人の方、ご愁傷様という意味で。
そのような妥当な解釈もあるが、ここではやはり僕の質問に対する答えに問題があったようだ。

おそらく僕がそこで、「あと相武紗季とかかな?」などと続けていたとすれば、さらに相手の驚嘆ぶりには拍車がかかっていたことだろう。「『とか』って、他に何人いるんだよキメェ!」とさらに畳みかけられそうだ。大きなお世話じゃ。


女の子、特に同年代の彼女らはどうも石原さとみ相武紗季など、ああいう「いかにも」なタイプの女性芸能人を毛嫌いする傾向があるようだ(反対に、母親とかもっと上の世代の人に彼女らは好感をもたれそう。ちなみに「エリカ様」はそれの正反対だと考えられる)。
彼女の言う石原さとみの「いかにも」な部分というのは、芸能界という華やかな舞台にたっているわりには、「純朴そう」というか、「芋っぽい」というか、「あか抜けない」というか、女性らしさが少し欠けたボーイッシュな側面のことなのだろう。そこが僕のタイプなところでもあるわけであり、そういう彼女らの素朴さを毛嫌いする女どもに対しては、「さとみちゃんはなぁ、おめぇーらみてぇえにキラキラ着飾って男に媚びなんて売らねぇんだよっ!(当時の僕)」という反論のしがいがあるように思える。


だがそれに対しても、そのとき僕が相手の女の子からもらった目から鱗の反論(「教え」にも近い)がある。
違うのである。石原さとみ相武紗季のような飾りっ気のない女性ほどむしろ、男の幻想に裏打ちされた、幻想の盛られた存在なのである。女性から見れば、女の「飾りっ気のない」魅力というものこそが、男たちによって盛大に盛られた幻想だったのだと。

おお、まさにこれは「タダより高いもんはない」ではないか。
例えるならそれはおそらく、自分は無宗教だと喧伝する人間の家を訪ねたら、実はわけのわからん新興宗教団体の狂信者であったことが発覚、という話に感じる種類の不気味さ、キモさなのだろう(・・・例えが変ですまん)。つまり、自分が真っ当な人間であると信じ込む異常者、自分が異常であることに気がついていない異常者の怖さだ。好きな芸能人を聞かれて「石原さとみ」や「相武紗季」と答える男に対して女が感じるキモさは、そんなところにある。石原さとみ相武紗季がタイプと言う僕は、「女性教」などに入っていないと自覚しておきながらも、実は全然そんなことはなく、むしろその宗教の中でもコア中のコア、「純朴な女の子」という「宗派」の、それはそれは熱心な信者であったのだ。


石原さとみ相武紗季(ここにはさらに安田美沙子も入るだろう)のライン(どんなラインだ)とは、小倉優子の対比が面白い。


小倉優子のあのキャラというのは、前段の「いかにも」な女性タレント群(石原さとみ相武紗季安田美沙子など)に入るのかというと、そうではないらしいのだ。
なんでだよ!ゆうこりんだってキャラ演じてるじゃんかよ!と一見思うのだが、あそこまで戯画化されたブリッ子は、むしろ同性の女性から見ても「かわいい」の範疇に入るのである。だから飲み会などで「好きな芸能人」を「小倉優子」と答えるのは、もはや「あり」となる。特に近年は、番組で島田紳助にその化け皮をほとんどはがされたこともあり、開き直ったのかその仮面から素顔をチラチラッと見せるという芸風も彼女は覚えた。もし最初から、あの極度のブリッ子がいずれこのように破綻し、その破綻ぶり事態が面白くなると予想されて仕組まれていたとすれば、それは末恐ろしいが。


小倉優子石原さとみらの違いというのは、いわば「プロレス」と「格闘技」の違いと言ったらわかりやすいだろうか。小倉優子というのはいわばプロレスなのである。もちろん、面と向かってキャラ(やらせ)だと言うのははばかれるが、みなそれがキャラであることはわかっている。それと同じく、プロレスだってみなそこにブック(筋書き)があり、それがショーなのだということはわかりきっているのである。それを知った上で、リング上で巻き起こる事態を楽しんでいる。
それに対して、格闘技はガチ(真剣勝負)だ。いや、原則はガチなのだが、悲しいことに中にはブックがある試合もあるとは言われている。格闘技における八百長にはファンの目は厳しい。八百長の疑いのある試合があれば、すぐさまそれについてネット上で熱い議論が交わされる。それは、彼らファンが格闘技を愛しているからであるとともに、格闘技が「真剣勝負」という大前提の下でこそ燃えることができる「スポーツ」だからである。


どうだろう。この八百長には手厳しい格闘技ファンの目は、女たちが石原さとみら、「いかにも」な女性タレントを見るときの厳しい視線と似ているのではないだろうか。女性が、石原さとみ相武紗季という存在に対して持つ反感は、そのガチなのか八百長なのかどうか――演じているのか、それとも素なのか――がはっきりしないところ、その「曖昧さ」にあるように思える。そして彼女らは、それが「八百長」だと決め込む――いや、八百長であってほしいのかもしれないが。


女の曖昧さ。それは男を惑わすコケットリー(媚態)でもある。それに引っかかることで人類史上、男たちが何度痛い目にあってきたことか。
しかしどうだろう。反対に、すべてが理路整然とわかりやすくなることは、本当にいいことなんだろうか。わかりやすいということは、もうイジる余地がない、ということでもある。曖昧であるからこそ、僕たちはその対象に惹きつけられる。
例えば今、元JOHDANSの三又又三のエピソードが、お笑い界ではプチブームになっている。彼の同性に対するどを超えた親密さ。果たし彼は男色家なのか、それともヘテロなのか、バイなのか。観ている方からすれば、それはものすごく気になるところだ。しかし、彼自身はそれをはっきりとは明言しない。
彼のあのミステリアスな側面、曖昧さは、お姉マンズなどのはっきりとした人たちよりも、断然僕たちの目を釘付けにする。


かつて先人たちは啓蒙思想というものを打ち立てた。
ありていにいえばそれは、理性の光によって蒙昧とした世界とその真理を明らかにする思想だ。昔の人は、モヤが晴れ視野がはっきりとした先にきっと真理があると信じていた。彼らは、その「モヤそのものが真理なのでは?」という可能性を疑ってはみなかったのだ。
でも事態は違う。真理ははっきりしたものにではなく、むしろ曖昧なものにこそ宿るのである。


イマダ