夢、ヒステリー、同一化

1夢
フロイトは夢を三つの要素からなるものだと考えていた。夢思想と夢内容と夢の作業である。そしてこの三つの要素の関係は、夢思想が夢の作業によって夢内容になるというものだ。夢内容とはわれわれが寝るときに見る夢そのものであり、多くの場合「わけのわからないもの」である。他方、夢思想はわれわれの日常的な思考と同じように「わけのわかるもの」である。そして夢の作業とは、夢思想の「わけのわかるもの」を夢内容の「わけのわからないもの」に加工するものである。
この夢の三つの要素に関して、フロイトは次のように注意を促していた――

夢の潜在思想(夢思想)は、夢の作業がそれを変えて顕在夢(夢内容)とするところの素材です。どうしてみなさんは、素材とこれに形を与える働きとを混同しようとするのでしょう。そういう混同があったりすれば、ただ夢の作業の産物だけを知り、それがどこに由来するか、どうして作られるのかを説明できなかった人々にくらべてみて、なんの勝るところがあるでしょうか。
夢における唯一本質的なものは、潜在思想(夢思想)という素材に働きかけた夢の作業です。
(『精神分析入門』、『精神分析入門』所収、新潮文庫、上巻312頁。括弧内補足。)

フロイトがこう書いているのは、夢思想がわれわれの無意識的欲望であると受け取られてしまおうことが多かったからである。だが夢において唯一本質的なものは夢の作業なのである。夢の作業においてこそ無意識的欲望があらわれるのだ。
それにしても、どうして夢思想が無意識的欲望であると考えられてしまうのだろうか。実はこの誤解そのものに意味があるのではないか。この点について考えるためにも、フロイトが夢のメカニズムをどうとらえていたのかをあらためて考えてみたい。
夢のメカニズムは伝言ゲームを例として考えてみることができる。ある程度長いメッセージの場合、伝えられていくあいだにメッセージはだんだんと変化させられていく。最後の人に届けられる頃には、はじめにあったメッセージからはかなり異なったものになってしまう。この「はじめにあったメッセージ」が夢思想であり、「最後の人に届けられたメッセージ」が夢内容である。そして「メッセージの変化」が夢の作業であると考えることができる。
ところでわれわれが伝言ゲームをどう楽しむかというと、ふつうは「最後の人に届けられたメッセージ」から「はじめにあったメッセージ」を推測することによってではないだろうか。この場合、「はじめにあったメッセージ」を再現することが目的である。「はじめにあったメッセージ」を再現することができたとき、われわれはゲームをクリアし満足する。だがフロイトが注意するように言っていたのは、そこで終わりにしてはならないということである。フロイトの夢解釈(伝言ゲーム)において重要なのは、いかにして夢思想(はじめにあったメッセージ)が夢内容(最後の人に届けられたメッセージ)に変化したのかということである。それこそが夢の作業(メッセージの変化)なのであり、われわれの無意識的欲望はそこにあらわれる。夢思想(はじめにあったメッセージ)とはあくまでも夢の作業(メッセージの変化)について知るための中継地点であり手段なのである。夢思想(はじめにあったメッセージ)をあきらかにする必要があるのは、それがわからないと夢の作業(メッセージの変化)がいかなるものか知ることができないからである。
夢思想をわれわれの無意識的欲望であると考えることは、手段と目的を取り違えているのである。そしてこの取り違いに意味があるとすれば、それは本来の目的を見失わせることではないだろうか。つまり夢思想を無意識的欲望であると考えることは、夢の作業においてこそ無意識的欲望があらわれるということを隠蔽しているのではないだろうか。だがどうしてそれは隠蔽されなければならないのだろう。
夢の作業とはいかなるものなのか。ここで考えてみたいのは、フロイトが夢と神経症のメカニズムを同型のものとして描いているということである。夢を作るのは夢の作業であるが、神経症を作るのは抑圧にほかならない。ここで注意しなければならないのは、抑圧とはたんに「知っていることを知らないことにすること」ではないということである。それでは神経症において不可欠な無知は生じない。抑圧とは「『知っていることを知らないことにしたこと』を知らないことにすること」なのである。そこにおいてはじめて無知が生じ神経症が作られる。夢の作業も同じなのである。夢の作業はたんに「夢思想を夢内容にすること」ではない。それでは夢において不可欠な目覚めは訪れない。夢の作業は「『夢思想を夢内容にしたこと』を夢内容にすること」なのである。それによってはじめて目覚めが訪れ、夢が存在することになる。夢から目覚め、「わけのわからないもの」を見たと思ったときにはじめて、われわれは夢を見ていたことに気づく。このとき「夢思想を夢内容にしたこと」という夢の作業と同じかたちのものが夢思想と同じ位置に来る。だから夢思想を無意識的欲望であると考えてしまうのだ。夢の作業において無意識的欲望があらわれるということを隠蔽しているのは夢の作業そのものなのである。そしてそれは、夢の作業においてあらわれるわれわれの無意識的欲望は、夢を作り出すことにほかならないということを隠蔽するためではないだろうか。


2.1夢とヒステリー
「夢は願望充足である」とフロイトは定義しているが、それは「夢は願望を充足されたものとして表現しようとする」ということである。だからこそ願望を充足されたものとして体験するために、「すべての夢の中には、変装しているにしろ『可愛い』私が登場する」(『夢判断』、新潮文庫、上巻458頁)のである。この願望とはわれわれの無意識的欲望のことである。夢においてわれわれの無意識的欲望が実現されようとするのだ。実現されようとする無意識的欲望とはどのようなものだろうか。
「子ども時代はもうない」とはフロイトの有名な言葉であるが、実際にはフロイトはこう言っている――

「いちばん古い幼時体験はそのものとしてはもうありません(得られないの意)。それは分析してみると『転移』と夢によってとって代わられているのです」
(『夢判断』、上巻315頁。括弧内訳者補足。)

「いちばん古い幼時体験」とは、誰もが失ってしまった幼児期の記憶において残されているはずだったものである。それらは別のものに転移され、夢においてわれわれのもとに戻ってくる。つまり夢において実現されようとするわれわれの無意識的欲望とは、失われてしまった幼児期を取り戻そうとすることの中にあるのではないか。われわれは夢においてみずからの幼児期を再現しようとするのではないだろうか。
ここで再び注目してみたいのは、フロイトは夢と神経症のメカニズムを同型のものとして描き出していたことである。フロイトの分類によれば、ヒステリーは神経症のひとつである。つまりヒステリーにおいても夢と同じことが起こっているのではないだろうか。だからこそ夢解釈をヒステリーの臨床において使うことができるのであり、「夢とヒステリー」(『あるヒステリー分析の断片』)が書かれることになったのである。ヒステリーにおいてはその症状において幼児期が取り戻されようとしているのである。フロイトが症状形成を過去への退行や固着といったものとして見出しているのはそのためだと考えられるのではないか。
しかしながらここで疑問に思うことは、夢はだれもが見るにもかかわらず、どうしてだれもがヒステリーにならないのかということである。フロイトは「人間はみな神経症である」と言っているが、たとえそうだとしても具体的なヒステリー症状を発症する人とそうでない人が存在するのは事実である。ヒステリーと夢のちがいを考えてみたときに思い浮かぶのは、夢にはかならず目覚めのときが訪れるということである。さきほど考えたように、夢の本質である夢の作業は目覚めることでみずからを消し去ろうとする。だがヒステリーの症状にはそのような作用はない。ふつうの病気における症状とも異なって、ヒステリー症状はむしろみずからを持続させようとする。ヒステリーの症状とはいわば夢から覚めてなお夢を見続けている部分なのである。
ではなぜヒステリー症状は目覚めようとしないのか。それは、夢から目覚めることもわれわれの無意識的な欲望であったのと同様に、ヒステリーにおいて症状を持続させることもわれわれの無意識的な欲望だからである。症状は患者にとって、悪いだけではなくある意味よいものでもあるのだ。フロイトはこれを疾病利得と呼んだ。たとえば「あるヒステリー分析の断片」における患者ドーラは、ヒステリーになることによって父を心配させ、父の愛を独り占めすることができるのだ。症状形成は困難な現実にたいするひとつの解決なのである。だがその解決があくまでも部分的なものでしかないために患者は苦しむことになるのである。


2.2夢と同一化
「あるヒステリー分析の断片」において、フロイトは患者が同一化によってさまざまな症状を形成してきたことを指摘している。たとえば患者ドーラの原因不明の咳は、結核を患っていた父への同一化をあらわしているとフロイトは説明している。この例からもわかるように、フロイト精神分析における同一化とは症状そのものなのである。つまり夢と同じように同一化においてもわれわれの幼児期が取り戻されようとするのではないだろうか。ここで考えてみたいのは、同一化において取り戻されようとするわれわれの幼児期とはどのようなものなのかということである。
フロイトはこの症例において、患者が自分の周りにいるさまざまな人に同一化してきたありさまを描いている。その様子はまるで、患者は自分であることと他人であることとは別のことであるとは思っていないようである。われわれにとってこれはまさに病的なものであるように見えるだろう。だがわれわれも例外ではないのである。同一化によって取り戻されようとする幼児期においては自己であることと他者であることが矛盾するものではないのである。
精神分析によれば、生まれてきたばかりの子どもはまだ自己と他者との区別を持っていない。そのような主客未分化の状態から自分というものが生まれる契機こそ、エディプス・コンプレックスにおける父への同一化であると考えられるのではないだろうか。
エディプス・コンプレックスとは、子どもと母と父の三角関係において生じるものである。この三角関係において、子どもは母との一体的な関係を邪魔する父を疎ましく思う。だが一方では、子どもは母との閉じた関係を開こうとする父を望んでもいるのだ。この相反するものの葛藤こそがエディプス・コンプレックスなのである。だがエディプス・コンプレックスは破壊されなければならないものである。子どもは母との一体的な関係から切り離され、一人の人間にならなければならない。そのとき子どもがたどる道筋こそ父への同一化である。一人の人間になることとは社会的な存在になるということである。母との一体的な関係にあった子どもにとって唯一社会的な存在であった父へ同一化することによって、はじめて子どもは一人の人間になる。つまり自分になることは父になることであり、自己であることは他者であることである。同一化によって取り戻されようとする幼児期とは、自分というものが生まれる瞬間なのである。ヒステリー患者の症状は、同一化によってみずからを都合のいいように生まれ変わらせる試みなのではないだろうか。
しかしながらここで疑問に思うことがある。自己というものが同一化によって生まれるならば、ヒステリー患者のみならず、われわれもだれかに同一化しているはずである。それにもかかわらず、われわれがヒステリーではないのはどうしてなのか。
これはさきほど考えた夢とヒステリーのちがいの問題と同じものである。つまり、われわれにとっての同一化は夢と同じように目覚めが訪れるのである。われわれにとっての同一化は夢と同じようにみずからを消し去ろうとするのである。
父への同一化によってはじめて自己であることができたわれわれは、同一化の対象を絶えず取り替えながら自己であることを保とうとする。なぜならば自己であることは他者であることでもあるからだ。自己であることを保ち続けるためには、つねに他者であった自己を否定し続けなければならないのである。われわれはこの運動を続けていることによってのみかろうじて自己であることができるのである。
ヒステリーにおいてはこの運動が止まってしまっているのではないか。ヒステリーの症状はいわば他者になってしまっているのだ。だからこそヒステリーにおいて同一化を見出すことが容易なのではないだろうか。そしておそらくここにこそ、人間一般を探求するものである精神分析がヒステリーという特殊なものの研究から生まれた理由がある。ヒステリーとはいわば人間の静止した標本なのではないだろうか。


湯川