俺は俺的に俺が好き


2nd GIG


もはやほとんどの人が知っているだろうが、本場所の大相撲は朝青龍が優勝した。しかも三場所連続休場明け、さらに千秋楽まで無敗の14連勝で突き進み、今日同じく横綱白鵬に一度敗れはしたものの、優勝決定戦で今度は勝つ、というドラマのおまけつき。お前はサイヤ人か、というぐらいの大大大逆転復活劇であったが、その後の優勝インタビューで気になることを言った。
朝青龍が帰ってきました」。

なかなか場内を沸かせるコメントである。この言葉が指すのはもちろん、「三場所連続休場」という苦境から、彼が本来いるべき本場所の土俵、ファンの待つ土俵に「帰ってき」たということなのだろう。これだけでは、それ以上のことは言えない。場面をもっと遡らそう。テレビのスポーツニュースなどでは、先の「朝青龍が帰ってきました」は繰り返し流されているが、実は同じようなことを、彼が優勝決定戦を制した後、支度部屋に戻り大銀杏を整えてもらいながら、彼を囲んだマスコミの記者たちにコメントを返していたときにも、言っていたのである。そのときのコメントの方が、僕は印象に残った。


朝青龍朝青龍が戻ってきた」


これはどういうことだろうか。朝青龍朝青龍が戻ってきた。
同語反復的であるがそれは、今まで休場中だった朝青龍が、本来の朝青龍ではなかったということを意味し、実存する朝青龍とは乖離した、いわば観念としての<朝青龍>がいるということを意味するのだ。
何がそこまで、気になるのかというと、同じような発言をちょうど昨晩、土曜日の深夜にも聞いたからである。何を隠そうそれは、TBSのSUPER SOCCERに出演した、あのキングカズの口から。


「キングカズの一番のファンは、俺自身だからね」
おお、なんという名言だろう。まず、「キングカズ」という単語を、まさかキングカズ自らの口からを聞けるなんて。
彼の面影や雰囲気、誰かに似ている。いや、もちろん「キング」が「誰かの真似をしている」なんてことは、もってのほかだろうが、どの国の王様も同様に王冠をかぶっているように、ある道を極めた者同士が、本人の意識の外で不可避的に似てしまうということもあるだろう。
彼の伝説的なエピソードの数々、少年時代に早々と日本を抜け出し単身サッカーの本場ブラジルへと旅だったというスケールのデカさ、フランスワールドカップの代表落選という悲劇など決していいことばかりではない浮き沈みの激しい人生、そしてもはや言わずもがなである確固たる自信と、確固たるセルフイメージの主張。
そう、それは我が同郷のスター、矢沢永吉にそっくりなのである。カズは、サッカー界の永ちゃんだったのだ。カズにとってのブラジル留学の精神は永ちゃんの著書『成りあがり』に刻み込まれているだろうし、カズにとってのサッカーとは永ちゃんにとってのロックンロールだろうし、彼にとっての悲劇とは、何を隠そう不動産詐欺にあって50億円をだまし取られたという手痛いエピソードだろう。


朝青龍の「朝青龍性」とキングカズの「キングカズ性」は、ちょうど永ちゃんの「永ちゃん性」と一本の線で隣接する。


以前にmoso magagineにおいて、一世を風靡したアスリート(井上康生高橋尚子)がメディアによってあたかも一筋の物語における「最後には必ず勝つ無敵のヒーロー/ヒロイン」のようにして描かれ、それがその選手の後のアスリート人生において、むしろ重圧にすらなっているように思える、ということを書いた覚えがある。
しかし、朝青龍やキングカズを見ていると、そのように他者によって創り上げられた自己の虚像によって、ますます強くなっていくというタイプのスポーツ選手も中にはいることがわかる。朝青龍はメディアやファンが創り上げた、強くて傲慢な<朝青龍>という彼の虚像を、むしろ復帰に際しての「目標地点」、「<朝青龍>にまで戻る」ということを目標にした感があったのかもしれない。キングカズにおいては、彼がなぜ40歳を超えても現役のサッカー選手であるのかというと、それはずばり<キングカズ>のファンであるカズが、他のファンと同じように彼の現役生活をまだ見ていたいからである。


これは、精神分析でいうところのナルシシズム、という語で語れるだろうか。たしかに、彼らが固執する<我>には、自己愛的なものを感じないでもないが、僕はそれだけでは語れないと思う。


それよか、「シニフィアン」の問題であるかのように思える。
精神分析家のジャック・ラカンは、言語というものの問題設定を「シニフィアン(意味するもの)―シニフィエ(意味されるもの)」という関係性から、シニフィアンシニフィアンの関係性に置き換えた。
どういうことかというと、ためしに辞書を開いてみよう。どの単語の項でもいいのだが、ある単語の意味の説明には、不可避的に他の単語が必要となる。しかし、ではその意味を説明している当の単語の意味はというと、僕らはまたしても同じ辞書を開かなくてはならない。そして、その単語の項でも、同じ問題に突き当たるだろう。つまり、僕ら言語を使う人間は、その言葉を覚えた瞬間からシニフィアンシニフィアン無限回廊の中を、たらい回しにされる宿命にあるのだ。
しかしラカンは、そのシニフィアン無限回廊にはもはやそれ以上進みようがないという根源的シニフィアン、すべてのシニフィアンの<父>となる象徴的シニフィアン(またの名をファルス)があるというのだ。


それがいったい何という単語なのかって?
バカ言っちゃいけないよ。言葉で説明できたんなら、その単語はまだ根源的ではないわけだし、説明するといえばそれは必然的に、同語反復的にしかできない。


思うに、大相撲界の、あるいはJリーグ界の象徴的シニフィアンこそが、朝青龍であり、キングカズなのではないだろうか。
朝青龍とは・・・」の項には「朝青龍」としか記述できないし、「キングカズとは・・・」の項には、「キングカズ」としか書くことは許されない。
朝青龍朝青龍的に朝青龍」であるし、「キングカズはキングカズ的にキングカズ」なのである。パソコンで打つのもめんどくさいフレーズだったが、それよか普通なら何のことを言っているかさっぱりわからん!ということになるところだ。
がしかし、それでいいのだ(@赤塚不二夫)。それが朝青龍でありキングカズなのだから。


反面僕らは、どうだろうか。僕らなど、四六時中誰か、何かによって代理表象されてばかりではないだろうか。時にそれは好きな衣服を身につけることによって、読んだ本によって、視たテレビ、視た映画によって、僕らのアイデンティティはあくまで何かによって「代理」に表現される。「これが俺/私だ!」という、このシニフィアン無限回廊を突破する何かがあるだろうか。残念ながら、今のところはないだろう。
この無限回廊から抜け出し、根源的なシニフィアンになるための第一歩としてまず実践すべきこと。それは単純に、彼らのように自分にナルシスティックに浸ることだ。ためしに胸に手を当て自分にたずねてみよう、キングカズのように「あなたはあなた自身の一番のファンであるか」を、そしてそれを公然と宣言することができるのかを。できないだろう。ということはすでに、他のシニフィアンに代理表象されても「仕方がない」のである。
まずは自分に浸るのだ。しかし、その際「×××だから俺は俺が好き」ではだめだ。理由があるうちは、その理由によって代理表象されてしまう運命なのだから。


僕なら言える、「イマダはイマダ的にイマダが好き」、と。


イマダ