マルチメディア文化課程の根の深ーい問題 漂流1日目



「マルチメディア文化課程にいて困ることは…?
何を勉強してるか親に説明するのに苦労するところかなー。」


マルチメディア文化課程に所属していて、こういう会話をしたり聞いたりしたことはよくあると思う。いわゆる「マルチあるある」だ。
自分も他人に聞かれたり親に対して説明するときにいつも困った。メディア論、比較文化論、文学論、どう答えても自分が嘘をついているようで、しっくり来なかったのを覚えている。だから、「映画監督になる人とかいるよ」「演劇やってる人がいるよ」などとマルチ全体の属性を答えてその場をやり過ごし、後に「結局自分は何をやってるんだ?」という問いに苛まれたこともあった。いや、あまりなかった。



そこには、「人に説明できないような微妙な学問をしていることの負い目」、「役に立たないことを勉強している自分かっこいい!(国立なのに!しびれる!)」「私がしている学問は、選ばれし者しかできない高尚なものなのだ。その神託を私は受けた!(これはないか)」といったような、学問をする自分への自己言及的な視点が存在していた。


そうした「私はなぜ学ぶのか」といった意味自体を問うことは、いつの時代のどんな学生にも普遍的に存在していたと思う。しかし、マルチメディア文化課程の問題は、そうした問いについて考えることが「学ぶ対象」よりも優先されてしまいやすいところにある。





マルチメディア文化課程はその入試から、「当たり前のことを疑え」という価値観に従えるかどうかを試される。総合問題と称して、いわゆる受験勉強では全く対策のしようがない(かといって激烈に難しいわけでもない普通の)試験を課すのだが、そこで一番重要なのは「この問題にはちゃんとした答えがない」ということに気づくことだ。


たとえば1999年の問題。
レオナルド・ダ・ヴィンチの『最後の晩餐』を見せて、「この絵を見て気づいたことを書きなさい」と問う。


そこで、
・「この絵は14XX年に描かれた…」
・「キリスト教の○○をモチーフに…」
と答えると不合格で、


・「部屋の外が明るいのに、なんで晩餐なの?」
・「なんでみんな一直線に並んでテーブルに座ってるの?」
と答えると合格だ。


その試験で試されるのは、「受験勉強で培った知識以外が問われることもある」という現実に対して対応できるか、受験戦争が持つ価値観の外部から答えを出す力があるか、ということである。





そして入学してからは、メディア基礎論という授業で新入生が「大学」に対して持つイメージを壊しにかかる。壇上に先生が立って、黒板やスクリーンを使って授業をする、といった「ザ・大学」の講義形式を馬鹿にしたように、マルチの教授3名は教室前方の椅子に足を組んで座って、ただ雑談をする。
「大学の授業はつまらないものである」という価値観にすら逆行するかのように、なぜか授業は「面白い」。ちょっと贔屓しすぎか。


しかしその割には、麻雀は絶対やるな、サークルなんて入るな、バイトより他にやることがあるだろ、と、近代主義者のような厳格さを見せたりもする。大学ってのは自由なとこなのか、違うのか、学生は混乱する。でもそれが心地よくもある。


その授業には、「そうはいっても、お前らどうせサークルとか入るんだろうけどな」といった含みもあるし、別にサークルに入ったからといって教授に呼び出されて怒られたり卒業できなくなったりすることもない。(そうやって超自我を押し付けるところがポストモダンっぽい。)
それよりも、重要なのは、「大学生になったらサークル入るよねー」という価値観を「あれ?」と疑わせることだ。


マルチが取り扱う学問や、教授の話の内容はもとより、前述したような入試や授業などのやり方を通して、「あらゆるものは疑うことが可能で、それを認識した上で自分の価値観や考えを構築できるようになれ」と、マルチメディア文化課程は生徒に使命を課す。
そして、文理の壁を越えてマルチに才能を発揮する優秀な人材が育つことが、最終目標だ(と思う)。





それを(かなり強引にではあるが)簡単な言葉に置き換えると、「あらゆることに客観的になれ」ということだろう。しかし、マルチの教授陣が考える客観性と、入学してくる学生の考える客観性の間に、大きな隔たりがあることが、最初に書いたようなマルチメディア文化課程の持つ問題を大きなものにしている要因ではないかと思う。


「マルチでいちばん偉い顔のできるやつは、何もやってないやつである」


そんな論が、確かイマダくん周りの議論で生まれたと記憶している。これは確かに正しいと思う。
もし「マルチメディア文化課程 天下一武道会」なるものが開催され、映画を撮ってる人、演劇をやってる人、横国プロレス、文章道場の人、426、Re:Design、アクティカ、そしてなーんにもやってないやつ、全員が一同に介して勝ち抜きバトルをしたとき、「なーんにもやってないやつ」が優勝者になる姿は容易に想像できる。なぜなら、マルチで一番えらいのは、一番客観的な視点を持っているやつだから、だ。


なーんにもやってないやつは、あらゆることを疑える。映画撮ってる人に対しては、「それって結局、深夜ドラマと同じことやってるんじゃないの?」「それって結局、クドカンのやってることの二番煎じなんじゃないの?」…。
疑われたほうは、「分かってたけど、どこか目をつぶっていたかもしれない」という負い目を感じ、「そう…ですねぇ」と言わざるを得ない。


そのロジックは「客観的であること」が至上の価値観であるマルチに置いて絶対に負けない。


「あらゆることを疑え」と命令されてきた体には、それがたとえ評価に値するようなチャレンジングな行為であっても、どこかに目をつぶっている点で、「サークルに入ることと変わらないんじゃないか」という自己懐疑の念を生み出す。対象よりも、その対象に臨む自分の姿勢ばかりへと、考えが及んでしまう。「それでも俺はやっていくんだ」と思っていても、ある日ふと「なーんにもやってない人」に出会ったとき、まるで罪を懺悔するかのように気を病んでしまうのである。





マルチの構成員の多くが、「何を勉強しているか、人に説明するのがおっくう」という状況におかれているのは、そうしたエセ客観性が支配的だからだと思う。


本来客観性は、文学なら文学、デザインならデザイン、などと一つの領域を深めた(極めた)人がはじめて、別の領域に対して持てる視点だったはずである。映画論に対して、「それは文学でいうところの○○ですね。」と言うように、


「客」であるためには、互いに「家」すなわちホームが必要なはずだった。文学でも社会学でもなんでもいい。しかし、今マルチに溢れているのはホームレスばかりだ。


文理の壁を越えて様々な事象を複合的に対象とし、「マルチな才能」を発揮する人間を育てようとした結果、何の対象も持たない自意識が肥大した人間を生み出すことになった。





でも、こんな「本来客観性は…」なんてことを問うて、近代を復興しようとすること自体、「最近の若いもんは…」という陳腐な若者論と変わらない気もする。「なーんにもやってないやつ」に対して、「なんかやれ!」と言っても仕方がないし、もしかしたらそいつは「なーんにもしない」ということを努力してやっているのかもしれない。


こんな風に、問題の根の深さばかりが際立って見えてしまう。解決策がない。
でも、考えるのは楽しい、という、麻薬のような絶望感がポストモダン論にはある。
こうした矛盾を抱えながら、これから先も日々を過ごしていかなければならない。


マルチメディア文化課程という超自我は、これからもずっと付きまとい続ける。
でも、もう後悔なんてしない。




おおはし