触発されて応答してしまいました

2nd GIG


ウサイン・ボルト世界新のタイムでゴールラインをまたいだとき、僕はそれを弟と視ていたのですが、真横から走者を追うアングルのカメラを指しての彼の「このカメラマンが走った方が早いんじゃね?」という発言にやられてしまいました、どうもイマダです。手前味噌ですがなかなかの逸材です、弟。


このタイミングでなぜ<マルチ>論なのか、ということは個人的興味をそそられるのだけれどそれはいいとして、おおはしくんが先週書いてくれた。

「マルチでいちばん偉い顔のできるやつは、何もやってないやつである」



そんな論が、確かイマダくん周りの議論で生まれたと記憶している。これは確かに正しいと思う。

もし「マルチメディア文化課程 天下一武道会」なるものが開催され、映画を撮ってる人、演劇をやってる人、横国プロレス、文章道場の人、426、Re:Design、アクティカ、そしてなーんにもやってないやつ、全員が一同に介して勝ち抜きバトルをしたとき、「なーんにもやってないやつ」が優勝者になる姿は容易に想像できる。なぜなら、マルチで一番えらいのは、一番客観的な視点を持っているやつだから、だ。



なーんにもやってないやつは、あらゆることを疑える。映画撮ってる人に対しては、「それって結局、深夜ドラマと同じことやってるんじゃないの?」「それって結局、クドカンのやってることの二番煎じなんじゃないの?」…。

疑われたほうは、「分かってたけど、どこか目をつぶっていたかもしれない」という負い目を感じ、「そう…ですねぇ」と言わざるを得ない。


後悔日誌8/26


それにしても<マルチ>周りにはこんだけトライブがあったんだね(文章道場ってなんだ?)。発言を引用された者として応答すると、おおはしくんの論は大筋では僕の考えとたがわないのだけれど、細部の微妙なニュアンスでちょっと違う(追記:違っていないかもしれない。少なくとも当時はそう言っていた記憶がぶり返してきた。変わったのは「今にして思えば実はこうだったかな?」という僕の側の認識の変化によるズレに近い)。


おおはしくんは「なーんにもやってないやつ」を「客観的な視点を持」つことや、「疑える」というような能動性で捉えているのだけれど、そういうやつはおそらく<マルチ>の中の、さらに「なーんにもやってないやつ」のなかでもごくごく一部の輩であって、「なーんにもやってないやつ」の大多数はすなわち「よく分からんけどなんとなくそんな感じになったやつ」と同義で、つまり消極的、結果的にそうなったわけなのである。


「客観的な視点」というのに立って自分と考えを異とするトライブのやっていることに「疑」義を唱えるというような、いわば「批判精神」とも言えるようなものをもっているのは、ほとんど居なかったのではないか。大学の中でそんなことしている暇があったらバイトして金貯めるとか、彼女作ってセックス三昧とか、そのほうがよっぽど有意味だ。大学は単位を獲るだけにとどめておくのが最も「功利的」なのだ。


僕のように4年間、学校に行くたびに童貞であることをバレないように「なーにもやってないやつ」の仮面を被り、各トライブに積極的にコミットして楽しげに非「不純異性交遊」に興じていた同級たちに対して、「女の子たちと活動していて羨ましいなぁ」という憧れと、「ちんちん腐って死んでしまえっ!」という憎しみのアンビバレントを抱きながら、理不尽な批判を繰り返していた者とは、彼らははっきり言って別種なのだ。


にもかかわらず――というよりもだからこそなのか――そういう「結果的になーんにもやっていないやつ」というのはおそらく、<マルチ>というもののもつ「変なところだけれど一応1.5流国立」という利点を活用することで、なんだかんだいって1.5流の企業に就職して1.5流の給料をもらい、職場で見つけた1.5流の彼氏との1.5流の恋愛の末、1.8流の結婚をするのである。そして1.5流のマイホームで生んだ4.5流の子どもを育て上げるのだ。人生の終末、きっとその人は縁側で8.2流にまで落ちた夫と「大学時代はよかった〜」とお茶すすりながら1流の思ひ出として<マルチ>を振り返るのだ。
へいへい幸せなこったねッ!!


そう、ここにおいて彼ら「結果的になーんにもやっていないやつ」と我々は決定的にその立場を断絶する。<マルチ>に来てしまったことが「症候」となるか、セピア色の「思ひ出」となるか。


ただ、「するも選択、せざるも選択」(@宮台真司)の再帰的近代を僕らが生きているのだとしたら、<マルチ>で単位取得以外演劇も映画もマンガも音楽もセックスも就職もしなかった僕であっても、何も「しなかった」という決定をくだしているわけで、その意味で僕は彼らと大して変わらないのである。童貞を捨てるも捨てないも、すでにどちらとも選択だ。僕の周辺ではもはや常識となりつつあるが、30才までに童貞を捨てなければ一生童貞orNotは五分五分である。とすると、「捨てない」という当人にとっては単なる結論の先延ばしも結果、一生童貞という重大な決定とつながっていることとなる。


そう考えると、問題の重心は各人の選択の「正しさ」に移行するのだけれど、考えてみればわかるが「正しさ」だって多元的だし相対的だ。しかしそうはいうものの、あったり前のことではあるが正社員になる「正しさ」の方が依然、よっぽど正しいのだ。就職できなかった僕の「正しさ」はその点で決定的に就職したやつの「正しさ」や演劇や映画にコミットしたヤツらの「正しさ」に負けている。


ただ横暴な僕がそれで黙っていられるわけがなくて、周りのすでに社会人としていっぱしにサラリーマンしている友だちたちのくたびれた顔や、年がら年中盲目的に演劇やら映画やら“だけ”を信仰している輩の姿を横目で見るにつけて、お前らのが「正しい」わけねーよ、と叫ばざるを得ないわけである。

それが今のところの僕の決定。


イマダ