ラウンドワンのネットワークボーリングによって、「ボーリング場荒らし」が暗躍しはじめるであろう


ちゃお、みんなひさしぶり!恋に青春に仕事は、上手くいってるかな?
moso magazineのイマダだよ♪


何ごとにも好奇心旺盛な僕が最近気になっているのは、エグザイルの会社がいったいどこにお金を隠していたのかということと(僕はひそかに日本国の地中深くで開通していた「Choo Choo TRAIN」に乗せて北の半島の「マジヤバい国」に一時的に運びこまれていたのだとふんでいる)、ラウンドワンのネットワークボウリングだ。


ラウンドワンのネットワークボウリング、みなさんはご存知だろうか。それは全国に広がるラウンドワンの2つ以上の支店で、ネットワークを駆使してボウリング対戦ができるという画期的なシステムだ。去年当たりから大富豪バカセレブ・マリエが出演するCMがたくさん流れていたから、すでに知っているという人も多いのではないか。


いったいこのサービスはどう使うのだろうか?ホームページをながめるとこうあった
・全国支社やチェーンのボウリング大会に!
・地元と東京の同窓会に!ボウリング順位を競う!
・田舎のおじいちゃん・おばあちゃんとボウリング!
・東京支社と大阪支社のボウリング対決!


なるほどなるほど、これはたしかに便利だ。
思えば僕は、関東に上京してきて以来、地元のコミュニティをずいぶんないがしろにしてきた。もはや思い出の中にしか残っていない、セピア色した青春の日々。そしてそれをともにした地元の同級生たちは、すでに社会人になっているだろうし、もしかするともうすでに家族も作っちゃったりしてるかもしれない。そんな彼ら旧友と久々にボウリングを通して親交を深めたり、あるいはおんとし80のじーちゃんを呼んで、老体にむち打ってのボウリング対決!こちらが勝てば来年からお年玉3倍増!!
とはならねーよな。


ネットワークボウリング、実際にやっている人がいるのか僕は、はなはだ疑問なわけである。
だってボウリングである。一般人がそこまで血眼になってやるものではあるまい。せいぜい正月か盆に実家に帰った時、家族で何やるよと悩んだ末に選ばれる苦肉の選択肢、それがボウリングではないか。そしてふだんやらないから爪がわれたり腕がつったりして、わりとテンションを下げてから家に帰ってくるのが一般人クオリティーの「ボウリング」だ。


それに場所はふつうのボウリング場ではない。「ラウンドワン」である。誤解を恐れずにいえば、ラウンドワンドンキホーテは、僕の認める「Bボーイとギャルの似合う店」ナンバーワンだ。東京Walkerにもそのうち載るんじゃなかろうか。

Bボーイといったら、それはつまり「だいたい友達の悪そうなやつ」らといつもつるんでいて、拳に残る傷跡が親友の歯形と一致するような奴らである。学生時代、彼らは同じ教室に生息していたが、僕がノートに女の子のオッパイを数百個書いているうちに、すぐ隣で「肩パン」というサドなのかマゾなのかよーわからん暴力的な遊びに興じていたやつらである。そんなBボーイたちの巣窟、またの名をラウンドワンの門を、僕らがそうやすやすとくぐれるわけないではないか。


それに、一般的にBボーイというのは「社交的」とはいわれているが、その社交性というのはいわば内向きの部類のそれなのだ。
どういうことかというと、彼らの多くはもともと生まれ育ったその地元のコミュニティ内に成熟してもとどまり続け、そこで就職し、そこで結婚し、そこで子を作る。社交的というのは、そんなコミュニティ内の飲み会で酔うとちんこ出すとか、それくらい意味での社交性なのであって、彼らがコミュニティ外の人とネットワークボウリングとかいうアクロバティックなコミュニケーションをとるなんてのは、ちと想像しづらい。
彼らがコミュニティ外の人と関わるというと、どちらかというと「抗争」という熟語を思い浮かぶ。ボウリング球も別の用途に使うんじゃないだろうか。


というわけで、もともとラウンドワンを主戦場としていたBボーイ&ギャルの彼ら彼女らが使うという線も消えた。いったいこのネットワークボウリングって、誰が使うの?


ここで僕が目をつけたのは、順位だ。このネットワークボウリングは、登録すると全国順位でることになっている。こういったネットワークで順位が出るものものに、一番燃えるのはどんな属性の人たちか。


言わずもがなそれは、「ゲーセン荒らし」の方々だ。よくゲーセンのDDR(ダンスダンスレヴォリューション)や太鼓の達人などの、それもめちゃめちゃ難しいレベルの曲を、これまた超絶ステップや超絶叩きでいとも簡単にクリアーしてしまう彼ら。いったいどこに住んでんだとか、ふだん何してんだとか、幼子の母親からしたら「目を合わせちゃダメ!」な存在で、いろいろ謎多き彼らであるが、ネットワーク上にいるまだ見ぬライヴァルとの対戦に何よりも萌えるのが、彼らである。まさにこのネットワークボーリングに打ってつけの逸材ではないか。


それに、マイボールまでもって日々精進しているアマチュアボーラーと、彼らゲーセン荒らしには、不思議と共通点もある。それは、はたから見て「うわっ、うめ!!」と驚いてしまいながらも、「でもこんなもんにそこまでいれこんでもな・・・」という留保がついてしまうところだ。
それは野球で150キロの剛速球が投げられるとか、サッカーで無回転ボールが蹴れるとか、そういった驚くべき技とはまたべつの悲しきマイナー種目を志す者の負った宿命である。


というわけで数年後、いやもしかすると数ヵ月後に、平均250点近くをたたき出す「ボーリング場荒らし」が各地のラウンドワンに出現し、そこにたむろBボーイたちを驚かすことになるのを、僕は予言する。


イマダ

告知だよ

下々のみなさんどうも、イマダです。倒錯委員長は最近、以下のような案件でヨコハマをかけずり回っていました。


北仲スクール(横浜文化創造都市スクール)公開講座[第一期]



サブカルニッポンのアーキテクチャ


概要:いまや都市文化の重要な一角を占めるほどに拡大増殖中のサブカルチャーだが、定義は依然として曖昧で、「カワイイ」「クール」「ヤンキー」「オタク」と雑多で相互に矛盾する形容詞が無秩序にひしめきあっている。公開講座では、こうした雑居ビル的景観をひとつの「アーキテクチャ」として、内側と外側から複眼的に眺め、その社会的構築物としての強度を探る。



費用:無料(予約の必要はありません)

会場:ヨコハマ・クリエイティヴシティ・センター(YCC) 3Fスペース(〒231-8315 横浜市中区本町6-50-1)

みなとみらい線馬車道駅」1b出口すぐ/JR・市営地下鉄「桜木町駅

徒歩5分/JR・市営地下鉄「関内駅徒歩7分



主催:北仲スクール(横浜文化創造都市スクール)※

企画責任:清田友則+榑沼範久

企画協力:杉浦由美子

企画スタッフ:今田祐介+星野好晃+森原早苗



日程:

2009年

11月07日(土)16-18時 濱野智史「ニッポン・ネット・カルチャーの生態系―― 島宇宙化と動物化の時代の果て」

11月25日(水)19-21時 速水健朗ケータイ小説的郊外」

12月16日(水)19-21時 杉浦由美子「イケメンは好き?それとも怖い? 腐女子VSリア充 コンテンツと歴史における男性観の変容」

2010年

01月20日(水)19-21時 荏開津広「グラフィティ〜ストリート・アート」

02月01日(月)19-21時 五十嵐太郎「ヤンキー文化、ヤンキー建築」

02月17日(水)19-21時 倉科典仁×杉浦由美子「モテとホストと地方都市」(仮)



講師紹介:

濱野智史(はまの さとし): 著書『アーキテクチャの生態系』。日本技芸研究員。

杉浦由美子(すぎうら ゆみこ): 著書『オタク女子研究 腐女子思想大系』など。批評エッセイスト・ノンフィクションライター。

速水健朗(はやみず けんろう):著書『ケータイ小説的。』など。ライター。

荏開津広(えがいつ ひろし): 著書『人々の音楽について One Hand Crappin'』。東京芸術大学多摩美術大学非常勤講師。ライター/DJ。

五十嵐太郎(いがらし たろう): 編著『ヤンキー文化論序説』、著書『新編・新宗教と巨大建築』など。東北大学大学院准教授。

倉科典仁(くらしな のりひと):『MEN’S KNUCKLE』編集長。



※北仲スクール(横浜文化創造都市スクール):

横浜国立大学(代表校)・東京芸術大学神奈川大学関東学院大学東海大学京都精華大学の七大学によるサテライトスクール。「横浜文化創造都市スクールを核とした都市デザイン/都市文化の担い手事業」(文部科学省「平成21年度大学教育のための戦略的大学連携支援プログラム」採択)。「北仲ブリック」(1926年竣工の旧帝蚕倉庫本社ビル)内に設置(馬車道駅2出口すぐ)。2010年4月から正規授業開始。


そして公開講座Vol1、濱野さんの回のチラシもわたくし執筆させていただきました。
じゃじゃん。


というわけで、よろしくお願いします。


イマダ

『退屈論』と精神分析の狭間で妄想 漂流3日目



最近、本や映画でよく「退屈」という言葉が出てくるような気がして、(僕がそれを選んで読み取っているだけなんだろうが)読まずに放っておいた小谷野敦の『退屈論』に手が伸びた。



人は退屈する。
人は退屈すると、ぼんやりと死について考えてしまう。漠然とした不安が襲ってくる。
だから人は「遊び」を発明した。
その「遊び」を拡大解釈していくと、人の行為はすべて「遊び」だと分かる。
(性行為も、噂話も、物語・フィクションも、宗教も戦争も仕事も。)


そうして、人のあらゆる行為は「遊び=退屈との戦い」
すなわち「ヒマつぶし」だと分かった今、我々はどうすべきか。


というのが論の流れだ。



パチンコやゲームや映画など娯楽にとどまらず、
仕事もセックスも子育ても、
自分磨きも自分探しも、
すべてヒマつぶしだというのは、たしかにそうだと思う。


生きることとは緩慢な自殺である、と誰かが言っていたが、その緩慢さ=退屈と戦うことが「人生」だとすると、フロイトの「死の欲動」にもつながる考え方じゃなかろうか。ソリティアフリーセルマインスイーパを延々、それはもう延々とやってしまうのも、寿命をガリガリ削っていると思うと分かりやすい。


「でも、そんなこと言ったら、ぜーんぶヒマつぶしっちゃヒマつぶしだし、議論にならない。相対主義じゃないか!」
そんな批判に対して小谷野さんは自覚的で、「確かにその通り、全部ヒマつぶしである。」と認めた上でどうするべきかを説いている。


退屈論 (河出文庫)

退屈論 (河出文庫)




どうするべきか、それは「対象を持て」ということだと、僕には読み取れた。
どうせヒマつぶしをするなら、精神分析みたいなオカルトにはまって「自分」のことばっかり考えてないで、社会や世界のことを考えろ、という主張である。精神分析を痛烈に批判する彼の言葉はなんというかすがすがしい。



「退屈」を論じた教訓的な文章の多くは、自分の気持ちを変えることを勧める。自分を変えれば社会が変わるなどということを言う者もいるが、嘘である。


森田療法に限らず、フロイト精神分析も、自己を知ることを目指すものであり、社会変革の思想を蹉跌(さてつ)させるものとして働く。だが、私たちはいま一度、社会を変えてみようとするべきではないか。


何も、現代について行こうと無理な努力をする必要はない。むしろ、現代のスピード社会を変革する努力をしたほうがいい。(p218)

どうせ暇を潰すんなら、価値のあるヒマつぶしをしろ、という。そして、科学者カール・ポパーの言葉を引用して続ける。


「抽象的な善の実現よりは、むしろ具体的な悪を除去するために努めよ。政治的手段によって幸福を確立するということをめざすな。むしろ、具体的なもろもろの悲惨な状態の除去をめざせ」と。(p220)


大きな原理をもって世界を説明し、やはり大きな原理をもって世界に対応しようとするのは危険だと考えている。近代という時代は、何らかの大きな原理の現実への適用によって一挙に救いを得るという考え方に、多くの人間が取りつかれた時代だった。


社会主義をはじめとする社会変革の思想もそうだったが、フロイト精神分析が流布させた、幼児期の抑圧された記憶を思い出すと一挙に神経症が快癒するといった類の物語がその最たるものである。そのほとんどがホラ話の類だ。


私たちが捨て去るべき習慣は、何らかの原理によって生や社会ががらりと変わるといった考え方なのだ。(p231,232)

こうして批判されると、精神分析を勉強している身では、なんというか変な恥ずかしさを感じてしまう。
精神分析って、そんなに世界を変えてきたイメージ、無いんですけど!





やっぱり精神分析はどこまでも個別のもので、いくらフロイトが「心の科学的解明」とか「心の普遍的真理の探究」を目指したとはいえ、それが生身の人間に還元される限りにおいては、ケースバイケースだ。


鬱病にしても、症状自体は99%薬で治るが、結局そうした症状に陥ってしまう構造自体を変えないと根本的解決には至らない。そして当たり前だがその構造は個別に違う。ひきこもりからの鬱病か、職場のストレスからの鬱病か、母子関係か両親の死か、それが分からないままに症状だけが治っても仕方がない。そうした単なる風邪と「心の風邪」の違いは、精神分析を冷静に普通に、読んでいけば分かる(と思う)。



精神分析は、症状の治療(薬)だけでなくて、その症状の原因を突き止めて、それを回避改善する方法までをもセットで提供するのが仕事である。心の治療は決して一般論では進められないし、真理を突きつけるだけでは逆効果となる場合もある。

だからそんな、精神分析が世界を変えたなんて言われるとおそれ多い。


むしろ小谷野氏の言う「社会をがらりと変える物語」を助長したのは、精神分析から出発した(なんというか)「心理学っぽいもの」だ。精神分析の考え方、構造だけが一人歩きしていった。そして、そうした治療方法が一般論として売り物になり、「自分が変われば、世界が変わる」といった抽象的な論が振りかざされるようになったのである。





確かに、バイト先でよく見かける自己啓発本の多くに、「自分が変われば、世界が変わる」といった類の売り文句が多く躍っている。

中身はと言えば、「あなたが認めてもらえないのは、本当に認められたいと思っていないからです」とか「めんどくさい、と言って色んなことから逃げていませんか」といった分析から、「掃除をしましょう」「カーテンを変えましょう」「火曜日は外食をするようにしましょう」といった実践がずらっと掲載されている。そしてそれらはおそらく一つも間違ってはいない。

だが、問題はそれらが「一つも間違ってはいない」ということだ。



そうした分析や実践を個別のケースに移すと、うまくいかない。掃除にしても、トイレをすべき人もいれば、お風呂場をすべき人もいる。外食するのは水曜日がいい人もいるかもしれないし、金曜かも、土曜かも、週に3回かもしれない。とにかく個々人でそれは大きく違うのである。





「世界が変われば、自分が変わり、世界が変わる。」そうした循環の手助けをするのが精神分析の仕事であるし、特に精神科医斎藤環氏はそんな間違った精神分析が実践されている状況を「心理学化する社会」として批判している。


今回の衆院選にしても、「政権交代すれば全てが変わる!」といった「抜本的解決の夢物語」が強度を持ち、民主党優勢に傾いた。それは「心理学化する社会」の賜物だろうと思う。


そんな心理学化した社会の問題は、人が自己分析に耽り、自分以外の対象を持たなくなることだ。
「自分が変わり、」という次元でストップし、何度も上手くいかない自己分析を繰り返し、自己に執着する。

そうした人たちに対して、社会へと目を向けろ、と小谷野氏は言っているんだと思う。戦う対象を変えろ、と。もちろんそうした精神論が有効な場合はあると思うが、そうでない場合もある。
そのときに、適切な「世界の変え方」を提示する可能性を精神分析は持っていると思う。





文庫版あとがきでも氏は容赦ない。

血液型占いから、占星術、その他あの手この手のオカルトが、今の先進社会に跋扈(ばっこ)している。フロイト精神分析とかユング心理学というのもオカルトだが、前者など、長いこと知識階級にとってかっこうの退屈しのぎを提供してくれていた。

今では、精神医学の世界で、精神分析など採用している者はほとんどいない。もちろん、ラカンだって同じである。あるいは中沢新一のような密教的オカルトとか、茂木健一郎の脳化学系オカルト、トランスパーソナル心理学、風水思想など、さまざまあって、実に人気がある。亡くなったユング派の河合隼雄のほか、香山リカ斎藤環など、オカルト論客にも人気がある。

私はこういうオカルトを、ここ数年間、けっこうしつこく批判してきたが、最終的に、「オカルトでも何でもいいの、あたしはそれで救われているの」と言われてしまうとどうしようもない、という問題がある。しかし、「救われている」なら、まだ何とかなるが、「あたしはそれで最高の退屈しのぎを得ているの」と言われたら、もはや返す言葉はない。何しろいじめと違って、自分ひとりで楽しんでいる分には、特に人に迷惑をかけるわけではない。「じゃあ、何か代わりになる退屈しのぎを教えてよ」と言われたら、お手上げである。(p236)

自然科学でも文学でも何でも、「何か新しい発見がなされること」が長く支配的な「退屈しのぎ」になってきた。世界のあらゆることが「だいたい」分かってきたゼロ年代に、雑学やムダ知識への関心が高まったのは、もう対象がそのくらいしか残っていなかったからだ。


だからそれが進んで「脳」とか「自己」とか、分析に終わりがない対象へと向かうのは自然なことだと思う。

犬が自分の尻尾を追いかけてぐるぐる回るように、自己分析もぐるぐると自分の影を追いかけるだけだ。そうしたリビドーの対流を外に向けろと、小谷野氏は言っているんだろうが、それはけっこうしんどい。(そのしんどさは、「対象を失ったときにやってくる退屈」への恐怖なのだろうか。)嫌でも対象を持たなければいけない現実に置かれている人にとって、自己分析はとても心地いいファンタジーになる。





そして最後、「重要な退屈しのぎの術」として提示されるのが、変人や狂人を笑う、という方法だ。

電車の中で、自分のバッグのファスナーを開けたり閉めたり、繰り返している若い女とか、昼間から酒に酔ったおじさんとか、あるいは飲食店で店員相手に、雅子さんは努力がたりないわよ、紀子さんは立派よ、と延々と語り続ける、奇妙な帽子をかぶったおばさんとか、スーパーのレジにいるインド人にしか見えない中年婦人とか、変人を見ては、友人や家族にその話をして楽しむのである。
もしこの世から、こうした変人が一切いなくなったら、私たちはさぞ退屈してしまうだろう。(p237)

もし、これから必要とされる能力があるとすれば、それは「分析力」ではなく、「妄想力」だ。
「分析」は、相手や自己のことを「分かった気」になって思考停止してしまう恐れがある。変人を見ても、「アノ人は幼児期のトラウマが…」なんて言っていても面白くない。それよりも「妄想」を通じて相手や自己の「分からなさ」を想像で埋める力、「カレーばっかり食ったせいでインド人みたいな顔になったのかなぁ」と対象の面白さを具現化する力、それが礼賛されていくと思う。




そしてこの日誌も退屈しのぎになっていれば幸いなのだが…。
読者「読むんじゃなかった。後悔した。」
ごめん…。



おおはし